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婚約破棄されましたので、実家のワイナリーで第二の人生を始めます~王子様、私の醸したワインはもう二度とお口に入りませんわ~

作者: uta
掲載日:2026/03/15

【お知らせ】

この作品は生成aiを用いて執筆を行なっています

あらかじめご了承の上、お楽しみください

「セラフィーナ・フォン・ヴァインベルク。私はお前との婚約を破棄する」


王立学園の卒業パーティー。


シャンデリアが煌めく大広間に、王太子アルベルト殿下の声が高らかに響き渡った。


金色の髪を靡かせ、空色の瞳で私を見下ろすその姿は、まさに絵に描いたような王子様。


そして今、その完璧な唇から紡がれたのは——私が五年間待ち望んだ言葉だった。


(——来た)


私は内心で拳を握り締めた。歓喜の拳を。


「お前は地味で華がなく、王妃にふさわしくない。隣にいるリリアナこそ、聖女の加護を持つ真に私に相応しい女性だ」


殿下の腕には、蜂蜜色の巻き毛を揺らす男爵令嬢リリアナ・メル・バートンがしなだれかかっている。翡翠色の瞳を潤ませ、桃色の唇を震わせて、いかにも『私のせいでごめんなさい』という表情を作っていた。


「殿下、私のせいでセラフィーナ様が……本当に申し訳ございません……」


(その泣き真似、前世で見たソープオペラの三流女優より下手くそね。目、全然濡れてないじゃない)


私は内心で冷静に分析しながら、周囲を見渡した。


ざわめく貴族たち。


「可哀想に……」

「なんて残酷な仕打ちでしょう……」

「あの地味な令嬢、泣き崩れるのでは……」


彼らの視線には、同情と——そして少なからぬ好奇心が混じっている。公爵令嬢が公衆の面前で恥をかく様を、どこかで期待しているのだ。


(残念ね。私、泣く気なんてさらさらないのよ)


私は深く息を吸い、顔を上げた。


そして——満面の笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、殿下」


広間が、凍りついた。


「……は?」


殿下の整った顔が、間抜けに歪む。リリアナの潤んだ瞳が、困惑に揺れる。


「これで心置きなく、ワイン造りに専念できますわ」


私、セラフィーナ・フォン・ヴァインベルク。表向きは影の薄い公爵令嬢。社交界では『何を考えているか分からない地味な娘』と呼ばれ、常に王太子の三歩後ろを歩く、従順な婚約者を演じてきた。


しかしてその実体は——前世、日本の老舗ワイナリー『葡萄丘醸造』で過労死した三代目醸造家、佐倉芹香である。


享年三十歳。死因は過労。


ブラック企業と化した実家のワイナリーで、父親に使い潰された人生だった。


でも、この世界では違う。


この世界の父は私を愛してくれている。この世界には、私の才能を認めてくれる人がいる。


そして何より——この世界の葡萄畑は、私の帰りを待っている。


(殿下。あなたが私を解放してくれたこと、心から感謝しますわ)


五年間。政略結婚のために封印してきた私の夢が、今、解き放たれる。


「せ、セラフィーナ? お前、状況が分かっているのか?」


狼狽える殿下に、私は優雅に一礼した。五年間培った完璧な公爵令嬢の所作で。


「ええ、もちろん存じておりますわ。婚約破棄、でございましょう? 殿下のお心が変わられたのであれば、私がしがみつく道理はございません」


「い、いや、そうではなく……」


「では殿下、リリアナ様、末永くお幸せに」


(そして——味音痴の殿下には一生分からないでしょうね。今宵この瞬間、あなたが何を失ったのか)


私は踵を返した。


「待て! セラフィーナ、待たないか!」


殿下の声が背中に届く。


(待たない。待つものか)


前世では、理不尽に耐え続けて死んだ。


でも今世は違う。私は『戦略的撤退』を選ぶ合理主義者になったのだ。


(私の第二の人生は、今夜から始まる)


広間を出る直前、振り返らずに耳を澄ませた。


「な、なぜ泣かないの……? どうして笑っているのよ……!」


リリアナの困惑した声が聞こえる。


彼女の計画では、私は泣き崩れ、懇願し、惨めな姿を晒すはずだった。それを見下ろして優越感に浸るはずだった。


残念ね、リリアナ。


私はあなたの脚本通りには動かない。


(さようなら、王宮。さようなら、退屈な社交界)


私は大広間の扉をくぐり抜けた。


夜風が頬を撫でる。それは自由の風だった。



     ◇ ◇ ◇



パーティー会場を出ると、見慣れた馬車が既に待機していた。


漆黒の車体に銀の葡萄の紋章。ヴァインベルク公爵家の馬車だ。


扉を開けたのは、白髪を完璧に撫でつけた老執事セバスチャン。その皺の刻まれた顔には、押し殺しきれない喜色が浮かんでいる。


「お帰りなさいませ、お嬢様。——お待ちしておりました」


その言葉には、二重の意味が込められていた。


「ええ、セバスチャン。長かったわね」


私は微笑んで馬車に乗り込んだ。


座席には既に書類の束が用意されている。『婚約破棄後事業計画書 第七版』と表紙に記されたそれを手に取り、私は思わず笑みを零した。


「醸造所の準備は整っております」


セバスチャンの言葉に、私は目を見開いた。


「……もう?」


「お嬢様が十二歳の頃から、少しずつ」


十年。


この老執事は、十年もの間、この日のために準備を続けてくれていたのだ。


私が五歳で葡萄畑の土壌の違いを言い当てた時。六歳で収穫時期を正確に予測した時。セバスチャンは私の才能に気づいていた。


そして、政略結婚という『足枷』がいつか外れる日を——この日を、信じて待っていてくれた。


(前世では過労死するまで働いて、誰も助けてくれなかったのに)


目頭が熱くなる。しかし、ここで泣いては負けだ。私は咳払いをして書類に目を落とした。


「王家への供給停止の件は」


「公爵様のご署名をいただければ、即日発効可能でございます」


「相変わらず仕事が早いわね」


「お褒めに預かり光栄です」


セバスチャンの声には、珍しく感情が滲んでいた。五十年仕えた公爵家への忠誠。そして、私への深い愛情。


馬車が走り出す。窓の外には、王都の夜景が流れていく。きらびやかな貴族街を抜け、郊外へ。


やがて見えてくるのは——広大な葡萄畑。


月明かりに照らされた葡萄の葉が、風に揺れている。丘陵地帯に広がる緑の絨毯。その美しさに、私は息を呑んだ。


「ただいま」


私は窓に額をつけ、その光景に囁いた。


五年間、見ることしかできなかった葡萄畑。婚約者として王宮に縛られ、この畑に触れることすら許されなかった。


でも、もう違う。


明日からは、この畑を自由に歩ける。土に触れ、葡萄を育て、ワインを醸せる。


「お嬢様」


セバスチャンが静かに言う。


「明日、隣国クラレンスより外交使節団が到着いたします。団長は第二公子エドワード殿下」


「……あの『氷の貴公子』が?」


『氷の貴公子』『北の冷血公子』。


クラレンス王国の第二王子にして筆頭外交官、エドワード・レイ・クラレンス。無愛想で寡黙、笑顔を見せることは皆無とされる、冷徹な外交官。


「ええ。そして、非公式ながら『ヴァインベルク家のワインを所望』とのこと」


私の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。


(エドワード殿下……)


十二年前の記憶が蘇る。


あの日、外交随行で我が領地を訪れた十二歳の少年。無愛想で、ほとんど口を利かなかった彼に、私は子供用の葡萄ジュースを差し出した。


『お姉さん、これ、すごく美味しい。一生忘れない』


はにかみながら、そう言った少年の顔。


(あの少年が、今や『氷の貴公子』……)


「面白くなってきたわね」


馬車の中、私は静かに笑った。


王太子が私を捨てた夜、運命は新たな出会いを用意していた。



     ◇ ◇ ◇



翌朝、私は父の書斎を訪ねた。


レオンハルト・フォン・ヴァインベルク公爵。王国有数の名門貴族にして、私の最大の理解者。


葡萄色の髪をオールバックに整え、厳格さを感じさせる黄金色の瞳。五十代だが鍛えられた体躯を維持している。威厳ある風貌だが、私の前では時折、不器用な優しさを見せる人だ。


「父上、お話が」


「ああ、聞いている」


父は執務机から顔を上げ、厳格な表情で私を見た。黄金色の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。


「婚約破棄、だな」


「はい」


沈黙が落ちる。


朝日が窓から差し込み、父の白髪混じりの髪を照らしている。


私は覚悟を決めた。たとえ父が王家との関係修復を望んだとしても、私はもう後には退かない。五年間、従順な婚約者を演じ続けた。もう十分だ。


「父上、私は——」


「セラフィーナ」


父が立ち上がった。長身の体躯が、朝日を背に影を落とす。


「すまなかった」


——え?


「お前を政略の道具にした。お前の……才能を、封じ込めた」


父の声が、僅かに震えている。


「父上……?」


「五歳の頃、お前が葡萄畑で『この土は足りない』と言った時。六歳で収穫時期を言い当てた時。私は気づいていた。お前には、天賦の才がある」


父が一歩、近づいてくる。


「それを王家への忠誠と引き換えに奪った。愚かな父を、許してくれ」


大きな手が、私の頭にそっと置かれた。


不器用で、温かい手。


(……ああ、この世界の父は、前世の父とは違う)


前世の父、佐倉家の当主は、私を跡継ぎの道具としか見ていなかった。『女だから』と軽んじながら、『醸造の才能があるから』と都合よく使い潰した。感謝の言葉一つなく、私は三十歳で過労死した。


でも、この世界の父は。


「父上」


私は微笑んだ。今度は演技ではなく、心からの笑顔で。


「これからは、自分の足で歩きます。そして必ず——公爵家のワインを、世界一にしてみせます」


父の厳格な顔が、ゆっくりと綻んだ。


「ならば、これを」


差し出されたのは、一枚の書類。


『王家御用達ワイン供給停止通達書』


既に父の署名が入っている。


「父上!」


「遠慮するな。あの味音痴の小僧には、もったいない」


私は目を見開いた。父も分かっていたのだ。王太子が味音痴であることを。


「公爵家のワインは、代々の当主が命を懸けて守ってきた宝だ。それを味の分からぬ者に供する必要はない」


父の黄金色の瞳に、静かな怒りが宿っていた。娘を『地味で華がない』と切り捨てた王太子への怒り。そして、それを止められなかった自分への怒り。


「父上、ありがとうございます」


私は書類を受け取り、高らかに宣言した。


「本日より、公爵家のワインは王家には一滴たりとも供給いたしません」


窓の外、葡萄畑が朝日に輝いている。


戦いが、始まる。



     ◇ ◇ ◇



その日の午後。


「クラレンス王国第二王子、エドワード・レイ・クラレンス殿下のお成りでございます」


公爵家の応接間。セバスチャンの声に続いて、一人の青年が入室した。


霜を思わせる銀灰色の髪。北の海のように深い群青色の瞳。切れ長の目元には一切の感情が見えず、『氷の貴公子』の異名に相応しい冷厳さを纏っている。


黒を基調とした簡素だが仕立ての良い服。長身で無駄のない体躯、軍人のような姿勢の良さ。


(……大きくなったわね)


十二年前、外交随行で我が領地を訪れた少年の面影が、その端正な顔立ちの奥に残っている。


「お久しぶりでございます、エドワード殿下」


私は完璧な礼を取った。公爵令嬢として、一分の隙もなく。


「ああ」


それだけ。愛想の欠片もない返事。


(噂通りの無愛想ね。でも……)


私は気づいていた。殿下の群青色の瞳が、一瞬だけ揺らいだことを。


「本日は、我が家のワインをご所望と伺いました」


「……そうだ」


「残念ながら、現在醸造中のものは全て実験段階でして。お出しできる品がございません」


嘘ではない。私が本当に造りたいワインは、まだこの世界に存在しないのだから。


「では」


エドワード殿下が、一歩前に出た。


群青色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。氷のように冷たいはずのその視線に、不思議な熱が宿っていた。


「十二年前に飲んだものと、同じものを」


私は息を呑んだ。


「……覚えて、いらっしゃるのですか」


「一日たりとも、忘れたことはない」


氷の貴公子の声が、僅かに熱を帯びた。


「あの葡萄ジュースの味を、私はずっと探していた」


群青色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。その奥に、十二歳の少年の面影が重なった。


『お姉さん、これ、すごく美味しい。一生忘れない』


あの日、無愛想な少年がはにかみながら言った言葉。


社交辞令だと思っていた。子供の戯言だと思っていた。


(まさか、本当に覚えていたなんて)


「……少々お待ちください」


私は立ち上がり、セバスチャンに目配せした。


地下貯蔵庫の奥。誰にも見せたことのない、私だけの秘密の棚。そこに眠る一本を、取りに行く。


『婚約中に造った、たった一本の試作品』


王太子には絶対に飲ませないと決めていた、私の魂の一本を。



     ◇ ◇ ◇



「こちらを」


私はエドワード殿下の前に、深い紅色のワインを注いだグラスを置いた。


琥珀がかった深紅。まるで熟成されたルビーのような輝き。


「これは……」


「三年前、婚約中に密かに醸造したものです。この世界にはまだない製法で造りました」


前世の知識を総動員した、マロラクティック発酵とオーク樽熟成の融合。この世界の技術では再現不可能な、私だけの魔法。


殿下がグラスを手に取る。


まず色を確認し、光にかざす。次に香りを嗅ぎ、ゆっくりと鼻腔に含む。そして一口、舌の上で転がすように味わう。


沈黙。


長い、長い沈黙。


(……やっぱり、この世界の人には合わなかったかしら)


不安が胸をよぎった瞬間。


「——っ」


エドワード殿下が、息を呑んだ。


氷の貴公子と呼ばれた無表情が、崩れる。群青色の瞳が見開かれ、薄い唇が戦慄くように開いた。


「これは」


声が、震えている。


「この味は、あの日の葡萄ジュースと……同じ『魂』がする」


私は息を呑んだ。


(この人……分かるの? 造り手の『魂』が?)


前世でも、そんな繊細な舌を持つ人間には滅多に出会えなかった。ワインから醸造家の想いを読み取れる、稀有な才能。


「殿下は、ワインがお好きで?」


「好きというより」


殿下が静かに言った。群青色の瞳が、グラスの深紅を見つめている。


「君の造るものだけが、私の舌に残る」


心臓が、大きく跳ねた。


「十二年間、各国のワインを飲んできた。フランツ王国の貴腐ワイン、エスタール公国のスパークリング、南方のデザートワイン。しかしどれも、あの日の味には及ばなかった」


殿下がグラスを置き、真っ直ぐに私を見た。


「セラフィーナ嬢。いや——」


氷の瞳が、初めて溶けたように温かみを帯びる。


「芹香」


私は凍りついた。


「な……っ」


「あの日、君は寝言で呟いていた。『せりか』と。自分の名前のように」


十二年前。


疲れて葡萄畑で眠ってしまった私を、この人は見ていたのだ。


「調べた。この世界に『せりか』という名は存在しない。王国の古語にも、隣国の方言にも、どこにもない」


「殿下……」


「つまり——」


「殿下」


私は声を絞り出した。


「それ以上は」


「言わない」


殿下が頷いた。その群青色の瞳には、不思議な優しさがあった。


「君が話したくなるまで、待つ」


そして、氷の貴公子は生まれて初めて——微笑んだ。


硬かった表情が溶け、切れ長の目元が柔らかく緩む。その笑顔は、十二年前にはにかんだ少年そのものだった。


「ただ、一つだけ」


「……なんでしょう」


「君の造るワインを、生涯隣で味わいたい」


私の心臓が、止まりそうになった。


「私をその資格のある人間だと、認めてもらえるだろうか」


これは、求婚だ。


昨夜婚約を破棄されたばかりの私に、隣国の王子が跪いている。


(人生って、本当に何があるか分からないわね)


私は微笑んだ。今度は、心からの笑顔で。


「まずは、私のワインが世界一になるのを見届けてくださいませ」


「望むところだ」


二つのグラスが、静かに触れ合った。


透明な音が、応接間に響く。


それは、新たな約束の音だった。



     ◇ ◇ ◇



エドワード殿下が帰国した翌日、私は醸造所に向かった。


公爵家の敷地内、葡萄畑を見下ろす丘の上に建つ石造りの建物。ここが、私の新たな戦場だ。


「お嬢様!」


真っ先に駆け寄ってきたのは、侍女のマリーだ。栗色のお団子頭を揺らし、そばかすだらけの顔を輝かせている。


「聞きました! 婚約破棄されたって! おめでとうございます!」


「……おめでとう、で合ってるのかしら」


「だってお嬢様、ずっと『早く自由になりたい』って言ってたじゃないですか」


(言ってたかしら? いや、言ってたわね、この子の前では)


マリーは元々、我が領地の葡萄農家の娘だ。私が収穫を手伝った時に『この娘、使える』と思ってスカウトした。前世の感覚で言えば、有能なバイトリーダーである。


「それで、今日から何を造るんですか?」


マリーの丸い茶色の瞳が、期待に輝いている。


「まずは現状確認よ。ピエールを呼んで」


「はい!」


醸造所の奥から現れたのは、白髪と白髭を蓄えた巨漢の老人。公爵家の醸造長、ピエール・ドゥ・モンラッシェ。四十年この道一筋の頑固職人だ。


赤ら顔で大きな鼻、笑うと目が消える人の良さそうな顔立ち。しかし今は、その顔に不機嫌さが滲んでいる。


「お嬢様」


低い声でそう言ったきり、ピエールは私を睨んでいる。


(この人、私のこと嫌いなのよね)


無理もない。六歳の小娘に『この葡萄は二日後に収穫した方がいい』と言われて、しかもそれが正解だったのだから。四十年の経験を持つ職人のプライドは粉々だろう。


「ピエール、単刀直入に言うわ」


「……なんでしょう」


「私はこれから、この世界にない製法でワインを造る。あなたの四十年の経験と、私の知識を組み合わせたい」


沈黙。


ピエールの灰色の瞳が、鋭く私を見据える。


「お嬢様の『知識』とやらが、本物かどうか」


「分かってる。だから、まず一本造らせて。それを飲んで判断して」


私は真っ直ぐにピエールを見た。前世で培った醸造家としての覚悟を込めて。


「私を『師匠』と呼べとは言わない。でも、対等なパートナーにはなりたい」


ピエールの目が、僅かに揺れた。


長い沈黙。


そして——


「……一本だけだ」


「十分よ」


私は袖をまくった。


「さあ、始めましょう。まずは発酵槽の温度管理から——」


こうして、私の第二の醸造人生が幕を開けた。



     ◇ ◇ ◇



その頃、王宮では。


「なんだこれは!」


アルベルト王太子の怒声が、晩餐の間に響き渡った。


テーブルには豪華な料理が並び、シャンデリアが煌めいている。しかし王太子の顔は、怒りで赤く染まっていた。


「殿下、いかがなさいましたか?」


侍従が恐る恐る尋ねる。


「このワイン、いつもと違うぞ! 安物を出したのか!」


「い、いえ、王家御用達の品でございますが……」


「嘘をつけ! こんな不味いものが御用達のはずがない!」


アルベルトは杯を叩きつけた。赤い液体がテーブルクロスに染みを作る。


「すぐにヴァインベルク公爵家に連絡を取れ! いつもの品を持ってこさせろ!」


「そ、それが……」


侍従が青ざめながら報告する。


「ヴァインベルク公爵家より通達がございまして。『本日より王家への供給を停止する』と……」


「……なんだと?」


アルベルトの顔から、血の気が引いた。


「ふざけるな! たかが婚約破棄で、王家に逆らうというのか!」


「殿下」


冷たい声が、背後から響いた。


振り向くと、王妃ヴィクトリアが氷のような瞳でアルベルトを見下ろしている。銀髪を高く結い上げ、灰色の瞳で全てを値踏みするような視線。


「母上」


「愚か者」


王妃の声には、隠しきれない軽蔑が滲んでいた。


「お前は自分が何を失ったか、分かっているのか」


「な、何を——」


「ヴァインベルク家のワインは、王国随一の品質。外交の場で供されるあのワインがあればこそ、我が国は隣国と対等に渡り合えていた」


王妃がテーブルの上の杯を一瞥する。こぼれた赤い液体が、まるで血のように見えた。


「それを、『地味な娘』の一言で捨てたのだ、お前は」


「で、ですが母上! リリアナは聖女の加護を——」


「聖女?」


王妃の唇が、皮肉に歪んだ。


「本物かどうか、確かめたのか?」


「……え?」


「まあいい。いずれ分かる」


王妃は踵を返した。


「来月の隣国との晩餐会、どうする気だ? あのワインなしで、クラレンスの王族をもてなせると思っているのか」


扉が閉まる音が、アルベルトの焦燥を深くした。


(……セラフィーナ。まさか、お前)


初めて、王太子の脳裏に『後悔』の二文字がよぎった。



     ◇ ◇ ◇



同じ頃、リリアナ・メル・バートンは自室で爪を噛んでいた。


「どうして……どうしてあの女、あんなに平気な顔で……!」


婚約破棄の場で、セラフィーナが見せた笑顔が忘れられない。


泣き崩れるはずだった。懇願するはずだった。それを見下ろして『可哀想に』と優越感に浸るはずだった。


なのに、あの女は——笑った。心から嬉しそうに。


「『ありがとうございます』ですって……!」


リリアナは鏡台の小物を払い落とした。香水瓶が割れ、甘ったるい香りが部屋に充満する。


「お嬢様、落ち着いてください」


入ってきたのは父、フィリップ・バートン男爵。脂ぎった顔に、いつもの揉み手。しかし今日は、その小さな目に焦りが浮かんでいる。


「父様、何かあったの?」


「それが……王妃殿下より、『聖女の加護の真贋を確かめる儀式』を行うと……」


「なっ……!」


リリアナの顔が、蒼白になった。


聖女の加護など、持っていない。光る演出は、買収した神官と仕込んだ魔道具によるもの。儀式などされたら、一瞬で嘘がバレる。


「父様、なんとかして!」


「わ、分かっておる。神官への根回しを……」


「そんな悠長なこと言ってる場合じゃないでしょう!」


リリアナは父を睨みつけた。


「あの地味女のせいよ……! あいつが大人しく泣いていれば、こんなことには……!」


(セラフィーナ・フォン・ヴァインベルク)


リリアナは奥歯を噛み締めた。


(必ず、必ず潰してやる。あなたが二度と笑えないように……!)


しかしこの時、リリアナは気づいていなかった。


自分が既に、破滅への一本道を歩いていることに。


そして——セラフィーナが、そんな小物のことなど眼中にないことに。



     ◇ ◇ ◇



「マロラクティック発酵?」


ピエールが眉をひそめる。


醸造所の地下、私は発酵槽の前で説明を続けていた。ひんやりとした空気の中、樽の並ぶ空間に私の声が響く。


「乳酸菌を使って、リンゴ酸を乳酸に変える製法よ。酸味が柔らかくなって、より複雑な風味が生まれるの」


「聞いたことがない」


「当然よ。この世界には、まだないもの」


私は微笑んだ。


前世の知識。この世界では誰も知らない醸造技術。それが私の最大の武器だ。


「お嬢様」


マリーが首を傾げる。栗色のお団子頭が揺れる。


「その『まろらくてぃっく』って、どこで習ったんですか?」


「夢で見たの」


「夢……?」


「ええ、とても長い夢。三十年分くらいの」


(嘘は言っていないわ。前世は確かに、夢のようなものだったから)


ピエールが腕を組んで考え込んでいる。節くれだった大きな手が、職人の年輪を物語っている。


「仮にその製法が本物だとして、乳酸菌はどこから」


「ここよ」


私は足元の土を指さした。


「この葡萄畑の土壌には、天然の乳酸菌が豊富に含まれているわ。父上の代から農薬を使わなかったおかげで、微生物が生きている」


「……なぜそれを」


「分かるのよ、私には」


ピエールの目が、複雑に揺れる。


四十年の経験を持つ職人にとって、六歳の小娘に知識で負けることは屈辱だっただろう。しかし同時に、彼は職人だ。本物の技術を前にすれば、頭を下げる潔さを持っている。


「……やってみよう」


ピエールが、ついに頷いた。


「お嬢様の製法と、ワシの四十年を組み合わせる。それで最高の一本を造れるなら、ワシのプライドなど安いものだ」


「ありがとう、ピエール」


「礼はまだ早い。結果を見てからだ」


頑固職人の目に、久しぶりの闘志が宿っていた。



「お嬢様!」


マリーが駆け込んできたのは、その直後だった。


「隣国から、正式な書状が届きました!」


「エドワード殿下から?」


「はい! 来年の国際品評会に、ヴァインベルク家のワインを特別枠で出品できるようにしてくださったそうです!」


私は書状を受け取り、一読した。


『君の造るワインを、世界に知らしめる舞台を用意した。私はその日を、誰よりも楽しみにしている。——エドワード』


(この人、本当に……)


氷の貴公子のはずが、私に対してだけは甘すぎる。


「お嬢様、顔が赤いですよ」


「う、うるさいわね!」


私は書状を胸に抱いた。


目標は定まった。来年の品評会で、最高賞を取る。


そして王太子に、私を捨てたことを一生後悔させる。


「さあ、始めましょう」


私は醸造所を見渡した。樽が並ぶ空間、発酵槽の列、そして窓から見える葡萄畑。


「この一本に、私の全てを注ぐわ」



     ◇ ◇ ◇



三ヶ月後。王宮の晩餐会。


「な、なんだこの恥は……!」


アルベルト王太子は、蒼白な顔でテーブルを見つめていた。


クラレンス王国からの外交使節団を迎えた晩餐会。王家の威信をかけた宴のはずだった。


しかし——。


「王太子殿下、このワインは何かね」


クラレンスの外交官が、眉をひそめている。


「我が国では、このような品質の酒を客人に出すことはないが」


「そ、それは……」


ヴァインベルク家のワインなき今、王家が調達できたのは二流品ばかり。『王家御用達』のラベルを貼っても、中身は誤魔化せない。


「ふむ。ところで」


外交官が意味ありげに微笑んだ。


「我が国のエドワード殿下が、最近ある令嬢のもとに通い詰めているそうですな」


「……は?」


「ヴァインベルク公爵家のご令嬢。なんでも、世界一の醸造家を目指しているとか」


アルベルトの顔が、引きつった。


「殿下はその令嬢を『我が国の至宝』と評され、来年の品評会への特別出品も手配されたそうで」


「……っ」


「ああ、そういえば」


外交官の笑みが、深くなる。


「その令嬢、先日まで王太子殿下の婚約者だったとか。『地味で華がない』と破棄されたそうですが——」


「わ、私は……!」


「我が国から見れば、実に勿体ないことをされましたな」


外交官が杯を掲げる。その中身は、明らかに嘲笑を込めて。


「このワインのように、『見る目がない』と言われても仕方ありますまい」


アルベルトは、何も言い返せなかった。



晩餐会が終わり、一人になった王太子は、空になった杯を見つめていた。


(セラフィーナ……お前は、こうなることを分かっていたのか)


あの日、婚約破棄を告げた時の笑顔。『ありがとうございます』と言った、あの晴れやかな表情。


(私は……何を、失ったのだ)


初めて、王太子は気づいた。


自分が捨てたのは、地味な婚約者ではなかった。


王国随一の才能と、王家の威信を支えていた宝石だったのだ。


「……取り戻す」


アルベルトは拳を握った。


「必ず、取り戻してみせる」



しかしこの時、王太子はまだ知らなかった。


セラフィーナの心が、既に別の場所にあることを。


そして——彼女が次に造るワインが、世界の歴史を変えることになることを。



     ◇ ◇ ◇



一年後。隣国クラレンスにて開催された国際品評会。


「最優秀賞は——ヴァインベルク家の『暁紅ぎょうこう』に決定いたしました!」


会場が、どよめいた。


壇上に立つ私の前に、黄金のトロフィーが差し出される。その輝きは、私の目を眩ませた。


(やった……やったわ……!)


前世では叶わなかった夢。世界一の醸造家という称号。


それが今、私の手の中にある。


「おめでとう、セラフィーナ」


隣に立つエドワード殿下が、静かに微笑んだ。氷の貴公子の表情は、今や完全に溶けている。


「殿下のおかげですわ」


「私は舞台を用意しただけだ。主役は君だ」


殿下が、私の手を取った。


「改めて言わせてほしい」


群青色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめる。会場の視線が、私たちに集まっていることなど、気にもならなかった。


「君の造るワインを、生涯隣で味わいたい。セラフィーナ・フォン・ヴァインベルク——私の妻になってくれ」


会場が、静まり返った。


隣国の王子が、公衆の面前で求婚している。


私は微笑んだ。


「一つ、条件がございますわ」


「なんなりと」


「私がワインを造り続けることを、お許しくださいませ」


「当然だ。それが君の魂だ。奪う気はない」


私は深く息を吸い、頷いた。


「では、喜んでお受けいたします」


会場が、歓声に包まれた。



     ◇ ◇ ◇



その頃、レギウス王国では。


「嘘だ……嘘よ……!」


リリアナ・メル・バートンは、神殿の床に跪いていた。


聖女の加護を確かめる儀式。光輝くはずの聖印は、何の反応も示さなかった。


「この者、聖女の加護を偽っておりました!」


神官の声が、神殿に響く。


「偽聖女として、厳罰に処されるべきです!」


「ま、待って……これは何かの間違いで……!」


リリアナの懇願は、誰の耳にも届かなかった。


王太子アルベルトは、蒼白な顔でその光景を見つめていた。


(私は……私は、偽物を選んだのか)


『地味で華がない』と捨てた令嬢は、今や隣国で最高の栄誉を手にしている。


『聖女の加護を持つ』と信じた令嬢は、詐欺師だった。


「殿下……殿下、お助けください!」


リリアナが手を伸ばす。しかしアルベルトは、その手を取らなかった。


「……私に近づくな」


冷たい声が、神殿に響いた。



     ◇ ◇ ◇



数日後、ヴァインベルク公爵邸に一通の書状が届いた。


『セラフィーナ、頼むから戻ってきてくれ。私が間違っていた。お前こそが、私の真の婚約者だ。——アルベルト』


私はその書状を一読し、静かに暖炉に投げ入れた。


「お嬢様、お返事は?」


セバスチャンが尋ねる。


「不要よ」


私は微笑んだ。


「味音痴の殿下には、私のワインは勿体ないもの」



窓の外では、葡萄畑が陽光に輝いている。


今年も、美しい葡萄が実るだろう。そしてそれは、私の手で最高のワインになる。


隣国では、エドワード殿下が私を待っている。


私を『芹香』と呼んでくれる、私の全てを受け入れてくれる人。


(これが、私の第二の人生)


前世では過労死で終わった人生。この世界では、愛する人と、愛する仕事と共に生きていく。


「セラフィーナ」


振り向くと、エドワード殿下が立っていた。


「迎えに来た」


群青色の瞳が、優しく私を見つめている。


「行きましょう」


私は殿下の手を取った。



これは、一杯のワインから始まる物語。


捨てられた令嬢が、自分の手で未来を切り拓く物語。


見る目のない愚か者が一生後悔し、見る目のある者が至福を得る物語。


そして——前世の記憶を持つ醸造家が、新たな世界で最高の一杯を造り上げる物語である。



「ねえ、殿下」


馬車の中、私は呟いた。


「なんだ」


「私、この世界に生まれてきて良かったわ」


エドワード殿下が、微笑んだ。


「私もだ。君がいる世界で良かった」


二人の手が、重なる。


窓の外には、広大な葡萄畑が広がっていた。



【完】

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― 新着の感想 ―
お酒が飲みたくなってきた。 あと素敵なパパですね。それにひきかえ前世のモラハラパパはぶちゃいくなハネオツパイ(アルコール好きな動物)にでも生まれ変わってます様に。
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