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空のキャンバス

 ロッカクという女を語るには、またサンテグジュペリの『星の王子さま』が必要となる。

 今ではあまり見かけない過去の名訳に、こんな一文があった。

『あの子が綺麗なのは、胸に……胸が大きいからだよ』

 至言だと思った。それを読んで以来、おれは女と会う時は必ずまずおっぱいを観察するようになった。クズハはその意味でひどく切なくなるやつだった。一方で目の前で、乳房を持ち上げるように腕を組むロッカクはとても、とても綺麗である。

「で、その博物館にお呼ばれしたわけなのね」

 とある喫茶の窓際のテーブルで、そうロッカクが話すのを聴きながらも、おれはまだ彼女の胸を見ている。この大きさ、そして形の良さの前には重力も意味をなさない。隣にいるクズハが霞んで消えるほど、この世の幸せを感じつつある。

「地下三階、地上四階のご立派な建物で、休日にはいつも満員、歩くのも苦労するところなのだけど、先日、二ヶ月ほどシャッターを閉めることになってね。どうしてだと思う?」

「話から察するに、おまえたちのチームの仕業だろう」

「仕業とはひどいわね。あたしたちは彼らから請われて、仕方がなくお仕事に行っただけよ。そりゃあちょっとはね、恐竜と一緒に寝起きするのって一度はしてみたかったことだけど」

 あそこに行ったことがある?と問われ、おれは口を閉じ、紫煙の行き先をじっと眺めた。

「シャッターを閉めるまで、あそこは飛び降り自殺の名所でもあったのよ」

 あの屋上には薔薇園があった。中心には噴水があり、なにかの有名な絵画を模した展示があったと記憶している。かつて背広にネクタイを締めていた頃、柚香とともによく歩いた。彼女が死ぬ前に、最後のデートで赴いたのもあそこだった。

 柚香は不思議な女であったと思う。いつも笑みを絶やさず、夢の中にいるような話ばかりをした。夏でも長袖を着て、跳ねるような足取りでおれの隣を歩いた。

 たとえば、こんな会話。

『無限に描けるキャンバスがあったとしようじゃない』

 彼女はまっすぐ上に指をさした。

『この空みたいに両手を広げても足りないくらいのキャンバス。ねぇ、あなたならなにを描く?』

 おれは黙って空をみあげ、寂しい口元に手をあてる。

 答えずとも彼女は勝手に話をすすめるのが常だった。

『虹かな。絵の具のすべての色をつかって、一面の虹を描こう。あるいは地球の歴史を最後までなぞっても面白いかも。この博物館のように』

 けらけらと彼女は笑い、両手を天にかざした。

 はじめて会った日から、酒を飲んでもいないのに明るく、よく喋る女だと思っていたが、柚香が重度の麻薬患者であると知ったのはその死後のことだった。ひどい頭痛持ちであるのは、生前本人から聞いていた。体があまり動かない日もあり、その痛みをごまかすために大量の薬物を接種していたという。それがいつからか非合法なものに替わっていた。

 だから、たまに思う。ひょっとしたら彼女は死ぬつもりなどなかったのかもしれない。

 ただ、いつものように、薬物の所為で、思いついたことをその場で実行に移してしまっただけかもしれないと。

 淡い夢であるが。

 その日は珍しく柚香の方から呼びだしを受けた。特段、普段と変わった様子はなかった。それはよく笑い、よく話したという意味だ。博物館を最下層から一階ずつ、生命の進化をたどってまわった。もちろん恐竜の化石も見あげた。彼は大きく、雄大であった。屋上の薔薇園には強い風が吹いていた。

 そろそろ帰るという段になって、彼女はおれに少し待っていて欲しいと言って傍を離れた。トイレにでも行ってくるのだろうと思い、外で待つことにした。人の流れの少なさを確認し、煙草に火をつける。しばらくして電話がかかってきた。

『なんだ、ちょうどいいところにいるのね』

 どこかから見ているのだろうか。あわてて火を消し排水溝に投げると、左右を見渡した。だが、あの特徴的なオカッパ頭はどこにも見えない。耳元のPHSから柚香の声だけが届く。

『ねぇ、――――?』

 やはり屋外にいるのだろう、後ろで風がごうごうと音をたてていた。

 うまく聞こえず、おれは黙って次の言葉がつむがれるのを待った。

『……』

 彼女がわずかに溜息をついたのがわかった。そして、風が弱まったところで、再び囁かれる。

『前に無限のキャンバスの話をしたでしょう』

 今度ははっきりと聞こえた。その後、上をむいたのは予感があったためではない。ぶつりと通話が途切れたかと思うと、頭上から降ってきたのだ。PHSが。先に。

 だから、その先は聞こえたはずがない。しかし時間が粘性を帯びて、落ちて近づいてくる柚香の口の動きから、その言葉は実際に耳にしたのと同じように、形となって深く刺さった。

『あなたのキャンバスに、私をのこしてね』

 おれは反射的に、彼女を受け止めようとしたらしい。〝らしい〟というのは、目覚めた病院で医者に聞かされたためだ。本来であれば目の前に大きな薔薇が咲くところを、真下に駆け寄ってともに潰れた。それから長い夢を見ていたような気がするが、もう思いだせない。

 代わりに記憶に残っているのは、彼女を抱いてアスファルトの上に転がっている時、ぼんやりと見た――。

「……やっぱり、まだ元気ないみたいね」

 目の前のロッカクがいつのまにかテーブルの上に、二枚のチケットをおいている。

「息抜きに、あたしの仕事っぷりを見にいくのはどうかしらって、そう言ったのよ」

 おれは隣のクズハを見た。

「気が利くな、ロッカク。じゃあ、お言葉に甘えて行ってくるとするよ」

 すると彼女はなんとも表現のしがたい表情でおれを見据えたが、結局は二人分のチケットを寄越してくれた。

 翌日、クズハと二人でその博物館を訪れた。あの頃からそれほど変わった様子はない。だが、クズハはここを訪れるのははじめてのようで、ずいぶんとはしゃぎながら順路をめぐった。おかげで行く先々で、奇異な目で見られてしまった。

 屋上にも赴いたが、薔薇園にはほかに誰もいなかった。きっとロッカクのおかげなのだろう。

 恐竜と再会の挨拶をすませたのち、新設らしきプラネタリウムを訪れた。平日であるためか、並ばずともはいることができた。座席に腰をおろし、天井を見あげる。

 なんだかデートみたいデスね、と隣のクズハが嬉しそうに囁いた。

「そうだな」

 おれの視界には、変わらずあの青い空が広がっている。

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