白い光
「やあ、先輩。まさかきてくれるだなんて」
人懐っこい笑顔でおれを迎えいれたアオは、あれから二年も経つというのに、まるで変わっていないように見えた。
「あの仕事、まだつづけてたんスね。最近はどうスか、景気の方は」
「おまえらがいなくなって寂しかったよ」
彼がまっとうな職についたのは、前にメールをもらって知っていたが、訪ねるまでにはこんなにも時間がかかってしまった。悪いとは思っているが、おれはおれで失ったパートナーの代わりを探すのに忙しかったのだ。
「近頃のやつはまるで飲めなくてね。おまえらが特別だったんだって今更ながら思うよ」
「そう言ってくれると嬉しいッスね」
室内に足を踏みいれると、すでにクズハもきていた。彼女はコタツに埋もれながら、笑顔でこちらに手を振った。もしかして、もう飲んでるのか? 頬にはうっすらと朱が差して見える。
「ほら、さしいれ」
「お、鍋の具材ッスか? これまた懐かしい」
「冬にはぴったりだろ。酒も買ってきてやった」
「ははは、ありがとうございます。じゃ、さっそく準備しましょうか」
そうして、夜の宴がはじまった。かつて幾度もやったように、離れていた間の物語を酒のつまみにしながら。
「じゃあ、次は僕の初恋の話でもしましょうかね」
時計の針はもう二時をまわっている。彼のアパートはあまり物をおいていなくて、鍋が終わったあとは深夜のテレビの音をバックに、ただひたすら酒を飲んでいた。二年という時間は感じた以上に長かったらしく、会話のネタはなかなか尽きず、まだまだ眠れそうになかった。
「うちの親は転勤族でしてね、小学生の頃なんて特にいろんな街を転々としていました。それで短いながら北海道の団地に住んでいた時期があって、そこで気になる女の子と出会ったんス」
「ほほう。小さい頃に結婚の約束をしたってパターンか」
「だったら面白かったんスけどねぇ。その時は、ただ一瞬すれちがっただけでした。顔を見たのは、本当にわずかな時間だったんス。でも、その子のことは忘れられなくなりました」
ちびちびと日本酒をなめていたクズハが、惚れっぽい男デスねーと、くふくふ笑う。
だが、彼の話は想像していたものとは、少し違った。
「その子が気になったのは、彼女の母親のためでした。最初に会ったのは、その母親の方でしてね、団地の公園で遊んでいると、突然大きな叫び声が聞こえてきたんス。『早くきなさいよ!』って。すると僕の横をひどく痩せ細った女の子が駆けていきました。顔は……まぁ、当時から綺麗だったんだと思います。でも、印象的だったのは彼女の足の方でした」
「おまえ、足フェチだったのか」
「なにを言ってるんスか、先輩……」
アオが呆れた顔で溜息をつく。
「僕は好きなのはおっぱいッスよ!」
「だよな!」
野郎二人の右手ががっちりと握りあわされた。隣では昔と同じように半眼となって睨んでくる絶壁のクズハ。胸板の厚さがかえって哀愁を漂わせている。
「でもね、その子の足が気になったのは、違うんスよ。うしろ姿をね、見た瞬間に、僕は怖くなりました。足が真っ青で。そして、ところどころ小さく膨れあがって……今からすれば、アレ、煙草を押しつけられた痕ッスわ。でも子どもの僕にはそれがなにかわからなくて、そう、怪物だと思いました。ただ単純に、怖いって感じたんス」
「トラウマっていうやつか」
「ええ、ずっと忘れられませんでした。だから、高校生になって彼女に再会した時、マジびっくりしましたよ」
なんだかよくある展開じゃないか。そうつっこみをいれると、アオは面白い人生でしょうと口の端をあげる。相変わらず芝居がかった笑い方をするやつだ。
「高校二年の頃でしたね。その街にもどってきたんスよ。編入した先では小学校の頃にクラスメイトだったやつらもいて、まぁ、意外と覚えてくれてるんスよね。そいつらとまた会えたのはよかったなぁって感じだったんスが、久しぶりの挨拶早々『面白いやつがいるんだぜ』って」
「それが、例の彼女だった?」
「そうなんス。顔を見てね、どこかで会ったことあるようなって思って、次に彼女の足に目がいったんス。そうしたら、当時ってほら、ルーズソックスの最盛期ッスよ。なのに、彼女はひとりだけ黒いストッキングを履いていて。それでわかったんス。ああ、小さい頃にすれちがったあの子だなって。不思議なものッスよね」
おれは煙草に火をつける。こいつらのいいところは、部屋の中で吸うのを許してくれるところだった。つい感慨にふけってしまう。
「彼女はね、割とクラスの人気者でした。性格がちょっとぶっとんでて、人には見えないものが見えるって言うんスよ。オーラってやつッスか? 人に会うと、そいつのステータスが色で見える。たとえば、黄は幸せ、青は悲しみ、緑はちょっと困った状況にあるやつで、黒はなにかに怒ってる、そんな感じに。ある種の占いみたいなノリで、クラスメイトには頭のゆる軽い、ちょっとおかしな女の子として親しまれてました」
「平和な学校だったんだな」
「普通ならイジメのネタになっててもおかしくないッスよね。でも、彼女はすっげえ明るくて、ジョークみたいにそんなことを言うから、友達も多くて、みんな大好きだったと思います」
「そんな彼女とどうやって仲よくなったんだ?」
そう尋ねると、アオはうっふっふーと目を細めた。
「女の子と仲よくなる方法はね、同じ世界を共有することなんスよ」
「というと?」
「オーラ? 僕にも見えるよって感じでね。あれだろ? キミって結構黄色いやつだよねって」
「おまえは悪いやつだよ」
「僕って、性癖以外はいいやつですから」
懐かしいネタでかえしてくる。クズハのやつも声をあげて、けらけらと笑った。
「僕が小学生の頃、なんども彼女のことを思いかえしていたのはね、彼女の足が母親にやられたものだと理解したからッス。僕も親父によく殴られてましたからねぇ。子ども心に、ああ、この子は大人になるまで生きられないなって、そう思ったんス。だから、再会した時には、妙な……なんつーッスかね、共感というか、戦友みたいな気持ちになりました」
「戦友、ね」
「怖いという気持ちはどこかにいってしまって。嬉しかった、と思うんスよ。だから、彼女とはいっぱい馬鹿なことをやりました。二人でつるんで、ある時はホラー、ある時はロックに、いろんな手法で教室を沸かしましたよ」
こいつは当時から、人生は舞台の上だと考えていたのだろう。容易に想像がつく。
「ある時、彼女の足を見ました。ストッキングの下には、変わらずボコボコの肌がありました。でも、彼女はそれを笑顔で語るんス。これはあたしの勲章なのって。僕もね、背中の傷を見せて、二人で笑いあいました」
「ほほう。しかし、その足の痕はどうやって見たんだ?」
「そりゃ、ストッキングを脱いでもらわないと、見れないッスよね」
「聞いたかクズハ。こいつ、名言を吐いたぞ」
迷い言の間違いでしょうに、と彼女は肩をすくめる。苦笑して、おれは煙草をつぶした。
「さて、ここからが本題ッス」
卒業を待たず、アオはまた転校となった。当時はまだ子どもが携帯を持てる時代ではなかったから、彼女ともそれっきり。一度手紙をだしたが、かえってくることはなかったそうだ。
「大学にすすんで、僕はひとり暮らしをはじめて、転校地獄から解放されました。でも、そこでふと思ったんス。彼女はどうなのかなって」
人の本質は変わらない。年をとってからなら、なおさらだ。アオの場合、背が伸びてから殴られる日は減ったものの、家をでる最後の朝まで父親とのいさかいはなくならなかった。それでも許せたのは、離れる自由を与えてくれたからだという。このまま一緒にいても不幸な結果にしかならないと、そう理解できたのは互いにとって幸せだったと彼は語る。
だけど、彼女の方は? 離れることも許してくれない母親であったなら?
「不安が、いつも頭の隅にひっかかっていました。それは大学を辞めて、この特技を生かして探偵の真似事をはじめてからもずっと。彼女は大人になれたのだろうか。こうして気のあう仲間と酒を飲む楽しみを味わうことはできたのだろうかって。それでね、それで僕は……」
一九九九年、二十世紀もあと少しという初夏の昼さがりに、アオは彼女に会いにいった。
かつて、おれやクズハと組んでいた時にも見せてくれたように、彼の培った能力をもってすれば、名前一つから彼女の現住居を探しだすのはそう難しくなかったらしい。
不安は杞憂で終わった。
彼女はすっかり大人になって、結婚して、遠く離れた街で暮らしていたという。
「久方ぶりにあった彼女は、なんだか、とても幸せそうな顔をしていました。旦那さんは大きな会社の課長さんでね。年はひとまわり違いましたが、優しくて、大事にしてくれるんだって」
「初恋は実らないって話は本当だな」
「残念ながら、そうッスね。まぁ、その日は高校時代の話に花を咲かしましたよ。オーラの話とか、彼女は笑ってこたえてくれました」
ああ、昔はそんなばかな真似をしてたよね、と彼女は両手を振ったそうな。
「『キミって結構黄色いやつだったよね』って言ってやると、もうバカウケでした。大人になってもアオくんは変わらないわねってやりかえされて、内心ちょっとばかし傷ついてしまったり。そうして夜まで語りあいました。ひとときのロマンスってやつッス」
あるいは僕のほろ苦い初恋の話、と彼は締めくくった。
時計を見る。夜がふけるにはまだ遠い。
「一緒に組んでた頃の、おまえの仕事の話だがな」
日本酒を片手にアオへ問う。
「やめましょーよ、そんな昔の話」
「なに、やめた今だから訊きたかったんだ。おまえの、アレ。なんの手がかりもないのに関係者を探しだすアレ。どうやってたんだよ」
フフフ、とアオは変わらぬキザったらしい笑い方をする。
「あのね、能力っていうのは、人に影響されるもんなんス」
アオはビールの缶を持って、それを眺めた。
「酔っぱらいは紫色。肝臓をやられて死ぬ前の顔の色。茶色はもうすぐ死ぬ人。山の中で腐った体の色。そして、赤――これも彼女が教えてくれたんス。夜の教室で二人、今夜みたいに持ち寄ったネタを、眠くなって喋れなくなるまで交互に話す。そこで彼女が教えてくれた色の話」
「赤は、なにをあらわす」
「――人を殺した人の色。街中を歩けば必ず、一人か二人か見かけてしまう。彼女はたわいのない、一夜の笑い話として教えてくれましたが、僕はそれを生きていくすべとしました」
あの頃のアオの情報収集能力はずば抜けたものがあった。行方不明の関係者まで、どうしてあっさり見つけてしまうのか。それは、事故物件にはそういった人々がつきものだったからだ。
赤。人殺しの色。
おれひとりが見る世界だと思っていたが、アオもまた、同じおとぎ話の目を持っていたのだ。
「今だから話しますが、僕ね、先輩の顔もわからないんスよ。人の顔はすべて色で見える。先輩は諦めに似た紺の色。それに僅かばかりの橙色。これはね、昼と夜の境目を歩く、夕闇の世界なんス。先輩はあれッスから。僕らと違って、天秤がかたむかないように歩いてきたから」
「そうでもないさ」
「あの時、久しぶりに会った彼女もね――赤い色をしていたんス」
アオは微笑む。
「母親に、きっと別れを告げたんスね。僕はそういう人を食いものにして生きてきましたが」
その表情。それは彼が言う、夕闇の色に見えた。
「膨らんだ大きなお腹を抱えて、『あたし、今とても幸せなのよ』って呟く彼女の瞳を見て、僕はもう、駄目だなって思いました。もうこの仕事をつづけてはいけない。だから、何年もずっと辞め時を探していて、とうとう先輩よりも一足先に表の世界へ戻ってきてしまったんス」
「そうか」と言って、おれは窓の外を見た。
いつしか、むこうの世界は朝の陽光によって白みはじめていた。
「さて、そろそろお別れの時間ッスかね」
つぶれて寝ていたはずのクズハが、気づけば身を起こし、アオの隣で目を細めていた。
「久しぶりに先輩と会えて、嬉しかったッスよ」
「おれもだよ」
おまえらにまた会えて、よかった。
二人は並んで微笑を浮かべていた。
「さよならッス先輩」
これでさよならデスとクズハも囁く。
「ああ。さようなら」
おれは煙草とジッポーを持って、彼の部屋をでた。
空を見あげると、白い日差しがひとりきりの世界に降り注いでいた。