トライフル‐春のお話
カンカンカンカンカン!
陽一は、何か硬い物同士が叩きつけられるような音で目を覚ました。
枕元の時計を見れば、七時を少しまわったところ。布団から顔だけを出してこよりを探したが、姿は無い。
なんなんだよ、朝っぱらから。
せっかくの日曜日だってのに、と布団をかぶり直してはみたものの、音は一向にやむ気配が無い。カンカンカン……と、速いリズムで聞こえてくる甲高い音は、妙に耳につく。どうやら音の出所はキッチンのようだ。
しばらくはそのままで粘ってみたが、頭はさえていく一方だ。
陽一はため息をつくと、二度寝はあきらめて音の発生源へ向かった。
「何やってんだ?」
「あ、おはよう、陽一さん」
背後から声をかけてみれば、こよりがとびきりの笑顔で振り向いた。その手元を見ると、ボウルと泡立て器を手にしている。生クリームだろうか。何やら白い物を泡立てているところだった。
「何作ってんだ?」
砂糖や小麦粉の袋が出ているから、お菓子だとは思うが。
「メレンゲだよ」
「めれんげ?」
ぶつけた疑問にさらりと答えられたものの、ほとんど料理をしない陽一は、それが何になるのかわからない。おうむ返しで首を傾げる陽一へ、こよりの説明が続く。
「卵の白身と、お砂糖を混ぜて泡立ててるの。ケーキ焼くんだよ」
ケーキねぇ。
甘い物は嫌いではないが、目がないというほどでもない陽一には、早朝から汗をかいて卵白を泡立てる気持ちが理解できない。
しかし、こよりとてそこまでの甘党ではないはずだが。
陽一の訝しげな顔をよそに、こよりは休み無く泡立て器を動かしている。その顔は妙に真剣で、陽一は、これ以上邪魔をすることに少々気がひけた。
「なぁ、朝めしは?」
「おむすび」
こよりが目で示した先には、焼きおにぎりと、だし巻き卵にかぶの浅漬けが盛られた皿がある。
「あたしは先に食べちゃったから、セルフでよろしくお願いします」
はいはい、と心の中だけで返事をして、おにぎりの皿と、冷蔵庫から取り出した麦茶のボトルを手に、陽一はキッチンを出た。
居間のテレビのスイッチを入れて座り、皿にかかったラップをはがすと、こうばしい香りが鼻をくすぐった。
醤油ではなく味噌が塗ってある焼きおにぎりは、陽一の大好物だ。かしりと一口かじると、味噌の塩気とごはんの甘味、火にあぶられた焦げめの香りが広がる。
食べ続けていくと、芯には梅干しが入っている。初めて食べた時は意外な組み合わせに思えたが、焼きおにぎりに梅の酸味はなかなか相性がいい。途中で強制的に口直しが入るので、食べ飽きないのだ。
ぼんやりとニュースを見ながら、一つめを食べ終える。気がつけば、キッチンの音はだいぶ静かになっていた。
だし巻き卵をつまんで、陽一は軽くため息をついた。不満のためではなく、卵焼きの甘味がちょうどよかったからだ。そして、苦笑いがもれる。めしがうまいってだけで、朝からこうして放ったらかしにされても許せるんだから、俺も単純だ。
やがて、キッチンからは甘い香りが漂ってきた。
それにしても、なんだって突然ケーキなんだ?
皿の上の物を残らずたいらげ、キッチンに意識を向けつつ煙草に火をつけると、陽一は天井へ大きく煙を吐き出した。
誰かの誕生日や何かの記念日という可能性を考えたが、思い当たるものは無い。他に何か忘れていることはないか、と首をひねったが徒労に終わった。
最後にいきついたのは、嫌がらせ、という、あまり考えたくない可能性だった。
このところ仕事に追われていた陽一は、こよりにあまりかまってやれずにいた。企画書を早くあげろとせっつかれて、そんな時間も、気持ちの余裕もまったく無かったのだ。それが今週、やっと一段落ついた。
たっぷり眠って、二人でのんびり食事をして。今日は、そんな当たり前の休日を久しぶりに満喫できるはずだったのだ。なのに、実際はこうして朝からたたき起こされ、一人でにぎりめしをかじっている。
多少放っておかれたからといって、お返しをするような拗ね方をする彼女ではない、と長年の付き合いから思う。思いはする、が。
そうして陽一があれこれと考えていると、突然キッチンから奇声があがった。
「はわあぁあー!」
「こより!?」
怪我でもしたのか、と陽一は慌てて腰を浮かしかけたが、そのわりには間の抜けた声だ。空いた皿を片付けがてらキッチンへ行くと、オーブンの前でこよりがへたり込んでいた。今にも泣きそうな顔で、口をぱくぱくさせている。
陽一は皿をシンクに置くと、こよりの隣にしゃがんで声をかけた。
「どうしたんだよ」
「し……」
「ん?」
「失敗してしまったぁ……」
陽一がオーブンの中をのぞくと、なるほど、ケーキになる予定だった生地は、型の中で無様にふくらみ損ねていた。だが、香りはいい。
「食えないのか、これ?」
訊いてみると、おいしくないよ、とつぶやいて、こよりはうつむいてしまった。
丸々生ゴミにしてしまうのは惜しい気がして、陽一は、カトラリーが入った引き出しからフォークを取り出すと、まだ軽く湯気が出ているそれに突き刺してみた。素直に先が入ってはくれなかったが、なんとか一切れ口にする。
固い。味は確かにケーキだが、この食感はなんと言ったらいいのだろう。ケーキのことをスポンジとも呼ぶらしいが、正に、食えるスポンジといったところか。
「味はいいぞ」
「無理に食べなくていいよぉ……」
まずいな。
ケーキはともかく、この状態のこよりはいただけない。放っておくと際限無く落ちこんで、いつ浮き上がってくるかわからなくなってしまう。
「別に、これはこれで食えるからいいじゃん。味はいいって。ケーキと思わなければ」
とりなすように陽一が話しかけていると、こよりが突然顔を上げる。
しまった、最後の一言が余計だったか。
「そうだ!」
「な、何?」
「普通のケーキと思わなければいいんだ!」
何がどう引き金になったのかさっぱりわからなかったが、どうやら元気は出たようだ。向こうで待ってて、と、こよりにぐいぐいと背中を押され、陽一はキッチンを追い出された。
二十分ほどして、何やら奮闘しているらしい気配がおさまると、こよりがグラスを手にキッチンから出て来た。
「はい、食べてみて」
フォークと共に渡されたグラスの中身は、一口サイズにカットされた、おそらくは先ほどの失敗作であるスポンジ生地。それに、ゆるめの生クリームとチョコレートソースがかけられている。刻まれた苺も見えた。
一つ口にする。
「うまい」
「よかったぁ」
陽一のつぶやきに、こよりがほっとしたように笑顔になった。緊張していたのか、肩からすっと力が抜かれる。
お世辞ではなく、本当においしかった。スポンジ生地は、どうやらシロップにでも浸されたらしく、しっとりしている。だが、怪我の功名というか、先ほどの歯ごたえがすべて消えてしまった訳でなく、かえって適度な食感が残り、生クリームとチョコレートソースのとろりとした感触の中でいいアクセントになっていた。味も、ただ甘いだけではなく、苺の酸味と、シロップに混ぜられた洋酒の香りが全体を引き締めている。
「イギリスのデザートに、トライフルっていうのがあるのを思い出したの。いやー、うまくいってよかった」
残って固くなっちゃったスポンジのリサイクルお菓子なんだよ、と蘊蓄をたれながら、こよりは、陽一がデザートを口に運ぶのをにこにこと見ている。
「陽一さん、このところ忙しくて疲れてるみたいだったから。疲れには甘い物が一番かなと思って」
「それで、朝からケーキか」
「うん」
どうかな、効いてきたかな、と、こよりは首を傾げてこちらを見ている。陽一は、思わず噴き出した。
「ぶははっ」
「え、え、何がおかしいの?」
こよりはこよりなりに、自分のことを考えてくれてのことだったのか。とはいえ、なんともずれた気遣いに笑いがこみ上げる。何より、それによってこんなにも上機嫌になっている自分がおかしかった。
「……甘いなぁ」
「嘘、そんなに?」
味のことじゃねぇよ、と陽一は心の中で答える。
俺が、おまえにだ。
青くなるこよりを横目に、陽一はトライフルをたいらげた。
【終】