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第一章 離別 持たざる者の賭け

 ここに、ザレイという国がある。

 はるか昔は「悠久の千年王国」と呼ばれ、国家元首である「人頭王」のもと、大陸の一角に巨大な王国を築いていたと言われている。

 しかし、その平和も長くは続かない。

 地方併呑を繰り返した、その度重なる戦の恩賞として、ザレイの地は貴族たちに細分化されて下げ渡される。貴族たちは自領を掌握し、地方領主となり、やがて力をつけて独立した政治をとるようになった。

 王権は弱り、やがてその存在を潜めるようになる。

 そして今、ザレイ人頭王家フォルノワ朝は混乱期を迎えていた。前王の死を発端として起こった継承争いである。

 対立したのは、故・前王妃の産んだ王太子と、後妻である現王妃が産んだ第二王子。

 現王妃は対岸の島国バルジール王家の出身であり、その後ろ盾をもつ第二王子派は、王太子を王都より追放した。

 これによりザレイ国内は、圧倒的不利である失脚した王太子派と、それを掃討しようとする第二王子派の争いに乗じて、彼らを擁して名目ともにこの王国を統一せんとする地方領主たちが台頭していく事となる。

 世はまさに戦乱の時代であった。


 そんな中、アルが住むザレイ王国辺境の地、イアン伯爵領を治めるルーファス卿は、どちらにも属せずに沈黙を守っていた。

 わずか四分の一の兵力で東の隣領テラロッサの侵攻を撃退した若き鬼才の、不気味な沈黙だった。



「カナーシュの香料はいけない。確かに安価ではあるが混ぜ物が多く信用が置けない」

 帳簿を捲りながらアルが言った。

 その間にも羊皮紙が差し出される。それにひるんではいけなかった。一瞬のうちに目を走らせ、

「リウエンの紅は買うなら春だ。それ以外は都のご婦人には流行らない」

 裁決を下す。そして再度帳簿をめくる。

 今年19になるサヴォー家の跡取り息子は、よくできるとの評判であった。

 算術、交渉は言うに及ばず、地理や地方情勢に詳しく、損得勘定が正確、判断が速い。

 将来、商家サヴォー総元締のあかし『赤銅の盾』を胸に輝かせるにふさわしい、期待の人物だった。

「アル、お客様」

 鈴を鳴らすような声が聞こえた。

 アルはふと顔を上げる。産まれて何ヶ月かという赤子を抱いた若い女が、部屋の入り口からこちらを覗いていた。

「フラメイ姉さん」

 女の名を呼び、アルは帳簿を机の上に置いた。

 アルを囲んで次々と質問を繰り出していた従業員たちが一斉に不満の声を上げる。それを気にせず、アルは悠々と廊下に出た。

「いいの?」

 フラメイは扉を閉ざした執務室へとあごをしゃくってみせる。アルは大きくあくびをしてみせた。

「かまわないよ。おれがいなきゃ何もできないんじゃ、ただの給料泥棒だろ」

「しばらくは父さんがいないからね。アルは頼りにされているのよ」

「辞典代わりに使われてるだけだよ。義兄さんと同じだね」

 イアン伯爵領・南部を席巻する大商家サヴォー家の将来は安泰だった。

 家主サヴォー氏には、二人の子がいる。一人は姉フラメイ、もう一人は弟のアルである。

 フラメイは昨年にとある青年と婚儀を挙げた。恋愛結婚だった。青年はイアン城下の郊外にある大きな草園の次男だ。縁故という何よりも簡単な、しかし固いきずなで、サヴォー家は大手草園の専売取引権を得た。

 更には、気まぐれか、結婚後にふらりとサヴォー家の従業員となったフラメイの夫である。

 この青年、先天的な商いの才能を持っているのだが、その上、サヴォー家の取り扱っている商品についてよく勉強し、並外れた知識を得ていた。

 言わせればフラメイとの結婚を認めてもらうためだというから、ほほえましい事この上ない。

 御曹司であるアルと、その姉婿。そして一家の総元締であるダル・サヴォー。この三人がいれば、サヴォー家は繁栄し続ける。

 未来は、明るかった。

「お待たせしました」

 アルが応接室の扉を開けると、窓の外から中庭を眺めている客の姿が見えた。

「何かおもしろいものでも見つかりましたか?」

 少し笑い、アルが近づこうとすると、客はゆっくりとこちらを振り返った。

 濃く口髭をたくわえた壮年の男だった。首をカッチリと閉める襟の固い上着に、赤茶の外套を羽織っていた。

 男はアルを確認すると同時に、その顔に驚きの色をうかべる。

 アルは、

――またか。

 と、心の奥底で小さく呟く。

「――失礼。」

 男は、静かにそう言った。

「齢19と聞いていた。まさか、ここまで若いとは――どうやら、聞き違えていたようだ」

「違いありません。本年、五の月をもって19になりました」

 男は再度、両の目を見開いた。


 アルの外見は、まるで子供のようであった。

 人はある一定の歳を過ぎれば、男女のはっきりとした性をもって姿を変える。

 しかし、アルは変わらなかった。声は高く、肌は柔らかいまま、顔は丸みを帯びたまま。

 七年前……12歳の時から変わったのは、わずかに伸びた背のみである。それでもこの歳の男にしてはまったくもって低く、姉フラメイにやや及ばない。


「19……」

 ぼけっとした口調で、男は言った。

 あやかしを見るような目で見られるのはもう慣れた。だが、やはり気分のいいものではない。

「も、申し訳ない。」

 アルにはこの程度で笑顔を崩さない自信はあったが、やはり男は相手の気分を害しているであろう事は気が付いたようだ。慌てたように、次の言葉を口にする。

「齢19とすれば、アルサヴォー殿で、相違ないという事であろうか」

 とりつくように言った男の言葉にアルの心臓が大きく鼓動した。

 この男、役人である。

 そもそも、『サヴォー』家とは私称だった。家名は貴族にのみ称することを許されている。便宜上この一家は『サヴォー』を称していたが、公的にはこれは使えない。

 しかしそれでもサヴォーの血族であるという事を証明したいということで、長男においては名の最後にサヴォーをつけるようになった。

 よって、アルの公的な名はアルサヴォー。アルをその名で呼ぶこの男は、役人であるということになる。

「その通りです。わたしがアルサヴォー。商人ダルサヴォーの、長男です」

「イアン伯爵領、憲兵官のタクールだ」

 言い、男はアルに無言ですすめられた長いすに座り、ゆったりと長靴の脚を伸ばした。

 次に、懐を探り油紙に包まれた何かを取り出す。おそらく書状だろう。

「よろしいかな」

 男の言葉に慌て、アルは向かいに座る。

「……何か…?」

 心臓が早鐘を打つ。サヴォー家が位置するのは領国の中でも南部であり、領主イアン侯爵家の直轄の領地ではない。

 なのに、中央の役人が、なぜ。

 男は、アルの心中を知ってか知らずか、淡々とした手つきで油紙を広げはじめた。

「貴殿のお父上……ダルサヴォー氏の遺体が、一週間前にイアン城下で見つかった」

 タクールの言葉に、アルは目を大きく見開いた。

「発見場所はイアン城堀の中。壊れた石垣に服の端が引っかかっていた。身体に、刀傷が数十箇所。ヘドロと藻にまみれ、詳しくは判別できず」

「父と……決まったわけでは……」

 やっとの事で、アルは声を絞り出す。

 『判別できず』と言ったではないか。血縁者を差し置いて、どのやぶ医者が刀傷のある物騒な遺体を父などと判断したのだろうか。

「これを」

 言って、男は、開いた油紙を机の上に差し出した。

 燭台の光を受けて乳白色に光る紙の上で、それはアルの双眸に映る。

「遺体が胸につけておられた。宗主である証だとか」

 『赤銅の盾』のしるし。

 父の胸でいつも誇らしげに輝いていたそれは、藻屑と血にまみれ、黒々と錆付いていた。



 周囲に静寂しかないはずの田舎に住んでいながらも、アルは、街の喧騒に不快を感じはしなかった。

 なぜだろうと一瞬考えたが、すぐに思いなおす。あの無能な従業員たちに囲まれて裁決をする、執務室内の雰囲気とそっくりなのだ。

 そっくりではあるが、もちろん違う箇所はある。街の喧騒は明るくて陽気であり、かわって執務室での喧騒は、絶えず決断を乞われるわずらわしさがある。そこだけが、ふたつの違うところであった。

 しかし、それでも……たとえわずらわしさしか感じないにしても、こうして思うと、あの部屋がずいぶん懐かしく思えると、アルは思う。


 アルは、領国イアンの中心地に来ていた。アルの家があるイアン南部から、馬で三日の距離である。

 イアン城下に着いたアルは、まず遺体の引き取りをした。父であるかの証明にサインを入れ、すでに役人の手によって埋葬されている父の墓地へと訪れた。

 姉にはまだ知らせていない。アル自身、これが現実の出来事であると実感できなかったため、すべてが終わるまで黙っておこうとしたのだ。

 ただ、家を離れるからには義兄には事の次第を説明はした。義兄は何も言わずに、家のことはひとまず自分に任せて欲しいと言った。

 涙は、出なかった。

 尊敬していた父だった。父として敬愛していた。

 ただ、現実感が無い。遺体を見ていないせいかもしれないが、アルは、父死亡の知らせを聞いてからずっと、自分の体が夢の中に漂っているような感覚がしていた。

――黒仮面の男を、見た。

 遺体の第一発見者である憲兵は言った。

 夜、堀に降りて何かをしている不審な人物を見たという。気になって覗いたところ、その人物は憲兵の顔を見るやいなやその場を走り去った。

 そこで見つけたのが、サヴォー氏の遺体であったという。

 松明に照らされた男の顔は、上半分を覆う黒仮面に隠されていた。着衣は同色の上下と外套。まるで闇に溶けるかのように姿を消した。

 父を殺した人物へたどり着く唯一の手がかりだった。

 自分は父の仇を見つけたいのだろうか、それさえも分からない。ただ、アルは納得がいかなかった。

 善良な商人だった父がなぜ殺されなければならなかったのだろう。しかも、あのようなひどい方法で……

 いや、理由など決まりきっていた。

 ザレイにおける商人とは、身分が低い。

 法により正式に決められているわけではないが、ザレイにもっとも浸透しているアルナウスの信教に「相手に物を与える際に対価を請求することは不浄である」という認識が存在するためである。

 代替わりし、現在の領主になってよりは、商人に対する不当な扱いを禁ずる法ができたが、この法はまだ一般に浸透し切ってはいない。

 商人が意味も無く殺され、所持金を盗まれて川に浮かぶのは、いまだ珍しい事ではない。

(……レシィ……)

 アルは、旧友の名を呼んだ。

(……レシィ。お前は、正しかったのか…?)

 家生の身分からの脱却を願ったレシィ。

 貴人になることを夢見て、天へ昇ったレシィ。


 アルは、ひとまず今夜の宿を探そうと馬を引く。

 街中では、市民が騎士と馬を並べてはいけないという規則があるので、騎士を見つけるたびに降りるよりもこちらの方が楽なのだ。

 すでに日は傾いていた。

 体に力が戻らない。行きと同じように、街道を馬をかけてゆくことは到底無理だった。

 早いうちに街中に宿をとらなければ。

 アルがそう思ったとき――ふいに、影が降りた。長く伸びた夕方の影が、視界を暗くする。

 アルは顔を上げた。目の前に、三人の男が現れる。

 男たちは赤茶の外套を着ていた。役人か。まだ、何か自分に用があるのだろうか。

 そこまで思い、アルはハッと意識を取り戻す。

「父を殺した犯人が分かったのですか!?」

 叫び、アルは男たちに駆け寄る。途端、そのままの勢いで腕をひねり上げられた。

「商人ダルサヴォーの息子、アルサヴォーだな」

「何を――」

「卿の命により、連行する」



 イアン本城は、幾重にも防壁に囲まれた堅牢なつくりをしていた。4年前、イアンが前の城主であった際、ここには防壁は無く城下町も無かった。

 現在のザレイの領主・イアン伯爵ルーファスは、アルより三つ年上、齢22の若き領主である。

 かつてはイアン伯爵家傍流の子で、18の歳で宗主である伯父殺しにより主家乗っ取りを成功させ、イアン伯爵の地位に着いた。

 翌年、19で東の隣領テラロッサからの侵攻を、たった四分の一の兵力をもって撃退する。

 人呼んで“イアンの鬼才”。また、空を支配する鷹のようにつねに悠然とした体を崩さぬ事と、黒曜のような美しい黒髪をもつため、“黒鷹伯爵”とも呼ばれる。

 ……日の終わりを告げる赤い日照に、黒塗りの城内がそびえ立つ。それは、いくさの赤き血の上に君臨する、領主ルーファスそのものに見えた。

「………」

 押し黙り、アルにはただジッと眼前を睨む事しかできなかった。


 松明の掛かった回廊を進み、やがて連れられた先は、石牢であった。

 目をこらす。薄暗闇の中、一人の騎士がそこにいた。

 アルをこの場に連れ込んだ役人共と同色の外套を着ている。

(イアン伯近衛騎士隊……!)

 アルの頭に、何時かに聞いた話が浮かび上がる。

 イアン伯爵の護衛隊。揃いの赤い外套を着、戦場は言うにおよばず、日常までもってしても、彼らはイアン伯爵を守護する。

 噂では近衛騎士隊は二隊あるという。表と裏。赤い外套の騎士隊は護衛を司り、もうひとつ、諜報を司る騎士隊が存在する。

「……近衛騎士長さまが、下賎な商人などに何用で?」

 静かに告げたアルの言葉に対し、帰ってきたのは思いもよらぬ返答であった。

「商人ダルサヴォーの息子、アルサヴォー。貴様の父はその立場を利用し、隣国の間諜をしていた可能性が高い」

 騎士の言葉に、アルは声が出なかった。

 父は、ただの商人なのではなかったのか?

「よって貴様を含める一門すべてに、同罪の嫌疑がかかっている。貴様は、犯罪人だ」

「そ、そんな――まさかッ……!」

 その時ふと、アルの頭に引っかかるものがあった。

 さきほどの憲兵、なぜ自分を捕らえなかったのだろう。

 街中で自分を追い拘束するよりも、遺体引取りのサインをするために訪ねた詰所で捕らえてしまったほうが容易いのではないだろうか。

 アルの父親が間諜であることを憲兵に知らせない事に、何か意味があるのだろうか?

「話を聞けェッ! この商人風情が!!」

――ガツッ!!

 頭に浮かんだ謎は、打擲ちょうちゃくの痛みによって遮られた。

「自身の卑しさを理解しておらぬようだな?」


 騎士の言葉に、アルの頭の中で、何かがはじけた。


「ふ……はははは……」

 いきなり笑い出したアルを見て、騎士と取り巻きの数人はうろたえる。

 馬鹿な話だ。

 父はたわむれに殺されたのだと思った。

 商人という身分のせいで、死を背負わされたのかと。

 しかし、父は隣領からの間諜であったという。

 それでは、重き枷に思えたこの身分は、全く関係の無いものなだろうか?

 ――違う。

 嫌疑のみで棒で打擲される。到底ありえない扱いだった。

 それもこれも、自分が商人であるからだ。 

「そうだ……貴様らはいつもそうだ……所詮おれたちのような商人なんぞ獣扱いよ。…我らは人ではないとでもいうのか! 貴様らの高慢のせいで、おれたちがどれだけのものを奪われたか分かっているのか!」

「くっ……黙れッ!」

 罵倒のことばとともに何度も激しく打擲ちょうちゃくを受け、目の前が真っ暗になる。ぬるり、と生暖かい液体が流れ出てくるのを感じていた。

 血など、関係ない。流れてしまえ。すべて流れてしまえば商人でも何でもない存在になることができるかも知れない。

 たとえ貴族であろうとも、他人がことばを口にすることをやめる事はできまい。

 これが自分の生きた証なのだ。せめて気の行くまで叫んでやる。自分の心の中の激流をすべて吐き出してやる。

「畜生、畜生! お前らはどうしてそう、おれらからすべてを奪おうとする!?」

 戦争など起こして、喜ぶのは貴族たちだけだ。

 テラロッサ侵攻当時、自由売買を保障されていなかった商人は、ていのいい物資運搬に使われただけの奴隷であった。

 そして、兵にさえならなければ、レシィは死ななかった。

「返せ! 親父を返せ! レシィを……レシィを返せぇーッ!!」

「……何をしている」

 声がした。その場の一同がそちらを見やる。

 2名の騎士を傍らに従えて、黒い外套を羽織った一人の男がこちらへと歩いてくる。

――と――

「ぐぁっ!!」

 と、声が上がる。打擲を行っていた近衛長官が、現れた外套の男にその顔面を拳で強打された。

 不意をつかれて直撃されたその拳により、近衛長官は低い声でうめき声を上げながら、顔を抑えてその場にうずくまった。

「……このような扱いをしろとは、命じておらぬ」

 低い声であった。しかし、そのことばは明瞭に響く。

 発音が美しいというわけではない。男自身が無言で「我が声をよく聞け」と、その場に属する全ての者に命令を下しているのだ。

――ぞくり

 と、全身が総毛だっていた。その場にただ立っているだけで、空間を己がものとすることにできる威圧感が、その男にはあった。

 アルはすぐさま、床にこすりつけるように頭を下げる。

 ビリビリと空気を伝わって感じるその様子に、体から、震えが一向に止まらない。

「……許す。顔を上げよ」

 命じられ、アルは全身を席巻する恐怖を懸命に押さえ込み、恐る恐る顔をあげる。

 自分の眼前、すぐ傍に立ちはだかるのは、20すこしの、まだ若い男であった。

 しかし、その眼光は今まで見た何者よりも鋭い。黒く長く伸びたまつ毛にふち取られた漆黒の眼球が、ひとたび視線を向けられれば心をゆるめる事などできぬような光をまとい、こちらを凝視している。

 肩にかかる長い髪は、雨粒を受けたカラスの羽根の、艶のある漆黒の色。同色のビロードの外套は、金の縁取りがされている。

 “イアンの鬼才”。

 全てのものの心に恐怖を与える黒い影のごとく、支配者――イアン伯爵レビ=ルーファスは、その場に君臨していた。

「……レシィ」

「?」

「……レシィ、とは?」

 先ほどの無様な姿を見られていた。

 アルは思わず顔面がカアッと赤くなる感覚をうけた。

「我が旧友に、ございます」

 アルは言った。

「レシィは、我が家の家生で、私の親友でした。彼女は、家生という身分脱却と立身出世を願い、東の隣領テラロッサへ向かいました。兵士になると、そう告げて」

 早口になる。

 自らの言動により、自分自身の薄っぺらな内面を剥きだしにしてゆかなければならない滑稽な感覚に、アルは身じろぎする。

「……その者を殺したのは私だと、そう申すか」

 何の感情も映し出さない声で、伯爵ルーファスは言った。

 アルは、ことばに詰まる。

「私を恨むか」

「……いいえ」

 返事をした。同時に、涙が出てきた。

「いいえ……いいえ……伯爵様は、私たち商人を保護してくださった……」

 ルーファスがイアン伯爵の位を継ぐ前、商人は自由な売買を禁じられていた。

 領主と任財官(領主から土地の管理を任されている貴族)により二重に税を課せられ、いくさなど公的な理由があれば、領主、任在官、憲兵、騎士などに只に近い値段で物資を供給せねばならなかった。

 また、生活上、信教的にも、彼らは侮蔑を受けていた。町人や、仕入先の第一産業者相手にさえ機嫌をとり、生きる為の糧を得なければならない。

――その被差別的な階位から商人たちを救おうと試みた者こそ、伯爵ルーファスである。

 商人への搾取を厳格に取り締まり、暴力や恐喝などを厳罰とした。

 売り買いという行為を『契約』と定義し、保護する法を作った。

 アルの姉フラメイが草園主の次男と結婚できたのも、(草園一族が比較的差別感情を持っていなかった事を前提として、)ルーファスによる商人保護策の展開の恩寵である。

 ひとえに商業を活性化させるため、それがルーファスの第一の目的であったが、商人たちは、彼に心から感謝の気持ちを持っていた。

 アルの父ダルサヴォーも、そして、アルもまた例外ではなかった。

「自分たちを、金や品を運ぶ家畜としか見られていなかったこの世界を変えた伯爵様を……わたしたちはお慕い申しております……」

 そう告げながら、アルは自分が恥ずかしくなった。

 感情に任せて恩人を罵倒した。

 それだけではない。伯爵ルーファスは自分たちの領主なのだ。

「私は……申し訳ありません……申し訳ありません……」

 涙が、ぽつりぽつりと、石畳の床に零れ落ちる。

「……つまり、貴様にとって、レシィ、とは、それほど重要な存在であるということだ」

 伯爵ルーファスが、そう告げた。

 アルがハッと意識を戻して見上げたその顔に、一瞬、柔らかい微笑みが浮かんだのが見えた。

 悠然と腕を組んだ後、顔にうかぶ微笑を消し、伯爵は続ける。

「……その存在を握りつぶしてしまったやも知れぬ私の罪は、確かに存在すると言えよう。そしてそれは、私が行った商人たちへの保護をもって【帳消し】となるな?」

「は、はい……?」

 魔法にかかったかのような論理展開に、アルの頭は追いつくのみで精一杯だった。

 市民が貴族に、しかも領主にたてついた罪は、斬首でも手ぬるいはずだ。

 なのに何故、この眼光鋭い、恐ろしい領主がこうまでも罪を緩和する?

「……」

 黒曜の瞳が、こちらを油断無く見つめている。

 それは、獲物を狩ろうとする狼のものとは違っていた。

 アルにはどこか見覚えのある意味をもつ視線。

(……“値踏み”されている?)

 そう思って一切の間をおかず、アルの意識がサアッと晴れてゆく。

 この男は、アルの次の発言を待っているのだ。“アルの力量をはかるために”。

(……レシィ。俺に、力をくれ。)

 心の中でそう呟いて、アルは口を開いた。

「伯爵。父の死の真相を知りたくはありませんか?」

 すらりと舌をすべり、言葉が出てきた。

 その場の一同は言葉を失う。伯爵ルーファスのみが、ただ平静にことばを発する。

「……知っているのか」

 ルーファスの返答を確かめ、何かを企むような不敵な笑みを“わざと”うかべ、アルは言う。

「いいえ。ですが伯爵、私をお雇いになりませんか? 父の死、調査してみせましょう。」

「――何を世迷いごとを!!」

 控えていた騎士の一方が、剣の柄に手をかけ、怒りに耐えかねてそう叫ぶ。

 伯爵ルーファスは片腕を上げ、それを遮った。

「……貴様の父は間諜である。それ以上に、何を調査するというのか」

「父は間諜であるとしましょう。では、何故殺されたのでしょうか。ご当家に間諜の疑いをもたれて死をもらい受けたわけではない。父は雇い主の手によって命を奪われたのです。つまり、父は知れてはいけない何かを掴んだ。そして口封じに殺されたということ!!」

 そこまでひと息に言って、アルは口を止めた。

 不敵な表情を崩しはしないが、ことばはもったいぶらず、論旨をはっきりさせねばならない。

 伯爵の目の前にいる男は、『所詮、商人』なのだ。

 必要なのは、領主を下に見た賢しらな態度ではない。

 領主を前に大言を吐かなければならない恐怖を押さえ込みながら、領主を納得させうる知恵を披露する事。

 【領主を偉大と思い、しかし知恵者】である事を、分からせる事である。

「父の遺体をさぐる黒仮面の男を見たとの報を手にしました。父は何の秘密を握っていたのか。知りたくはございませんか?」

「……商人に、間諜がつとまるとでも?」

「わたしは商人です。ご当家のまつりごとに一切関わらぬ、ただの商人でございます。叩いても叩いても、埃の出る事はありません」

 次に、アルはそう言って投げた。

 アルは商人である。しかも、その辺りにごまんといる、身元の保障もできぬ商人ではない。

 長い年をかけてその実績を積み重ね、大きな財をなした『赤銅の盾』サヴォー家の、父亡き今や総元締めである。彼が間諜であると思う者はそういまい。

 伯爵ルーファスに返した言葉は、そういった意味であった。

――しかし、ルーファスの表情は変わらない。

(しっかりしろ!!)

 怖かった。全身がガクガクと震える。

 次の瞬間には真っ二つに手打たれているかもしれない。

(信じろ!!)

 伯爵ルーファスが馬鹿なはずは、ない。

 あの言葉は純粋な質問として投げかけた訳ではないはずだ。

 アルを試しているだけのはず。だから、返すのはあの返答のみで正しい。みなまで言う必要は無いはずだった。

「……商人に委託せなばならぬほど、我が子飼いの間諜は力量が無いと?」

「隣領のこともあります。御家のご家臣にその手を煩わせる事はできません」

 心の中で、なかば溜息をつきながら、アルは言った。

 手ごたえを感じる。やはり伯爵ルーファスは馬鹿ではない。

 この問いに対する答えも、これでいいはずだ。西の隣領イーラルに、戦の影が見える。

 イーラル伯爵領は『第二王子派』と明言し、対してここイアン伯爵領は、『第二王子派』とも『王太子派』とも言わず、沈黙を保っている。

 イーラルは、長年の敵国・イアン伯爵領に侵攻し自国領とする大義名分を考え付いた。

 それが、「ザレイ御家の安寧のため、敵味方はっきりせぬ領国を討つ」という騙り文句である。

(今は緊急時だ。西の隣領イーラルはイアン伯爵領を狙っている。大事か小事か分からぬ事に割く人手はない。だから、代わっておれがこの件についての調査をする事はおかしい事じゃない)

「……何が望みか」

 ルーファスがそう告げる。

 来た、と、思った。

 アルはカッと両目を見開き、声を張り上げてそれに答える。

「父の間諜行為に対する家筋への連帯責任を、調査の結果をもって【帳消し】として頂きたい!」

 その瞬間であった。

 カシャン、と、剣の鍔が鞘から引き払われる音がした。

 体勢を変えることなく、悠然とした体勢のまま、伯爵ルーファスは剣の鞘を払った。

 松明の灯が刃にうつる煌きが目の端に見えた。剣が空を斬る音とその勢いで風が舞うのを感じた。

 伯爵ルーファスは、剣を抜き払い、アルに向かってそれを振り下ろす。

「――ひぃいーッ!!」

 何者かの悲鳴が聞こえた。アルの声ではない。

 アルは口を真一文字に結び、ただただ伯爵ルーファスを見つめていた。

 瞬間。

――ピタリ

 と、剣は中空で制された。

 それは、正確にアルの首に当てられている。

「…………」

 重々しい沈黙が、場を支配する。

 ツツ……と、血の塗れた感覚が、アルの首すじを伝った。首をかすめた剣の刃が、アルの首横をわずかに傷つけていたのだ。

 それでもアルは、ルーファスを見つめるのを止めなかった。

「……父に罪なき時は……貴様に、差し引きなしの恩賞を与えよう」

 伯爵ルーファスは、ニヤリと人の悪そうな笑みをうかべる。

――先ほどの、仕返しだ。

 アルには、そう告げられているように思えた。

「猶予はこれをもって三月みつき! それまではダルサヴォー家筋の一切の処罰を免ずる! 仔細はサリエリ、貴様がとりもて!」

 言い、伯爵ルーファスは黒染めのビロードの外套が翻し、立ち上がる。

「かしこまりましたッ!」

 傍に控えていた騎士のうち一方が、頭を下げ、言う。

 アルがほうっと安堵のため息をもらした時、外へと帰りかけたルーファスがこちらを振り向いた。

「……期待している。『赤銅の盾』のアルサヴォー」

 伯爵ルーファスの声にハッと意識を取り戻し、アルは思わず懐を探る。

 そこには、布に包まれた『赤銅の盾』のしるしがあった。

 大商家たるサヴォー一族の、総元締めの証。

 これを持つ者は、自身が『銅の盾』となり、自身の『赤い血』に塗れてでも、家筋にあたるすべての者――血縁はもとより、従業員、家生にいたるまで、全てのものを護る。

 その誓いこそが、この『赤銅の盾』の持ち主に課せられたあかしである。

(……俺は、護る。すべてのものを、護ってみせる。)

 コクリと息を呑むと、アルは『赤銅の盾』のしるしを胸に飾る。

「……宗主のあかしと、友・レシィの名にかけて、父の真意を探り当ててみせよ!」

「――はいッ!!」

 叫び、アルは伯爵ルーファスの消えた扉に向かい、重々しく頭を下げた。

(……レシィ、見ていてくれ。俺をずっと、見守っていてくれ!)

 アルの心の中のレシィは、アルがかつて見た、あの満面の笑みをうかべたような気がした。


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