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約束‐秋のお話

「七度一分。だいぶ下がったね」

 陽一から受け取った体温計を見たこよりが、ほっとしたような笑顔を浮かべた。

 昨夜、週末なんだから付き合えよ、という同僚の誘いを断りきれず、酒を呑みに行ったまではよかったのだが。

 したたか泥酔した陽一は、かろうじて家に帰り着きはしたものの、玄関口で力尽きて眠りこけてしまったのだった。そして今朝、こよりが見つけた時には既に遅く、陽一は何年ぶりかで風邪で寝込んでしまったという訳だ。

「おかゆ作ってあるけど、食べられそう?」

 陽一は、なんとなくこよりの視線を避けてしまう。

「ん」

「じゃ、持ってくるね」

 こよりは、そんな陽一の態度を気にする様子もなく、布団を軽く直して寝室から出て行く。

 ドアが閉まる音がした後、こよりがいないことを確認すると、陽一は左手を布団から出して見つめる。そして大きなため息をついた。

 気まずい理由は二つある。まず一つは、この週末は紅葉を見に行こうと前々から約束をしていたことだ。

 一日寝ていたおかげで明日には起きられそうだが、さすがに病み上がりで行楽という訳にはいかない。楽しみにしていたこよりの様子を思い出すと、看病してもらった分だけ、余計に申し訳無い気持ちがする。

 とはいえ、それはまだいい。なんとかスケジュールをやりくりして、またの機会を作ればいい。

 問題はもう一つの方である。

 やばいよなぁ……。陽一は、もう何度めかわからないため息を、またもらす。

 もう一つの理由。それは、見つめるその左手の薬指から、はめているはずの指輪が消えていたことだった。




 いったいどこでなくしたんだろう、と、陽一は寝床の中で昨日の記憶を探る。

 呑み屋に入った直後、おしぼりで手を拭いた時にははめていた気がする。しかし、そこから先がわからない。アルコールとウイルスに蹂躙された頭は完全に真っ白である。

 こよりにばれないうちに、なんとか探し出さなければ。とはいえ、記憶が無いのだから、手がかりも無いに等しい。

 まずは、昨夜の呑み屋に連絡してみる以外に方法は無いだろう。あとは、タクシーの可能性もある。

 だが。

 待てよ、と陽一は思い直す。ようやく頭がはっきりしてきた自分は今頃こうして焦っているが、朝からずっと看病してくれていたこよりが気づいていないなどということが、果たしてあるだろうか。

 一瞬、風邪のためではない悪寒が陽一の背筋に走った。




 やがて、こよりがおかゆの器を持って戻って来た。

「お待たせ。熱いから気をつけてね」

 こよりが、ベッドに身を起こした陽一の肩に上着をかけ、器を手渡そうとする。しかし、陽一は左手を布団から出すことができない。

「置いといていいぞ」

 努めてさりげなく言ってみると、こよりが、極上の笑顔でとんでもないことを言い出した。

「食べさせてあげる」

「はぁ!?」

 ぎょっとする陽一にはお構い無しに、こよりは、母親が小さな子供にしてやるようにれんげに息を吹きかけている。

「はい、あーん」

 口元にれんげが差し出され、陽一は焦る。そんな恥ずかしい真似、できる訳が無い。

「一人で食えるって!」

「じゃ、どうぞ、手を出して」

「……」

「できないなら、あーん」

 こいつ、絶対わかっててやってやがる。

 つまり、この仕打ちは指輪を無くしたことへのお仕置きということらしい。そう思うと、あまり強い態度に出ることもできず、陽一は観念したように口を開けた。顔が熱いのは、熱のせいだけではないだろう。

 陽一が素直に口を開けるとは思っていなかったのか、こよりは少し面食らったような顔をしたが、次にはくすくすと笑い出す。

「……早く食わせろ」

「はいはい。あーん」

 こうして誰かに物を食べさせてもらうなど、何年振りのことだろうか。陽一はそう思いはしたが、それは幼い頃の甘い記憶を呼び戻すよりも、現在の羞恥を煽るものでしかない。弱った体に米の滋味が染みていくのを感じる余裕も無い。

 早くこの責め苦から逃れたい。ただひたすらにそればかり願いながら、陽一はおかゆをたいらげることに専念した。




「陽一さん」

「なんだよ」

 やっとの思いでおかゆを食べきり、再び布団に潜り込んだ陽一の目の前に、こよりが何かを差し出した。

「これ、なんだ?」

「あっ」

 こよりがその指先で玩んでいるのは指輪だった。おそらくは陽一の。

「ごめんなさい。意地悪しちゃった」

 陽一が苦虫をかみつぶした表情になるのに対し、あーん攻撃を思う存分満喫したらしいこよりが、あっけらかんと答える。

 なくしたのではなかった。すべて、こよりの思うつぼにはまったということなのだ。

「おまえなぁ……」

「だって、今日の約束、本当に楽しみにしてたんだもの」

 こよりに拗ねたようなまなざしで見つめられれば、陽一としてはもう何も言えない。

「手、貸して」

 こよりは布団の中から陽一の左手を探り出すと、薬指にそっと指輪をはめた。それがまるで結婚式の誓いのようで、陽一は照れくささを隠せない。

「結婚式みたい」

 こよりも同じことを考えたらしく、そうつぶやいて、小さく笑う。陽一はいたたまれず、目を閉じた。

「寝る」

「うん。おやすみなさい」

 力を抜いて息を吐くと、さっき飲んだ薬が効いてきたのか、ゆるやかな眠気が近づく。額の生え際のあたりを撫でるこよりの指の感触に身をまかせていると、陽一のまぶたの裏に、ふと、昨夜の同僚の顔が浮かんだ。

 記憶の隙間から浮かび上がってきたのは、その男が離婚を考えているともらした時の表情だった。

『人間の気持ちってのは、変わっちゃうものなんだよな』

 同僚は自嘲気味に笑うと、それ以上のことは一切話さなかったため、何があったのかはわからない。ただ、抗いきれないものに出会ってしまった、とでも言いたげな表情が印象的だった。

 入社以来の付き合いであるその男には、慰めや励ましは余計なお世話だとわかっていたから、ただ朝まで陽気に飲み明かしたのだ。少しでも気持ちが軽くなればと思って。

 だが、それは同僚の気持ちだけの話ではなかったのかもしれない。陽一は、自分自身の気持ちも軽くしたかったのではないだろうかと思う。

 人の心は変わる。それは自分とこよりにも起こり得ることであり、きっと起きてしまえば止められない。今の二人には想像できないことだとしてもだ。そんな、不安と呼ぶほどでもない、違和感に似た思いをどうにかしたかったのだ。

 布団から手を出し、陽一の髪を撫でるこよりの手をとると、彼女の指輪の感触が指先にあたった。そのまま口元へずらして指輪へ軽くくちづけると、こよりが驚きの声をあげる。

「陽一さん?」

 こちらだけ恥ずかしい思いをさせられて、たまるものか。そんな思いも少しはある。だが、それ以上にこよりのぬくもりがいとおしい。

「こより」

「は、はい」

「紅葉、見に連れて行くから」

 陽一の閉じたまぶたの向こうで、こよりがほほ笑む気配がした。

「いつでもいいからね」

 いつまでも一緒にいるから。

 そう言われているような気がして、心のしこりがふわりと溶けるのを感じ、そのまま陽一は眠りに落ちていった。


【終】

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