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砂漠の井戸

『砂漠が綺麗なのは、どこかに一つ井戸を隠しているからなんだ』

 サンテグジュペリの『星の王子さま』の一節だ。

 仕事を変え、決まった場所に長く住めなくなってからは私物のほとんどを処分してしまったが、この本だけは鞄に入れていつも持ち歩いていた。カフェや公園で人を待つ時、煙草を片手にたまに開く。長く読んできたために、ほとんどのページは覚えてしまっているのだが、どうしてだろう、この台詞にはそれでも繰りかえし読みたくなる不思議な引力があった。目をつぶれば、広大な砂漠にぽつんと取り残された古井戸の姿が浮かぶのだ。

「で、その井戸というのは、どこにあるんデスか」

 クズハの声に、意識が引き戻された。

 街から一時間ほど離れた山間の邸宅に、おれたち三人はやってきていた。バスはふもとの県道までしか通っておらず、ここまでずいぶんと初夏の日差しに焼かれた。豪気にもタンクトップ一枚のクズハなど、今日一日でプール通いの子どものような肌になってしまっており、先ほどからミネラルウォーターを垂らしたハンカチを額にあて、犬みたいに舌をだしている。

「井戸はきっと、砂漠のどこかに――」

「あ、そういうのはいいデス」

「……」

 ぬぐってもぬぐっても滴り落ちる汗が、彼女から優しさをも奪ってしまったのだろう。一抹の悲しみを噛みしめていると、隣からしわがれた笑い声が届いた。あのマンションの管理人だ。

 彼は帽子のつばをあげると「若い人はいいですね」と杖をついて歩きだす。

「ご相談した井戸は、家の裏手にあります。さっそくで申し訳ないですが、こちらへ」

 周囲には斜面を利用した畑が広がっており、袋入れされた蜜柑が山の緑に華を添えていた。

 田舎の土地とはいえ、この一帯がすべて彼の所有物だとすると、実はなかなかの資産家なのかもしれない。あの古びたマンションに勤める姿からは想像しがたいが……。

「昔は、この山一つが私のものだったんですよ」

 と、そんなことを彼は言う。スケールの大きさにかえす言葉が見つからないでいると、後ろでへばっていたはずのアオがいつのまにか追いついてきて、代わりに尋ねた。

「もしかして、この街の再開発の時にッスか?」

「そうなんです。お若いのに、よくご存じですね。今からもう……ああ、三十年になりますか。当時はこの一帯まで開発計画があったんです。それで土壌の整備にこの山を使いたいと」

 以前そんな映画を見たなと思いだす。あれは確かタヌキの話だったか。

「土地はただ持っているだけでは金になりませんから」と管理人は黄色い歯を見せた。「まぁ、売ると決めるまではずいぶんと悩んだものでしたけどね。先祖から受け継いだものでしたし……でも、結局ここまでは開発が進まず、私も妻も申し分のない生活を手に入れました。二兎を得るというやつです。あのマンションもそれで買ったものなのですよ」

 少し認識をあらためる。この人は管理人というだけでなく、オーナーでもあったらしい。とすれば、この臨時の仕事も報酬が弾みそうだぞと思い、自然と言葉づかいも丁寧になる。

「ですが、ここから通うには、あのマンションも遠いでしょうに」

 管理人は「ボケ防止にいいんですよ」とこたえ、ひょうひょうと先を歩いた。

「さあ、井戸はこちらです」

 山間には不釣りあいな豪邸をぐるりとまわる。すると隣接した畑の陰に隠れて、それが見えてきた。サハラ砂漠の真ん中か、あるいはデレク・ハートフィールドの小説にでてくる火星にあるような、まさに古井戸といった出で立ちで、覗きこめば底なしの暗さがたゆたって見えた。

「今でもこの井戸を使われているんデスか?」

 管理人は、まさかと笑う。

「これを使っていたのは、水道がくるまでの話ですよ。もう枯れて久しい」

「なのに、どうして」

「そうですね。どうして今になって、赤子の声など聞こえてくるのでしょう」

 今回はそういう話だ。


 場面は夜に変わる。

 相も変わらずおれたちは飲んでいた。管理人の爺さんが用意してくれた秘蔵の日本酒に、その奥方による手料理は、三匹の野獣の胃袋を温かく満たしてくれた。

 たとえば、この胸の平べったいお嬢さんなど、こうだ。

「ぷっひゅううううう! 山菜の天ぷらやっばあああい! なにこれ神なんデスかぁぁぁ?!」

 くだんの赤子の声は日が暮れてから響くのだという。着いたのが昼で、外は地獄のかんかん照り、そりゃあ飲むだろう。この三人がいて飲まないはずがない。あれから早五時間、ほとんどぶっ続けで杯を酌み交わしていた。

「奥さん、これお店だせますよ。このサクサクの衣、絶妙な揚げ加減、これぞ神の肴ッス。」

 むこうではアオが珍しく酒に飲まれた調子で、奥方と話し込んでいる。

「からかわないでくださいよ。私は家をでたことがない女ですから」

「そうなんスか? でも表の畑は、あれ全部奥さんがやってるんでしょう」

「全部ではないですよ。いくつかは人に貸していますし、週末にはこの人も帰ってきますから」

 隣で煙草をくゆらせていた管理人が、赤ら顔をアオにむけた。

「もっと手伝えればいいんですがね。まぁ、あのマンションがある限りは、本格的な土いじりはできないでしょう」

「マンションがある限りッスか。確かにあれは相当に古い。悪いものも憑いていたようですし」

「ええ、その節は……」

 その短い呟きには、溜息が混じる。

「まぁ、そろそろね、こっちの土地も売り払って、新しいマンションを建てようとも思っているんですよ。私も家内もそろそろ体が動かなくなってくる頃ですから。ここを離れるのは、色々と思い出もありますし、つらいところですが。あとは小さなマンションにでも住んで、死ぬまで悠々自適というのもいいかなと」

「それもいいかもしれないですね。でも――」

 アオが低く囁いた。

「でも、この土地には忘れ物があるでしょう」

 相当に酔いがまわっているのだろうか。霊感もなく、こういった仕事をしているにしては普段あまり興味を見せない彼にとって、珍しく怪談と踊る語り口であった。唐突に雰囲気を変えた彼を前に、管理人夫妻は言葉をとめて探るような目つきをむけている。

「おや、どうかしたんスか。そんな顔をして」

「いや……いったい、なにをおっしゃっているのか」

「だって、管理人さんの依頼じゃあないッスか」

 静寂を背景に、彼が問う。

「赤子の声が、聞こえるのでしょう?」

 その時だ。

 遠く、昏い窓の向こうから、それが確かに聞こえた。

 空気を震わす、甲高い泣き声――。

『ぁぁぁ、あぁぁぁ……』

 アオは目を細め、注がれた酌を一息で飲み干した。

 立ちあがり、おれとクズハに据わった目で語りかける。

「どうやらお仕事の時間みたいッスよ、先輩。クズちゃんもまだ歩けるよね。さあ、皆で夜を歩いて、またあの井戸へ向かいましょう」

 用意してきたのは手袋と縄梯子、そして手元を探るためのライトだ。

 すっかり日の暮れた道を注意深く歩く。管理人夫妻は互いに肩を寄せ、杖をつき、おれたちの後をおそるおそるついてくる。その合間にも赤子は断続的に声をあげていた。

 目的の古井戸についたところで、彼の耳に口を寄せる。

「この声、おまえたちにもはっきりと聞こえているのか」

「飲み過ぎの幻聴じゃあないようッスよ」

「なら、こいつは相当に――」

 危険な仕事かもしれない。

 霊感のない人間にまで影響を及ぼすなど、この世に相当な未練を残していなければできない芸当だ。たとえば、三人を死に追いやったマンションの少女などがそうだ。あの白く細い腕が思いだされる。そんな思考に沈んでいたところに、アオが縄梯子の一式を差しだしてきた。

「大丈夫ッス。先輩ならうまくやれますよ」

「やっぱりやるのは、おれなのな」

 なにを根拠に大丈夫と言うのかはわからないが、彼にはいつもの役目を越えて仕切るだけの自信があるようであった。

 腹をくくり、梯子を井戸に投げ込んだ。命綱は傍の樹に結び、手袋をつける。夜目にもわかる泥酔いのクズハには予備のライトを与え、穴の底を照らしてもらった。

 一歩、一歩、慎重に暗闇を降りていく。昼間は快晴であったにも関わらず、中に入れば湿った空気がつんと鼻をついた。先を邪魔する蜘蛛の巣を足で払って下を見やると、どうも意外に底は浅いらしい。手入れをやめて長い年月が経ち、土砂が堆積したのだろうか。それでも足がつくまでには身長の二倍は降りる必要があり、そのあまりの狭さには息が詰まった。

 最下部で縄梯子を手放した瞬間、赤子の声が一際大きく放たれた。

 壁面に反響し、二重三重にもなって届くそれは、耳に痛みを与えるほどで。

 そして、おれは赤子の正体を見る。

「泣いていたのは、おまえだったのか」

 見上げれば、まばゆいライトの向こうに、怯える老夫婦の顔が二つ浮かんでいた――。


「いやぁ、いっぱいお金もらっちゃいましたねー」

 口座からおろしたばかりの札束に頬ずりをするクズハに、深々と溜息をつく。

「おまえね。酔っぱらってただけのやつが、よく言うよ」

「あはは。まぁ、たまにはいいじゃないですか。私が働かないのは平和な証拠デスよー」

 いつものマンションに帰ってきていた。

 三人で卓を囲み、今夜は贅沢に寿司だ。かつて読んだ漫画では、深夜に無理を言って頼んだふぐ刺しにも関わらず一口しか食べない雀士がいたが、おれたちにはそんなもったいない真似などできやしない。昨日と同じく、野獣のように食い尽くした。今やガリすら残っていない。

 缶ビールを片手に煙草をふかし、正面のアオを見る。薄く笑みを浮かべる彼には、まだあの夜の色が残っている風に見えた。

「おまえは、あれが猫の鳴き声だって気づいていたのか」

 おれが古井戸から抱えあげたのは、二匹の痩せこけた仔猫だった。彼らの助けを求める甲高い鳴き声が、円筒状の壁面によって増幅され、赤子の叫びに聞こえていたのである。

 長いこと中に閉じ込められていたらしく、猫たちは地上にでた後もうまく歩けず、あの管理人夫婦にひきとられることとなった。蓋を開いてみれば幽霊の仕業ではなかったものの、問題を解決したおれたちには多額の礼が支払われ、皆が幸せになった。

 あとは答えあわせさえできれば、一夜のいい思い出になってくれるのだが。

 そうはさせじとアオはこんな台詞を言う。

「いいえ、僕はそんなの知らなかったッスよ」

「ええ? だって、おまえ。あんな脅しをかけておいて」

「あれはお金をいっぱいもらうための方便ッスよ。先輩だってよくやるでしょう」と彼は笑った。「まぁでも、そうッスね。行く前から考えていたネタではありました」

 あの人、はじめから金払いがよかったでしょう?ときりだされた。なにを言わんとしているのかわからずにいると、重ねて言われる。

「この部屋にいたという女の子の件。関わった人間が三人死んだとはいえ、普通、お払いに六百万も支払いますかね? ありゃ多分、本命はこっちだったんスよ。あの古井戸をなんとかしてほしくて、僕らの紹介を受けるために金を積んだに違いない」

「いまひとつピンとこないが……」

「猫が井戸に落ちたのは、おそらく最近ッス。あの痩せようから、一週間かそこらはいたのかもしれないですが、飲まず食わずじゃ生きていけないのは人間と同じでしょう」

 煙草の灰が長くなりすぎて皿に落ちる。彼の話がようやく理解できてきた。

「曰くつきの物件で三人死なせても放っておいた人間が、たったの一週間も耐えきれない理由があそこにはあったんスよ。あるいは――」

 猫が落ちる前から、赤子の泣き声が聞こえていたのか。

 かつて砂漠に墜ちたサンテグジュペリは、それでも砂漠の話を書きつづけた。あの老夫婦と井戸の間にも、なにか特別な結びつきがあったのかもしれない。街中にマンションを建てても、山奥から離れられなかった理由など、そういくつも思いつくものではないが。

「しかし」

 ビールを一気に喉に流しこみ、熱い息を吐いた。

「二匹も猫をひきとることになるなんて、あの夫婦も大変だったな」

 すると二人が驚いた顔を見せる。

 アオとクズハは互いに視線を交わしあうと、声をそろえて言った。

「猫は一匹だけでしたよ」

 灰がまた、ぽとりと落ちた。

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