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ないしょ‐夏のお話

「えー、出かけちゃうの?」

 洗濯物を干す手を止めて、こよりは軽く不満の声をあげた。

 降水確率ゼロパーセントの日曜日。一緒に過ごしたいというこよりの思いとは裏腹に、陽一は一人で出かけると言い出したのだ。

「どこ行くの?」

「ん……まぁ、ちょっと」

 陽一は言葉を濁す。手には既に車のキーを持ち、出かける態勢は整っていた。引き止めても無駄らしいとは思ったが、それでも、こよりは言ってみる。

「お天気いいし、どっか一緒に行きたいな」

「……今度な」

 今度って、いつ。こよりは口を尖らせる。

 そんな気持ちを察しているのか、あまり目を合わせないようにして、陽一は出かけて行った。




 陽一さん、どこに行くんだろう。ベランダから陽一の車を見送り、こよりはまた洗濯物を干し始める。

 せっかくの休日だというのに、陽一が一人、行き先も告げずに外出してしまうということが、一、二ヶ月に一度あった。

 こよりが時計に目をやると、針は十時をさしている。このくらいの時間に家を出て、早ければ二時間ほどで戻ってくるが、まれに夕方近くになることもあった。

 一体どこで何をしているのか。電源を切っているらしく、携帯電話もつながらない。

 最初のうちはしつこく訊いてみもしたけれど、陽一は頑として答えないので、最近ではもうあきらめていた。だからといって、不満が消える訳ではないが。

 せめて、行き先くらい言ってくれてもよいではないか。

 パン!

 不必要なほど勢いよく音をたてて、こよりは、陽一のTシャツのしわをのばした。




 一通り家事を済ませると、そろそろ昼になろうかという時間だった。陽一はまだ戻らない。

 こよりは、一人で昼を済ませてしまおうと、キッチンに立って何を食べようか考えてみる。だが、何も浮かんでこなかった。

 一人ごはんなんて、つまんないな。

 陽一が仕事でいない時は、一人の食事もそれなりに楽しむことができるが、こんな時はメニューを考える気力がわいてこない。適当でいいや、と、こよりは目についた素麺の束を手に取った。

 鍋に湯を沸かし、麺を束ねているテープをはがして、ばらりと放り込む。煮立ったところへ差し水をすると、表面を覆っていたこんもりとした泡が一気にしぼんだ。

 頭冷やすのも、こんな風にできればいいのに。こよりは軽くため息をついた。

 ゆであがった素麺をザルにあけ、流水でもみ洗いする。器に麺を盛り、めんつゆと水を適当にかけて、はたと気がついた。

 おネギ、どうしよう。冷凍庫から氷を取り出して浮かべるまではしたものの、青味の用意をしていなかった。

 しかし、陽一がいれば用意もするが、自分一人の食事にはそこまでこだわる気がせず、こよりは器と箸を手にキッチンを出た。

 居間に移動してテレビをつけて見るが、興味がひかれるような番組は無さそうだ。かといって黙々と素麺をすする気にもなれず、こよりは、適当にチャンネルを変えつつテレビを見続けた。

 ずずっと麺をすすると、冷たさが歯に気持ちいい。

 陽一さん、何してるのかな。テレビの画面を見つめていても、内容はまったく頭に入ってこない。考えるのは陽一のことばかりだった。




『それって浮気なんじゃない?』

 テレビからの声にどきりとして、こよりはチャンネルを変えていた手を止めた。画面の中では、おネェキャラのコメンテーターが軽いノリの恋愛相談を受けている。

 浮気。考えたことも無かった。

 しかし、それなら行き先を教えてくれないのは何故なのだろう。じわじわと重苦しい思いが胸にこみ上げてくる。

 それを振り払うように、こよりはぶんぶんと首を振った。

 無い無い、そんなこと。陽一さんはそんな人じゃない。もし、あたしのことが嫌いになったなら、そう言ってくれるはずだもの。

 陽一を信じる気持ちと、彼を疑いたくないという気持ち。それらの方が不安よりもはるかに強い。

 それでも完全に消せる訳でもなく、こよりは、八つ当たりのように乱暴にテレビのスイッチを切った。




 素麺をたいらげ、空いた器をキッチンへ運ぶ。

 スポンジに洗剤をつけると、こよりは、器はもとより、普段は手を抜きがちな鍋の取っ手の部分まで執拗に洗い始めた。そうすれば、少しグレーがかった自分の気持ちもきれいになるのではないかというように。

 違うよね。違うって言って。陽一さん。

「陽一さん……」

 声に出して呼んでみる。

 早く。早く帰って来てよ。

 すると、背後から陽一が答えた。

「おう」

「陽一さん!?」

 こよりが驚いて振り向くと、キッチンの入口に陽一が立っている。

「帰ってたの?」

「今な。声かけたけど、聞こえなかったか?」

 車の音もしていたのだろうが、まったく気づかなかった。

「……わかんなかった」

 こよりの言葉に、どんだけ真剣に皿洗ってんだよ、と陽一が笑う。

 その笑顔を見た途端、さっきまでの不安がふわりと溶けるのをこよりは感じた。それと同時に、不安になってしまった自分が情けなく思えて涙腺がゆるむ。

「陽一さぁん」

「な、なんだ。いきなり何泣いてんだ」

 あせる陽一に、こよりは泡だらけのスポンジを握りしめたまま抱きついた。

「おまえ、泡!」

「うるさい、洗濯するのはあたしだ!」

 涙声で怒鳴り返しておいて、陽一の背中にまわした腕に力を込めて抱きしめる。

「なんなんだよ、おまえは……」

 呆れた口調だが、声はやさしい。

「陽一さん、浮気してるの?」

 気づいた時には、言葉が口から出ていた。陽一の即答が返ってくる。

「するか、そんなもん」

「じゃ、一人でどこ行ってるの?」

「……」

「やっぱり浮気してるんだぁー」

 そんなことはもう欠片も思っていないのに、こよりは言葉が口から出てしまうのを止められない。何度でも、陽一が否定してくれる言葉を聞きたかった。

「してねぇっての」

「だったら、どこで何してきたのか話してよ」

 言ってくれるまで、離してあげないんだから。こよりが固い決意でしがみつき続けると、陽一は、それでもしばらく言い渋っていたが、とうとうあきらめたように口を開いた。

「パチンコ」

「ぱちんこ?」

 予想だにしなかった答えに、こよりは陽一の顔を見上げた。

「陽一さん、パチンコ好きだったの?」

 今まで、彼がそんな素振りを見せたことは無かったが。

「いや、別に好きじゃない」

「……訳わかんない」

「ちゃんと話すから。でも、先に着替えさせろ。背中冷てぇよ」

 ぽかんとするこよりの背中をあやすように軽く叩き、陽一は言った。




「ストレス解消なんだよ」

 着替えて居間に落ち着くと、陽一はこよりに話し始めた。

「……余計、ストレスたまりそうな気がするんだけど」

 こよりは中に入ったことがないが、パチンコ店の前を通り、偶然ドアが開いた時の大音量を思い出せば当然の意見だろう。

 陽一もそれはわかっているのか、苦笑いで答える。あそこは特殊な空間だと思う、と。

 営業の仕事で不特定多数の人間と会っていると、時々どうしようもなくイライラするのだ、と陽一は言う。

 仕事も、人と会うことも好きだ。それでも、たまらなく心がささくれ立つことがある。

 そんな時、外回り中にたまたま次の約束までぽっかりと時間が空いたことがあり、何気なく一軒のパチンコ店に入ってみた。

 煙草の匂いと、耳鳴りがしそうなほどの音。そして、大勢の人間。しかし、誰も一言も口をきかず、ただ目の前の台を見つめている。ちょっと異様な光景だった。

 そんな中で、空いた台に座って見よう見まねで打ち始めると、陽一は、不思議に気持ちが軽くなるのを感じたという。

「理由はよくわからないんだけどな」

 あれほどの喧騒の中、大勢の人間に囲まれながら、誰とも話さないでいられることで、何故か気持ちがすっきりする。それ以来、煮つまった気分になると足を運ぶようになった。使う額は五千円までと決めているから、早ければ二時間もたないこともあるが、勝ち負けは二の次だからそれでもいいのだ。

「どうして今まで話してくれなかったの?」

 のめり込んで退っ引きならないとか、そんな理由ならともかく、こうまで隠すほどのことだろうか。こよりがそう言うと、陽一はそっぽを向いてつぶやいた。

「……俺がストレスためてるなんつったら、おまえが心配するだろ」

 照れているのだろう、耳たぶが赤い。

 こよりの胸に愛しさがわき上がる。ぶっきらぼうだけれど、やさしいのだ、彼は。

「でも、あたしはちゃんと話して欲しいな」

 嬉しいことだけでなく、つらいことも分けて欲しい、とこよりは思う。さっきまでの不安を、陽一が笑顔一つで吹き飛ばしてくれたように、自分も陽一の支えになりたかった。

 陽一がほほ笑む。

「そうだな。ちゃんと話さないと、また浮気だなんだって疑われるもんな」

「あ、それは、別に本気でそう思ったわけじゃ」

「本気じゃなくても、疑ったんだろ?」

「……すいません」

 小さくなるこよりの頭を撫でて、もう内緒は無しにするからな、と陽一は笑った。




「そうだ。ね、晩ごはんは何がいい?」

 自分が陽一を元気にできるとしたら、やっぱりこれだろう。気を取り直したこよりが身を乗り出して訊くと、陽一が少し考え込む。

「そうだな……じゃ、レタス巻き」

「了解」

 レタス巻きは、ひき肉と野菜を濃いめの味付けで炒めてレタスの葉にくるんで食べる、こよりの自慢の料理だ。あれでビール飲むとうまいんだよな、と陽一は屈託なく笑っている。

 それを見て、こよりは気がゆるんだ。

「じゃあ、レタスと納豆買って来なくちゃ」

「納豆?」

 しまった。こよりがそう思った時には、陽一から笑顔が消えていた。

「なんで納豆がいるんだよ?」

「え……えぇーっと……」

 陽一は、大の納豆嫌いだ。こよりが一人で食べることまで止めはしないが、あの匂いは食い物じゃないと言って、自分はどうしても食べようとしない。

 あたしにも、内緒があったんだよなぁ……。

 実は、レタス巻きにはこっそりと納豆が入っていたのだ。量はひき肉の半分程度だし、細かくたたいているのと、香味野菜の風味のおかげで、まったくバレずに済んでいた。ちょっとした、いたずら心だったのだが。

 やっぱり、内緒も少しは必要かも。

 ほぞを噛んでも、もう遅い。天井を見上げて、こよりは、必死に陽一への言い訳を考えていた。


【終】

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