「ようこそ、虎子ヶ原学園迷宮部」執筆考(2)
先日はどうにもお見苦しいところを見せて申し訳ありません。
おかげさまで風邪の具合も良くなり、今はゆっくりとパソコンに向かいながら暖かいカプチーノなど飲んでのんびりとしています。
さて、
無駄話は横に置きまして、早々に虎子ヶ原学園迷宮部の話でもいたしましょう。
これを書き始めた動機については前回お話ししましたが、コンセプトなどの説明を補足させていただこうかと思います。
まず、私が主にライトノベルの賞に向けて作品を投稿する以上、それに沿った作品を書く必要に迫られたわけですが、とはいえ私にも我欲が当然あります。
「流行っている」とか、「主流だから」とか、そういった理由だけで似たような小説は書きたくないというのが正直なところです。
ではそう言っている私の作品にオリジナリティはあるか?
答えは「NO」でしょう。
そこはわきまえています。
ただ、出来ないからとか、書けないからなどという理由でそれを放棄するのは書き手としてあまりにも怠慢です。
それに近づくための努力だけは常にする。
それが書き手が背負うべき最低限の義務のはずです。
……おっと、
エンターテイメントな作品を書くよう努力するのも忘れてはいけない義務ですね。
少々、話が逸れました。元に戻しましょう。
虎子ヶ原のお話の中には基本、大それた能力を持っているような人間や、同じく大それた肩書や生まれのキャラクターは登場しません。
基本、ただのオタクたちです。
現在はやたらと軽い意味合いで使われるようになってしまった「オタク」という名称ですが、これは元々、一分野に対して恐ろしく造詣が深い人間を指して言われていました。
今のように、ちょっとやそっとその道をかじった程度の人間は恐れ多くて「オタク」などとは呼べませんでした。
そういった意味でのオタク。
最近の呼び方では「マニア」という呼び方のほうが、しっくりくるかもしれませんね。
そんな、本来の日常生活では何の役にも立たない知識を持った人間が集まって、これまた現実にはありえない宝探しをする。
そんな話です。
後々、明らかとなってきますが、これは壮大な「遊び」です。
オタクが寄り集まって、いい歳をして遊びに夢中になる。
核心を言ってしまえば、そんな話なわけです。
派手なドンパチも無ければ、日常系のゆったり感もありません。
ただの遊び。
無能で有能な人間たちが、しかし必死に、真剣に、遊ぶ。
はてさて、感情移入の余地があるのかは疑わしいですよね。
でも、
私はそれに憧れます。
人は歳を重ねれば重ねるほど、遊ぶ場所も手段も限られてきます。
その理由は(体裁)であったり、(損得)であったり、いろいろですが、ただ確実に生活の中の比率から遊びが削り取られてゆきます。
わずか一年ですら。
小学生から中学生になっただけでも、その生活に占められる遊びの比率は激減します。
いわんや社会人などになったら、もう絶望的なまでに遊びが人生から剥げ落ちます。
人生は楽しむためにある。
これは私の持論です。
そこから思うに、私はどうしても遊びを常に夢見てしまいます。
そうした我欲からでしょう。
この作品をこのような内容で書くに至った理由は。
伝えたかったのは子供の頃、別に死ぬわけでもないのに、それこそ命懸けで逃げ回った鬼ごっこの感覚。
あれほどまでに真剣に遊べることは、残念ながらもう一生無いかもしれません。
それを私なりに形にしてみました。
うまく伝わるかどうかは甚だ疑問です。
が、自分としてはそれでもひとつの作品として己の内なる欲求を表現してみたかった。
あとはこの作品を読み手の方に楽しんでいただけるかどうか。
すべてはそれだけ。
願わくば、皆さんが少しでもこの作品を読んで楽しんでくださることを。
それでは、
またしばらくお話が進んだころに何かしらご報告いたします。
ではまた。