手を伸ばせば
R15ではないかもしれませんが、一応警告をつけておきます。
望まなければ、ほしいものは手に入らない。俺だって、そんなことは知っている。
けれども、望めば手に入らなかったときに傷つくんだ。
ほしいと思う気持ちが強いほど、手に入らなかったときの絶望は大きい。
俺のほしいものは、いつも手に入らなかった。
本当に、当たり前なことを望んだだけなのに。
ただ、暖かい家族がほしかった。なのに、父親と母親のケンカは絶えなかった。ついには、俺が中学生のときに、離婚した。
ただ、仲のいい友達がほしかった。学校で話す友達はたくさんいるけれども、学校の外まで出て遊ぶような人はいなかった。
バカ話はできたけれども、相談は誰にもできない。本音も上手く言えない。
俺の本当にほしいものは、いつも手に入らない。
それがわかっているのに、望むことができるほど、俺は強くない。
だから、望みたくないんだ。
ほしいものなんて、ほしくない。
大学の講義は、とりあえず出ていさえすれば何とか単位が取れるものなのだと、俺はこのごろ実感している。
とりあえず、講義には朝から出ているが、講義のほとんどを睡眠に使っていた。
それでも、単位は取れるし、レポートはそこそこかけるものだ。
今日も出席を取った後、腕を折りたたみ、机に顔を付け、寝る体制を整えた。
不意に鼻孔をくすぐる甘い匂い。
俺は、バッと顔を上げた。
少し遅れて入ってきたのか、周りの人に謝りながら、空いている俺の斜め前の席に座る一人の女性。石田菜奈。
ストレートの長い黒髪が似合う人。日本人形みたいな綺麗な顔。声は細くて、でもしっかりしている。バニラのような甘い匂いが似合う、俺の目が勝手に追ってしまう人。
俺は、強引に目を閉じた。それでも、甘い匂いが俺の中に入ってくる。
本気で寝てしまいたかったけれど、目が覚めてしまってできなかった。
けれど、難しいことを説明している教授の声が入ってくるわけではない。
見ないようにと頭は動くのに、目は彼女を追ってしまう。斜め後ろの俺の席からは、彼女の細い指が良く見える。
白いそれは、器用に動き、教授の言葉をメモしていた。
下を向くたびに、長い髪が揺れる。匂いが俺にまで届いて、俺は苦しくなる。
寝ることにでも、講義にでも、どちらでもいいから集中したかった。無意識に彼女に向いてしまう意識を戻したかった。
だって、彼女には、好きな人がいる。だから、目で追っても無駄なのだ。
講義の終わりを告げる時間になった。
「それじゃあ、今日はここまで」
時計を見ながら、教授がそう言って軽く頭を下げる。学生たちは、次々に席を立った。
昼休みの時間であるため、多くの学生が食堂へ向かう。
俺は、午後の講義は取っていないため、わざわざ混んでいる食堂へ向かい必要もない。
けれど、自炊など面倒でしていないため、ここで時間をつぶし、ずらして食堂へ向かうつもりだ。
ほとんどの人がいなくなった部屋。
俺と彼女、そして数人の弁当を持参してきた学生が残っている。
「また、寝てたでしょう?」
俺の方を振り向き、彼女は笑って言った。
「寝てても単位もらえるからね」
彼女の方を極力見ないようにして答えた。
俺と彼女は専攻しているコースが一緒だ。それゆえに受ける講義がよくかぶる。
すれ違ったときに話をするくらいには仲がいい筈だ。
それによく目が合う。この広いキャンパスにいるのにだ。
でも、彼女も俺を見ているとか、そういうわけではない。彼女が見ているのは、俺の連れ。
この大学でよく一緒にいる佐野慶太。たぶん、そいつが彼女の想い人。
慶太は彼女と同じサークルに入っている。だから、二人はいつも俺の知らない話をしている。
共通の友人であるからなのかもしれないが、慶太との会話にはよく彼女の話が出るし、彼女と話すときもよく慶太の話が出る。
慶太は話しやすく、面白いやつだ。そして顔も格好良い部類に入ると思う。
背も俺より5センチも高い。
彼女があいつに惚れるのも、無理のないことだと思う。
「それは、弘樹くんの頭がいいからだよ。凄いよね」
「そんなことないよ。適当にネットで調べたり、本で調べたりして書けば何とかなるもんだよ。俺には、ちゃんとメモを取っている石田さんの方が凄いと思うけどな」
「なんか、高校生のころの癖が抜けなくてね。メモしないと気が済まないんだ。要点だけ書くようになれればいいんだけどね」
そう言って、彼女は微苦笑を浮かべた。
「そのうち慣れるよ。そういうのは結構慣れだからね」
「そうなんだ。やっぱり、弘樹くんは凄いな」
「俺が凄いなら、慶太は天才?」
俺の言葉に彼女は、笑った。
慶太は講義にはほとんど出ない。サークルやバイトに力を入れているからだ。
出席重視の講義を受けず、レポートやテストの評価が高いものを選んで受けている。
そして、いつもギリギリではあるが、単位を取っているのだ。
「慶太くんも凄いよね」
彼女の笑顔が先ほどよりも輝いて見えて、俺は思わず下唇を噛む。
心の中で息を吐いた。
「弘樹くんってお昼どうするの?」
「え?」
「お昼」
「あ~。あともう少ししたら、食堂に行こうと思ってる」
「時間ずらすんだ」
「うん。今行ったら、混んでるからね」
「ねぇ。私もお昼一緒に食べていい?」
「…え?」
思わず俺は、彼女に聞き返した。彼女は、笑って今度はゆっくり言う。
「だから、お昼一緒に食べてもいい?」
微かに傾げる頭。
これ以上、彼女に近づきたくはなかった。
すれ違ったとき、「おはよう」と交わし合うだけで十分。それ以上は、怖かった。
普通の会話で、彼女の好きな物を知っていくのが怖かった。
彼女の好きなテレビ番組を知って、自分も好きになっていくのが怖かった。
すぐに返事を返さない俺に、彼女が少しだけ表情を歪めた。不安そうな表情。
「あ、いいよ。じゃあ、もう少ししたら行こうか?」
俺が彼女の申し出に対して「嫌だ」と言える筈などないのだ。
俺の返事に、彼女の表情は明るくなる。
「うん」
そう頷き、笑った。
「…んっ、…あ…っ」
俺の下に、彼女がいる。汗が額に流れ、白い肌が赤く染まった。
「…あ…ん…っ」
潤んだ目で俺を見る。
「ひろ、…き…っ」
吐息を含んだ声で名前を呼んだ。
「―――――っ!!」
俺は果てた。
目を開ける。
俺の手には、白濁とした粘液がついており、そして彼女はいない。
静かに後処理をしながら、後悔の念がまとわりつく。
単なる性欲の処理なら、誰だっていい。
テレビに出ているタレントでも、胸を強調しているグラビアアイドルでも、その辺にいるOLだって。
けれど、毎夜俺が想像で汚すのは、彼女だ。
そして、その度に後悔をする。罪悪感を抱いてしまう。
彼女がただ遠くで見ている憧れの存在ならば、いいのに。
そうすれば、闇の中想像で汚しても俺の心は痛まない。
けれど、彼女は手を伸ばせばそこにいる。そして、きっと俺を「友達」だと思っている。
ほら、やっぱりだ。
俺は自嘲気味に笑った。
やっぱり、俺の望んだものは、いつだって手に入らない。
1限目の講義もなく、バイトも入っていない朝は、俺は遅くまで寝ている。
今日はそんな日だった。
けれど、俺のいつものプランは、うるさくなる携帯の音によって壊された。
ディスプレイには『佐野慶太』と映っている。
無視をしようとも思ったが、時刻はすでに10時を指していた。さすがに起きようかと思い、俺は電話に出ることにする。
「もしもし」
「お~俺、俺」
「用件はなんだ?」
「あれ?寝起き?」
「ああ」
「ごめん、ごめん」
慶太は謝っているようには聞こえない謝罪を述べる。もう慣れたので、気にはしない。
「別に。…で?」
「あ~、そうそう。あのさ…もうすぐ試験だろ?」
そこまで言って、俺は慶太が何を言いたいのかわかった。だから先手を打つ。
「ないぞ」
「え?」
「俺、講義のメモ取ってねぇよ」
慶太と俺の受ける講義は大抵違うが、時々かぶることもある。
確か、今回は1つかぶっていた筈だ。
「は~!?お前、ちゃんと出てるなら取っておけよ」
「出てないお前に言われたくはない」
「…どうすんだよ、俺」
「なんだよ。そんなに頭抱えるほどの内容だったか?」
「お前…講義出ていて知らないのか?」
「…何を?」
「今度の講義、レポートじゃなくて、テストらしいんだよ」
「…は?」
「だから、テスト。つまり、講義にちゃんと出ていたやつにしかわからない問題が出てくるの!ちなみに、持ち込みは可」
「…それって、俺もやばくね?」
「そうだよ。持ち込み可ってことは、言ってたことが出るって捉えた方がいいもんな」
「…」
「どうしよ~」
「…ま、俺はいいわ。一つくらい落としても響かないし」
「俺は響くの!」
怒ったような、焦ったような声が耳に響く。寝起きでこの音量はきつい。
俺は、少しだけ携帯を耳から話した。
「どうしよう」と言ってだんだんと声が小さくなってくる慶太。
「…石田さんに見せてもらえば?」
「え?」
「石田さんも受けてたと思うけど?」
「―!!そっか、そうだよな。菜奈ちゃんに見せてもらえばいいんだよ」
「そうしろよ。お前なら見せてくれるだろ?」
「よっしゃ!頼んでみる。ありがとうな!!」
俺は目を閉じた。
親しくなっていく慶太と彼女の姿が見える気がした。
いっそのこと慶太と付き合ってほしかった。そうすれば、きっと、彼女へ向ける視線を逸らすことができる。
二人が並んでいるところを想像して胸が痛くなることもなくなる筈だ。
嫌いになりたい。
苦しくて、しかたがないから。
けれど、嫌いになどなれないから。
手を伸ばそうと思えないくらい、誰かのものになってしまえばいいと思った。
家から出るのが、億劫だった。行動の早い慶太のことだ。今頃、彼女と会っているのかもしれない。
広いキャンパス。偶然すれ違うことなどほとんどない。それでも、彼女と慶太が並んでいる姿を見てしまいそうで怖かった。
太陽は頭上に上り、真上で地上を照らしている。
俺は適当に昼食を摂ると、深呼吸をした。
息を吐きだし、落ち着かせる。今日、彼女と会うことはない筈だ。
そう自分に言い聞かせ、家を出た。
昼からの講義は、朝に比べて人が多い。後ろの席に空きはなかった。
しかたなく、真ん中の方に座り、俺は講義を受けた。
まだ若い助教授が事細かに話すのを、右から左に受け流す。今頃慶太と彼女は一緒にいるのかもしれないと思うと、苦しくなった。
そう願ったのは自分なのに。
「少し早いけど、キリがいいのでここまでにします」
助教授の通る声が耳に入る。周りの学生たちが一斉に散った。今日受講している講義はこれだけだったので、俺はゆっくりと筆記用具達をしまった。
特にメモを取ることはないのだが、一応出しておいている。
不意に、バニラの甘い匂いがした。
自然と視線が動く。振り向いた先に彼女がいた。
俺に気付いて、小さく手を振っている。
部屋から出て行く学生の流れに逆らい、軽く頭を下げながら、こっちに向かってきた。
「おはよう。弘樹くん。…もう、こんにちわ、かな?」
「…石田さん、なんでいるの?」
「ん?」
「この講義取ってないよね?」
「ふふっ。今日はね、これを届けるために、わざわざ来ちゃいました!」
得意顔で、彼女はバックの中からいくつかの資料を取り出した。
今朝、慶太と話していた講義の内容が書かれている。
「メモ取ってなかったんでしょう?慶太くんが、『弘樹にも見せてやって』っていうからさ、早目の方がいいかなと思って持ってきたの。この講義の試験日早いみたいだから」
慶太はいいやつだが、時々ひどく余計な事をする。楽しそうな彼女の顔を見ながら、俺はそう思った。
彼女は、「慶太」に言われたから、ここにいるのだ。苦しくなる。
これ以上、手を伸ばしたくはない。
届かないと知っているなら、なおさらだ。
受け取るのを待っている彼女に、言った。
「いらない」
なんて、稚拙な言葉。
そんな言葉がやけに響いた。気付けば、俺と彼女の二人だけしか残っていない。
広い部屋のちょうど真ん中に、二人がぽつりと立っている。
「…遠慮なんてしなくていいよ?」
少し驚いた表情の彼女。彼女の言い方の方がよっぽど遠慮していた。
俺は彼女を無視する。
彼女に背を向け、部屋を出ようとした。
不意に肩に重みがかかる。
彼女の手が触れていた。
「待って。ごめん」
何に対しての謝罪なのだろう。謝罪をしなくてはならないのは、彼女じゃなくて俺の方なのに。
「何が?」
ひどく冷たい口調。彼女には優しくしたいと思っていたのに。けれど、それで正解な気がした。
彼女を嫌いになれないなら、彼女が俺を嫌いになればいい。それはきっとつらいけれど、手を伸ばせる距離に彼女がいるよりずっと楽な気がした。
「…何か気に障ることしたんだよね?ごめんね。迷惑だった?」
彼女は必死だった。
勝手に機嫌を損ねた俺などほっておけばいいのに。慶太からの頼まれごとだからか。
「別に迷惑なわけじゃないよ。…慶太にはちゃんと借りたって言っておくから石田さんは心配しなくていいよ」
「なに、それ?」
「慶太が好きなんだろ?大丈夫だって、巧く言っておくから」
「…」
「あ、今度慶太と一緒に飲む席セッティングしようか?」
「…」
彼女は黙って下を向いていた。
俺はかまわず、背を向ける。
もう近くで彼女の笑顔を見ることはないのだろうと思った。
ほしいと手を伸ばしたつもりはなかった。けれど、伸ばしていたのかもしれない。
こんなに胸が苦しい。
苦しくて、泣きそうだった。
出口まで来たとき、声が聞こえた気がした。
俺は振り返る。
彼女が泣いていた。
手を顔に押し付け、涙を拭う。
「勝手に決め付けないでよ」
声を張り上げているわけでもないのに、彼女の声はよく耳に入った。
「誰が慶太くんを好きだって言ったの?」
彼女が一歩、俺に近づく。
「よく目があったよね?そのとき、石田さんは、慶太を見てた」
「見てたよ?だって、慶太くんは目立つもん。…でも、恋愛の意味で好きじゃない」
「…」
「私は、どうでもいい人のために、わざわざノートを持ってきたりしないよ?」
また一歩、近づいた。
「もっと、仲良くなりたいから、お昼を誘ったの」
「…」
「目があったっていうなら、私が弘樹くんを見てたってことでしょう?」
「…」
「好きになったら、いけなかった?」
「…」
「ねぇ、弘樹くんも、私が好きでしょう?」
気付けば、彼女は目の前にいた。涙があふれている。
手を伸ばせば、彼女に触れられる。
ずっと、怖かった。
ほしいと思ってしまうことが。
手を伸ばして、届かなかったらと思うと、手を伸ばすことさえ止めてしまった。
だって、そうすれば、傷つかない。
けれど、手を伸ばさなければ、彼女の涙を拭ってやれないし。
手を伸ばさなければ、彼女の身体を抱きしめることもできないのだ。
怖がって、立ち止まって。それで、「ほしいものが手に入らない」と嘆いている。
当たり前だ。
手を伸ばさなければ、何も手に入らない。
リスクなしで、何もかも手に入れられる人などいないのだ。
手を伸ばした。
無様に震えている。
彼女も手を伸ばしてくれた。彼女の指は、細かった。
引き寄せる。
彼女の甘い匂いが鼻孔をくすぐった。彼女の黒髪が俺の頬を撫でる。
両手を背に回した。
細くて、柔らかい。力を入れれば壊れてしまいそうだった。
手を伸ばしたことで知る様々な事。彼女をさらに愛おしいと思わせた。
「ごめん」
彼女はただ、耳を傾けている。
「ごめん。好き」
「うん」
「君が欲しかった」
「…知ってたよ」
少しだけ、彼女が笑う。
「だって、弘樹くんは、いつも優しい目で見ててくれたもん」
「本当は、ずっと欲しかった。…逃げて、ごめん」
彼女が首を横に振る。
いつから俺の気持ちに気付いていたの?とか、いつから好きでいてくれたの?とか、聞きたいことがたくさんあった。
謝らなければならないことも山ほどあった筈なのに、何も言えなかった。
代わりに彼女を抱きしめる両手に力を込める。
手に入れたものは、脆く儚いけれど。
手に入れたことで、きっと俺の不安はまた増えるけれど。
それでも、俺は幸せだ。
手を伸ばさなければ、何も手に入らない。それを初めて知った。
肩にうずまっていた彼女の顔が上がる。
俺は、手を伸ばすし、彼女の頬を拭った。
目が合い、二人で笑う。
彼女が目を閉じた。甘いバニラの香り。
二つの影が近づき、そして重なった。
どうだったでしょうか?
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