あした
あした 低温少女シリーズ 1
一年間をふりかえって 三年二組 古川 ゆうり
三年生の三学きの私の目ひょうは、歌がうまくなることでした。けれど、あまりうまくなれなかった気がします。
先生は、音楽の時間いつも私に「古川さんは座ってなさい」というからです。
私が歌がにがてだからでしょう。だから四年生の目ひょうは、家でも歌の練習をして
音楽の時間にみんなといっしょに歌う事です。
今年のはんせいは、本をたくさん読んだことです。
私が休み時間や放か後に図書室で本を読んでいると、先生が「1人で本ばかり読んでいる子は
ろくなおとなにならない」といったら、みんなが私と口を聞いてくれなくなりました。
だから一学期はあまり友達となかよくできなかったと思います。
四年生になったら、本ばかり読むのはやめて、苦手なとび箱や50メートル走も頑張って
運動会で努力しょうよりいいしょうを取りたいです。
いつもより早く眼が覚めた。
お母さんはきっとまだ起きていないから、朝ご飯を食べないで行こうかな。
近所のお姉さんが、朝ご飯を食べないようになってから痩せたという話を聞いてから、
私もそれを試したくて仕方がなくなって、お母さんに「明日から朝ご飯を食べない」と
言ってみたら「健康に悪いんだから絶対ダメ」と言われてしまった。
先生は「太っていると健康に悪い」って私に言ったのにね。
大人はその時その時で言っている事が違う。
けれど私はそれに気付いても、絶対に指摘したりはしないんだ。
理屈っぽい子は、可愛くないって言われてしまうから。
私から理屈をとったら、何も残らないのに。
「お勉強ができる古川祐莉さん」じゃなくなったら、私はあの場所で
どうやって存在していけばいいんだろう。すぐにみんなに忘れ去られてしまう。
結局、いつも通りにパンにマーガリンとはちみつを塗って食べて、私は家を出た。
音楽室の扉に耳を寄せる。音は聞こえてこない。
やっぱり今日も私が一番。団員になれば、絶対みんなから感心されると思う。
音楽室の正面の資料室。普段生徒に解放されているけれど、見事なぐらいに誰もいない。
存在すら知らない人もいるんじゃないかな、きっと。
私は朝と土曜日の放課後、いつもここで合唱団員達の歌を聴く。
本当は私も中でみんなと一緒に歌いたいのだけれど、音痴な私は入団を認められない。
だからいつもここで、音楽室からかすかに漏れてくる音を聴いていた。
そのとき、音楽室からピアノの音が漏れてきた。合唱曲ではない。
慌てて扉の上のほうの窓から教室の中を覗くと(背の低い私は思いっきり
飛び上がらなければ教室の中を覗く事が出来なかった)そこには、クラスメイトの吉田。
「え、じゃあピアノ始めたの今年に入ってからなんだ?」
「うん、合唱団の六年生にすごい上手い人がいて、その人みたいになりたいなって」
「そっか、じゃああたしも頑張ってみようかな」
鍵盤の上で、吉田の指が滑らかに動く。
お世辞にも綺麗とは言えない、たっぷりと肉のついた指だ。
けれどそんな吉田の指は、何故だかすごく綺麗に見えた、そのときは。
吉田の事を嫌ってるクラスメイトに(吉田はクラスのみんなにあまり好かれていない。
それは授業中突然歌いだしたり、宇宙の話をはじめたりする事もあるだろうが、
担任が吉田を嫌っている事が大きいのではないかと思う。私と、おんなじ)
そんな事を言ったら、まず笑いものにされるだろうけど。
「古川もピアノやってんの?」
「ううん、習い事とかしてないよ、あたし。けど最近ちょっとやってみたいなって思ってんだ。
ちょっと音感鍛えようかなーとか思っちゃったりして。えへへ」
吉田の顔から、表情が一瞬消える。「あれ」を思い出したんだろう。
担任が毎月音楽の時間にやる、歌のテスト。
クラスの全員をぐるりと一列に並ばせて、課題曲を決めて。
無表情にリバースされる課題曲のテープ。教卓の前、先生の冷たい視線。
掠れる声で、震える声で、なんとかワンコーラスを歌い終えた私がいて。
彼女は私に一瞥をくれたあと、また教卓の上のノートに視線を戻す。
「C」
冷たい声。クラスメイトの何人かの溜息がそれと混じった。
私はもう既に5、6人になってしまった列の一番後ろについた。
別のクラスメイトがワンコーラスをうたい終える。担任は評価「A」を言い渡した。
ホッとした顔で席に戻る彼女を、横目で見送る。
このテストはAを貰うまで席につく事が出来ない。
残りは5人、私は未だかつてC以上の評定を貰った事がない。
・・・・・これは今回もあの台詞が聞けるだろうな。
私はテープが巻き戻る音を聞きながら密かに毒づいた。
そう、これから私の前にいる5人が次々にAを貰うだろう。そして私は一人で教卓の前に立つ。
その予想の通りに、私がもう一度担任教師の視線に晒された時、私の後ろには誰一人いなかった。
私はそっと後ろを振り返る。廊下側前から二列目、ひとつだけ空いた席。
私の席。
本当はあの席は、ずっと空いていた方がいいんだろう。
おっといけない、よそ見してたら説教の時間が増えちゃう。
彼女はノートから顔を上げて、私と目を合わせる。
彼女に言わせれば、私は挑戦的で子供らしくない、濁った目をしているそうだ。
彼女の言う、ろくな大人にならない汚れた子供の目。
私は彼女よりやや速いペースで、彼女がこれから言う台詞を頭のなかで唱えた。
「また1人になっちゃったね、古川さん」
・・・そんな事言ったって1人ずつテストしてるんだから、最後に誰か1人残るじゃないか。
「2人いるうちはいいよ。お互いに競争しあって、高めあっていけるから。
けれど、1人になってしまったら何も意味がないよ」
そう、このあとだ。お決まりの台詞。
私は彼女の声にあわせて、ほんの少し口を動かす。
「本当に「お勉強」だけね、古川さんは」
彼女がそういうのはわかっているのに、もう聞き飽きた台詞なのに。
けれど最後の空席、自分の席に戻ると何故だか少しだけ涙ぐんでしまった。
悔しかった。
日あたりの悪い音楽準備室で、私の担任教師は黙って私に原稿用紙三枚半を突き返した。
出来るだけ平静を装ったつもりだったようだが、その顔には明らかに焦りの色が見られた。
私は二つ折りにされた原稿用紙をそっと開く。
タイトルは「一年間を振り返って」
ああ、これか。
私は何故だか嬉しくなって、廊下を全速力で走った。
さすがに職員室の前を通るときはスピードを緩めたけど、
いつもなら気になる周りの視線も、今日はさほど気にならない。
私から先生への、とどめのプレゼント。
それはおもいっきり緩急スローボールだけど、マウンドまで届けばきっとすごく重い玉。
「あいつさぁ、人間なんかひとつとりえがあれば良いっていったじゃん。
お勉強と理屈こねるのがとりえじゃ、ダメなの?」
いつか音楽室で私が吉田に言った言葉。
「お前さ、ホントに自分のとりえそれだけだと思ってんの?」
「けど、アイツいつも言ってんじゃん。古川さんはお勉強だけだって」
「へぇ、古川もなんだかんだでアイツに影響されてんだ。以外だな」
「なにそれ、あたしのこと馬鹿にしてる?」
「いや?」
なにもかも見透かされてるような目だった。
その目つきは、きっとアイツには子供らしくない汚い目と形容されるだろう。
アイツのいう綺麗な目は、生まれたての子供の目だ。
まだ何も知らない、愛される事しか知らない子供の目。
無条件に愛される事を既に忘れてしまった私や吉田には、もうそんな目は出来ない。
けれどそのかわりに、打たれなかった人間には出来ない強い目をするだろう。
階段の三段目から飛び降りて、教室に駆け込んだ。
原稿用紙のすみに、自分で買った「よくできました」のはんこを押そう。
10月には、私のたん生日があります。私がほしいのは、何もない明日です。
先生に怒られた日、ドッジボールで一番最初にボールを当てられた日、
じゅぎょう中ヘマをした日、いつも私はふとんのなかで「早く明日になれ」と、となえます。
失敗をした今日、早くなくなってしまえ。早く明日になれ。
けれど、私は先生にすかれていない子なので、毎日怒られます。
だから私は「明日になれ」ととなえながら、その明日がいつもこわくてしかたない。
だから私は何もない明日がほしいのです。明日のしんぱいなんかせず、何も考えず、
今日は今日が終わって昨日になって、明日は今日になる、
ただそれだけの明日をむかえてみたいです。
四年生になったらがんばります。