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杏仁ブラマンジェ‐夏のお話

 無い。

 こよりは、冷蔵庫の前でうろたえていた。

 無い無い無い。あたしの杏仁豆腐!




 それは、あるコンビニで期間限定で発売された物だった。

『とろりとろける杏仁豆腐』

 コンビニでこれを見つけた時、こよりはこのネーミングにちょっと興奮した。何故なら、こよりが知っている杏仁豆腐は寒天ベースの固いやつだけだったからだ。

 それが、とろりとろけちゃうなんて……うわ、たまらない。

 しかも、棚にあるのはラスト一個。これは買うしかないでしょう、と、こよりは商品を手にいそいそとレジへ向かった。それが三日前のことだった。これっきり一期一会の味なのだから、すぐに食べるのはもったいない。そう思い、冷蔵庫に大事にしまっていただくタイミングを見はからっていた。

 そうしたら、だ。

 今日という日は何かの呪いかというくらいにすべてがうまくいかず、こよりは、胸のあたりが重苦しくなるのを止められずにいた。

 これはもう、食べるしかないよ。魅惑の杏仁豆腐さん。おいしくいただいて、その感動で元気を出してやる。

 夕食の前にはそう決めていた。冷たいデザートが一番おいしいのは風呂あがりだろうということで、いつもより時間をかけて入り、気持ちを盛り上げてもみた。

 そして、お待ちかねの瞬間がようやくやってきたというのに。いとしい杏仁豆腐の姿は、置いたはずの場所はもとより、冷蔵庫の棚のどこにも見当たらない。万が一と思い冷凍庫の中まで探ってみたが、やっぱり無いのだ。

 どうしよう。どうしたらいいんだろう。

 そりゃ、寝坊したとか、朝ごはんの目玉焼きを作る時に黄身がつぶれちゃったとか、一つ一つはたいしたことじゃない。

 でも、そんなささいなことでもいくつも重なると、今日という日が嫌いになりそうになっちゃうじゃない。そしたら、そんな自分をリセットしたいじゃない。なんでもいい、無理矢理お楽しみを作って。

 なのに、それが消えちゃってたら、どうしたらいいの。

 ショックのあまり冷蔵庫の前でへたりこんでいたこよりは、そこで、はたと気がつく。自分が食べていないのであれば、あとは一人しかいない。

 陽一さん!

 しかし、慌ててキッチンを出た時には既に遅く、こよりが居間で見た物は、陽一の前に置かれた空っぽの容器だった。

「あたしの杏仁豆腐!」

 こよりの突然の大声に、陽一がぎょっとする。しかし、こよりにはそんなことにかまっていられる余裕は無い。

「ああ、食っちゃった」

 気を取り直した陽一に、けろりと言われ、こよりはつい、かっとなった。

 食っちゃった、じゃないよ。食われちゃったのは、見ればわかるよ。なんで食っちゃったのかってことなのよ。

「なんで!?」

「なんでって、うまそうだったから」

 そりゃそうだよ、あたしだって一目惚れで買ってきたんだもの。絶対おいしかったに決まってる。

 あ、やばい。なんかぐるぐるしてきた。

 こよりがそう感じたとたん、陽一の顔がぼやける。

 嘘、あたし泣いてる? 子供じゃあるまいし、杏仁豆腐を食べ損ねたくらいで。

 頭の隅っこには冷静に考えている自分もいるのだが、それを感じることによって、泣いている自分が余計に情けなく思われて、更に涙が出た。

「なにも泣くことないだろ、杏仁豆腐くらいで」

 そこに陽一の呆れ声がかぶさる。

 かちんときた。自覚はあるのにどうにもならないところへ、そのセリフは火に油だ。

「勝手に食べちゃうことないじゃない。あたし、すっごい楽しみにしてたのに。サイテーだよ」

 こよりのねちねちとした口調に、陽一が少し鼻白んだ。

「こんなの、また買えばいいだろ」

「期間限定だから無理だもん。これだって最後の一個だったし」

「そんなに食いたかったんなら、なんですぐ食わないんだよ。冷蔵庫に入れっぱなしだったくせに」

「そんなのあたしの自由です」

 売り言葉に買い言葉とは、正にこういう状況のことを言うのだろう。気まずい沈黙の中、陽一の顔を見ることができず、こよりは自分の膝を見つめていた。

 やがて、陽一のため息が聞こえた。彼が立ち上がる気配と、玄関へ向かう足音が続く。

 こよりの耳に、ドアの閉じる音がやけに大きく響いてきた。

「うー……」

 言い合いで一度はひいた涙が、またにじむ。

 なんで、こんな風になっちゃうの?

 あんなことが言いたいんじゃなかった。別にコンビニデザートの一つ食べられたからって、こんなにこだわることじゃない。

 頭ではわかっていた。

 ただ、今日のマイナスな気持ちを全部、あの杏仁豆腐でリセットするつもりだったこよりには、どうにも我慢ならなかった。

 杏仁豆腐と一緒に、このもやもやした思いもとろかして、すべて呑みこんでしまうつもりだったのだ。それが突然無くなってしまったことで、逆上してしまった。

「陽一さんのばか!」

 ただ一言、彼がごめんと言ってくれていたら、こうはならなかったかもしれないのに。

 ぽろぽろとこぼれる涙をそのままに、こよりは陽一を責めた。

 だが、それはたいして長くは続かない。何故なら、こよりがあんな言い方をしなければ、陽一の反応もおのずと違っていたはずだからだ。それに、陽一が例え悪かったと思っていたとしても、あの時の自分は聞き入れられなかったと思う。

 あたしもばかだ。

 こよりは、ティッシュで思いきり鼻をかむと、ため息をついた。

 陽一さん、どこ行っちゃったんだろ。

 車の音はしなかったから、おそらくは近所にいるはずだ。

 一瞬、探しに行こうかとも思ったが、すぐに思い直す。公園やファミレス、コンビニなど、陽一が行きそうな場所はけっこう広範囲になる。

 それに、運よく彼が見つかったとしても、こんな気持ちのままでは同じことを繰り返してしまうかもしれない。まずはこの気持ちをどうにかしなくては。

 でも、どうやって?

 落ち着いてくると、泣いたせいだろうか、胃の辺りが寂しい気分に気づく。すっかり忘れていたはずのデザートへの執着心がむくむくとわき上がり、こよりは、コンビニへ向かうために立ち上がった。




 最寄りのコンビニまでは、徒歩で十分。道すがら、陽一が帰ったらなんと言おうかと考えてみたものの、いいアイデアは浮かばない。

 こよりは、煌々と通りを照らすコンビニの明かりを見て、心もスイッチを入れたらパッと明るくなればいいのにな、と、ぼんやり思った。

 自動ドアをくぐると、アルバイト店員のやる気のない声が出迎える。

 と。店の一番奥、要冷蔵の商品が並ぶ棚の前に、見慣れた後ろ姿があった。

 陽一さん。

 まだ顔を合わせるのは少し気恥ずかしい気がして、こよりは入り口脇の雑誌コーナーに向かった。先ほど泣いてしまったことを思い出し、ガラスに映る自分の顔をチェックしてみる。

 目の腫れぼったさを気にしつつ、陽一の様子をうかがうと、まったく動く気配がないのが気にかかった。

 ……何してんだろ。

 雑誌コーナーで立ち読みならともかく、牛乳などが置かれる棚の前で微動だにしないとは。不思議に思ったこよりは、そっと後ろから陽一に近づいてみた。

 右手をジーンズのポケットに突っ込み、左手にはコンビニの買い物かご。陽一が持つ、そのかごの中をのぞいたこよりは、目を疑った。

 そこには、もうお目にかかれないとばかり思っていた杏仁豆腐が入っていたのだ。それも、六つも。

 ぽっかりと空いた、それが置かれていたらしい場所を見ると、

『好評につき期間延長!』

と書かれたポップが揺れている。

 こよりは、じわじわと頬がゆるむのを感じた。

 杏仁豆腐にありつけるのも嬉しいが、陽一は、何のためにこれを買い占めようとしているのだろう。

 誰のために。

「いっぱいあるね」

 まだ素直に顔を見ることはできなくて、かごをのぞいたままで、後ろから陽一のTシャツの裾を引っ張る。

 陽一は驚いた顔で一度振り向きはしたものの、またすぐにそっぽを向いてしまった。

 まだ怒ってる?

 そう口にする代わりに、こよりは別のことを訊いてみた。

「六つも食べきれる?」

「……俺も食うから」

 俺も。

 ということは、これは、やっぱり自分のために買ってくれる物なのか。

 こよりは頬だけでなく、硬くなっていた心がゆるむのを感じた。




 帰り道。

 レジでデザート用のスプーンを一つだけ付けてもらい、こよりは歩きながら杏仁豆腐を食べ始めた。

「んぉっ……おいしーい」

 杏仁豆腐を頬ばるこよりを見て、行儀の悪いやつだな、と陽一が笑う。もう普段のままの二人だった。

 杏仁豆腐は、口に入れるとやわやわととろけ、するりと喉にすべり落ちていく。

 こよりの知っている今までの杏仁豆腐とは、確かに違う。だが、この食感にはなんとなく覚えがあった。

 容器を目の前に持ち上げ、街灯の明かりを頼りに側面に印刷された原材料を見る。生乳、生クリーム、砂糖、ゼラチン……。スプーンを口にくわえたままでしばらく悩んだ末、こよりは、頭の中の引き出しから一つのレシピを見つけ出した。

 そうか、ブラマンジェだ。舌の上でふるふると震えるこの感触は、あのデザート菓子にそっくりだ。

 作り方は、ふやかしたゼラチンに温めた牛乳と砂糖を合わせ、ゆるく泡立てた生クリームを混ぜて冷やすだけ。案外簡単だ。

 あれはアーモンドの香りをつけるんだけど、杏仁風味で作るなんて思いもよらなかったな。

 今度、自分でも作ってみようか。とろりとろけるそれを味わえば、今日のことを思い出せる気がする。

 嫌なことがあっても、けんかをしても。結局、何よりもこよりの心を溶かしてくれるのは、陽一なのだということを。

 隣を歩く陽一の横顔をそっと盗み見て、こよりは大事そうに杏仁豆腐の最後の一さじを口にした。


【終】

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