執筆考という名の独り言(1)
日々、いろいろと思索にふけったり、知人と話をしていたりすると、人それぞれの価値観の違いに驚かされたり、感心したりと、なかなか面白いものです。
さて今日も少々、知人との会話から価値観の相違を発見し、私なりに興味深くあったので、いたずらに筆をとってみました。
知人のひとりは模型造りを趣味としてらっしゃるのですが、どうやらちょっとしたミスをしたせいで、再塗装や他もろもろの修正作業を行う必要に迫られたそうです。
で、ここが問題です。
作品の紛失や損壊というのは、長くやっていると必ず訪れるヒューマンエラーの典型でしょう。
しかし、私がここで面白いと思ったのは、その知人の落胆ぶりです。
正直を言って、私には作品を喪失したり、破損したりした際に気分が落ち込むという感覚が分かりません。
「やり直さなきゃならない」という思考が理解できないと言うべきでしょうか。
「やり直して、もっといいものに変えられる」という思考なら理解はできます。
昔話をさせていただくなら、およそ五年ほど前、私は引っ越しのどさくさで、記憶媒体に保存していた作品をもれなく紛失した経験があります。
合計十七作品。
四百字詰め原稿用紙換算で千五百ページ強。
字数で言うと、おおむね六十万字といったところでしょうか。
さあ、この件についての私の理解はただの一言です。
「これで新しい気持ちで作品を作り直せる」
私は作品を紛失、もしくは破損した場合、復元はしません。
より良く書き直そうとします。
私は人間です。
元に戻す作業は機械の仕事です。
どうせ失ったなら、その失ったものよりいいものを新たに作らなければ、失ったという事実しか残りません。
ですが、もし失ったものより良いものを新たに作れたなら、それはそのための布石だったことになります。
価値は与えられるものではなく、自分で作るもの。
少なくとも私はそう考えて生きてきましたし、出来るなら、これからもそうありたいと思っています。
無論、価値観は人それぞれ。
人様の価値観をとやかく言っているのではありません。
ただ、私は常に突き当たるであろう現実を良い意味で受け止めたい。
人は楽しむために生まれてきた。
私はそう思って生きてきましたし、これからもそのつもりです。
時に厭世的なものの見方をする人はこう言います。
「どうせ人間、最後は死ぬんだ」
それは当然でしょう。
では、逆に質問です。
最後は死ぬから、その過程はどうでもいいとでも言いたいのでしょうか?
私から言わせれば、これは完全な本末転倒です。
生まれてきた。
最後は死ぬ。
それはスタートとゴールを示しているだけです。
生まれるときと死ぬときは、その過程に比べればほんのわずかな時間にしか過ぎません。
どうせ生まれたなら、生きてやる。
どうせ死ぬなら、石にかじりついてでも、ぎりぎりまで死ぬことに抗ってやる。
私は人間です。
そして人間とは生き物です。
生きるために生まれた。
なら生きましょう。
最期の時?
そんなものはその時になってから考えればいいことです。