ふわふわり‐秋のお話
「んー、いいお天気」
つぶやきながら一つ伸びをして、こよりはベランダの手すりに頬杖をついた。正確には、そこに干された布団の上に。
日に日に高くなる空と、時折ひやりと吹く風は、確実に秋が深まっていることを告げていた。だが、日差しはまだ十分に力強い。
晴れわたった空の下、ぽかぽか陽気を吸い込んでいく布団のぬくもりに、こよりは目を細めた。一人で楽しむのはもったいないと思いはしたが、このぬくもりを一番に分け合いたい人は、あいにく今は出かけている。
陽一さん、早く帰って来ないかな。
しばらく前に、煙草を買いに行く、と言い置いて出て行ったから、行き先はおそらくコンビニだ。煙草一つ買うだけにしては遅いが、雑誌の立ち読みでもしているのだろうか。
家事を済ませてしまった手持ち無沙汰を一人ぼっちでもて余していたこよりは、不意にあることを思い出した。
そうだ、あれ。
こんな天気の日に空に飛ばすには最高だ。そんなことを考えながら、キッチン脇に置いてある買い物バッグのところへ向かう。バッグの中を探ってお目当ての物を取り出すと、またベランダにとって返した。
鮮やかな色のプラスチック容器の蓋を開け、ラッパに似た形のストローに液をつける。吹き口から静かに息を送り込むと、先端から飛び出したシャボン玉は不規則な列を作り、上空にゆらゆらと昇っていった。
シャボン玉の揺らめく色が、青い空によく映える。
やがて、すべてが壊れて消えてしまうと、こよりは、またシャボン液をつけたストローをくわえた。少しだけ強めに息を吹き込むと、今度は、初めよりも細かなシャボン玉が群れをなして現れる。
そうやって、何度か消えては吹きを繰り返している内に、できる限り大きな物を作って飛ばしてみたくなった。ストローをくわえ、慎重に息を送り込む。先端から徐々にふくらみを増していくシャボンの膜を見つめつつ、息継ぎをしたこよりが、更に息を吹き込もうとした時だ。
「ただいま」
玄関の方向から、陽一の声が聞こえた。
「あ、おふぁえ……」
ぱちん。
「あっ」
反射的に振り返った衝撃で、シャボンの膜は呆気なく壊れてしまった。
「あーあ……」
「どうした?」
ベランダの手前までやって来た陽一に声をかけられると、こよりは、わざと口を尖らせてみせた。
「せっかく大きいの作ってたのに」
「なんだよ、俺のせいかよ」
こよりが本気でないことはすぐにわかるらしく、陽一も笑って返してきた。かまちの辺りに腰を下ろして、買って来たばかりの煙草に火を点けると、懐かしいことやってるな、と、こよりの手元を見て言う。
「わざわざ買ったのか?」
「ううん、佐藤さんちの由美ちゃんにもらったの」
「ああ、あの子か」
こよりが、二人の部屋の隣に住む家族の名前をあげると、陽一がうなずく。手作りのケーキを焼いた時など、よくお裾分けしに行くものだから、幼稚園に通うその家の娘はこよりになついているのだ。このシャボン玉セットは、その子からの日頃のお礼ということらしい。
「陽一さん、大きいの作れる?」
「大きいのはわからんけど、面白いのは作れる」
こよりからストローだけを受け取ると、陽一は深く煙草を吸った。煙を吐き出す前にストローをくわえ、息を吹き込む。
「わ、わ、わ」
目を丸くするこよりの前に、ふわん、と現れたのは、煙を封じ込めた白いシャボン玉だ。
「すごい、陽一さん! なんでそんなの作れるの?」
「ガキの頃、親父がやってくれたからな」
普通のものよりも頼り無げに浮かぶそれは、二人が見つめる前で、すぐにはじけて消えてしまった。あとには一瞬、煙が靄のような揺らめきをみせたが、それも消える。
ストローをこよりに返すと、陽一は笑った。
「思い出したよ。親父がこれをやると、子供を差し置いて、おふくろが一番に喜んでた」
「ふぅん、お義母さんもシャボン玉好きなんだ」
こよりは陽一の隣に腰を下ろすと、また大きいものを作ろうと挑戦し始めた。が、その努力は、陽一のつぶやきで無に帰する。
「親子で子供みたいな女に惚れたってのも、なんだかなぁ……」
「ふぁ?」
ぽしゃんと膜がしぼんだストローをくわえたまま、こよりが陽一を見ると、彼は何事も無いような顔で煙草をふかしている。だが、よく見ると耳たぶが少し赤い。
「あのー……今、何て?」
照れているらしい陽一の様子が可愛くて、こよりは、彼をからかってみたくなった。陽一は昇る煙を眺めたまま、聞こえなかったんならいいよ、と少しふてくされたように言葉を返す。
ストローを差し込んだ容器を脇に置くと、こよりは彼の腕に自分の両腕を絡ませた。
「えーと、聞こえてはいたんですけども」
「……だったら聞き直すな」
陽一の顔が、はっきりと赤くなった。
「もう一回聞きたいかなー、なんて」
「嫌だね」
「いいじゃない。ねぇ」
「おまえはシャボン玉で遊んでろ」
不機嫌な口調だが、こよりの腕を振り払ったりはしない。
陽一が吸い終わった煙草を灰皿に押しつけて消すのを待って、こよりは彼の肩に頬をすり寄せた。煙草の甘苦い香りがする。
「陽一さん」
「ん?」
「けち」
「知るか」
それがどうした、と言わんばかりだが、そっとこよりの頭に頬を寄せてくる仕草がやさしい。
口先だけの言い合いの言葉は、まるで、でき損ないのシャボン玉のようにはじけては消えていった。
【終】