真夜中のブルース
街にでて、飲んでいた。
今晩のメインディッシュは厚切りのサーロインステーキ。焼肉で幻の逸品を食べるのもいいが、こういった一発勝負というのも気分があがる。今宵の店は素晴らしく、舌の上でとろけるような牛さんにもかかわらず、百グラム一五〇〇円という破格の値段であった。ビールに日本酒とたらふくに飲んで、実にいい気分で夜を歩いている。
両脇でアオとクズハが雄叫びをあげた。
「まだ、もう少し飲める気がしないッスか?」
「おお?! やるデスかァ?!」
といっても、腹は八分目を過ぎて膨らんでいる。それなら最後に雰囲気だけでもと、ピアノがおいてあるバーを訪れた。
アオはビール、おれはウィスキー。クズハはマスターに断りをいれて、持参したマイグラスにテキーラベースのカクテルを注いでもらっている。
二杯、三杯とグラスを乾かすうちに、なんだか気分がさらに盛りあがってきた。
「ピアノ、空いてるな」
「んっんー? もしかしてモグリさん、弾けるんデスかぁ?」
「ククク、さすらいのピアニストとは、おれのことよ」
千鳥足で部屋の隅におかれたアップライトに近づいていく。マスターが「まだ他のお客さんもいますから……」とやんわりとめるのを、酔いにまかせて押しきった。気がつけば椅子に座り、鍵盤に指をすべらせている。
「先輩、先輩。僕が伝説のサックスプレイヤーだと知ってそこに座るんスか?」
「おお、吹け吹け。っていうか、なんだそのサックス。どこから持ってきたんだ?」
「じゃあ、私は歌うデスよー。なんの曲がいいデスかねー」
興がのって客からリクエストをつのってみた。思った以上にノリがよく、最近アルバムをだしたEGO‐WRAPPIN´の色彩のブルースをリクエストされる。
「それじゃあ、いってみようか」
ドラムがいないので、ピアノのおれがコールする。流れだすサックスのメロディ。それに音をあわせながら肩を揺らしていると、クズハの意外にハスキーな歌声が店内を満たした。
三曲ほど演り終えたあとに待っていたのは、店中を沸かす拍手だ。
再びカウンターについて、三人でグラスを打ち鳴らす。
「いやあ、モグリさんのピアノ、驚きでした。むっつり部屋で飲んでるだけの人かと思えば」
「それを言うとアオのサックスがな。おまえ、どこで覚えたんだよ、それ」
「昔とった杵柄ってやつッスよ」
そこでマスターがつまみのチョコレートを差しいれてくれた。
気が利く店だ。こんな夜にはうってつけな場所だと思う。
「そういえば、そのサックス、店においてあったやつだよな」
するとカウンターのむこうか、髭のマスターが自然なノリで会話に加わってくる。
「そのサックスには、一つ、お話がありましてね」
「へえ」とアオは真鍮製の木管をなでながら、マスターにつづきを促した。思わぬ展開に、いったいどんな物語を聞けるのだろうと、おれもクズハも耳をかたむける。
「何年か前まで、有名な奏者の人がこの店に通ってくれていたんです」
温和な声だ。マスターは語りながらも、次の酒を注いでくれる。
「あれは六月の雨の日でした。連日しつこいほどに降っていた時期です。客足も遠のいて、店内もまばらの中、ぼくはひとりでグラスを磨いていました」
「そういう一日も、素敵だなって思うデスが」
「ゆっくりとした時間が流れていました。彼がきてくれたのも、そんな静かな夜でね。ふらりとサックスケースを抱えて、そこのドアをくぐって、スコッチを一杯頼んでくれました」
JPSを一本つまみ、火をつける。灰皿のガラスが店の明かりをぼんやりと反射していた。
「先ほどお客さんが弾いてくれたピアノ。あれはね、彼のために買ったものでして。店をはじめたばかりの頃、最初に常連になってくれた彼がサックスを吹くというので、その伴奏のために手にいれたものなんです」
「そんな思い出の品を触ってしまって、なんだか悪いね」
「いいえ、いいんですよ。最近はもう、ぼくが弾くこともありませんでしたから」
煙が天井へのぼり、薄くかすんでいく。マスターは目を閉じて、懐かしさを口元にたたえる。
「彼は言いました。長く通わせてもらったこの店に、最後のサックスを吹きにきたと。ぼくは笑ってこたえました。最後だなんて冗談はやめてくださいよ。まだまだ十年も、二十年も先までここで吹いてくれないと、誰がこの店にきてくれるんですかって」
「いい話ッスね」
「その日、彼は一曲だけ吹いて店をあとにしました。ベルト・ケンプフェルト、真夜中のブルース。先ほどお客さんが弾いてくれた曲の題名も、ここからきているんですよ。今でも思いだしますね。まるで夢の中にいるような、そんなひとときでした」
チョコレートをひとかけ口の中にいれる。ウィスキーの熱さが、それを甘く溶かしてくれる。
「このサックスは、別れの記念にと彼がおいていったものです。それから彼がこの店のドアをくぐることはありませんでした。ぼくは鳴らさなくなったピアノを前に、今頃どうしているのかなと思いにふける日々を送りました。そんなある日、別なお客さんから話を聞きましてね」
「それはどんな?」
「彼、死んだそうなんです」
グラスを唇につけたまま、おれたちの手がとまった。
「しかも、ここへ訪れた半月ほど前にね。肺がんで亡くなったそうです」
「……それは」
「最後にね、本当の最後にここへきてくれたんだと思うと、寂しいような、でもなんとも言い難い気持ちになりましてね。それ以来です、このサックスを店に飾るようにしたのは」
目の前におかれた木管をあらためて見る。くすんだ色で店内を映すその楽器は、黙して語らない。ただ、アルコールの夜にふさわしい渋い光を放っていた。
「今夜、お客さんが弾いてくれたブルースに、このサックスも久しぶりに音を奏でてくれたような、そんな気がするんです。もう誰も吹くことはありませんが、確かに彼の音色が聴こえた気がしました」
そのマスターの話しぶりに、おれと二人は顔を見あわせた。
「またまた。マスター、上手いんスから」
「そうデスよ」
その会話を最後に、おれたちはグラスを乾かし店をでた。
またいつか三人で、この店にこようと思ったのだった。