4
市役所から許可証を貰ったってことは、なにか考えがあるってことなんでしょうね。
深層部へと落下しながら――いや、無論本当に落下しているわけではない。これは視覚神経に直接送られている、位置情報の変化を人間が理解するための比喩的表現に過ぎない――三毛猫は訝しげな視線を相棒に投げた。
周囲では、光の粒子のようなデータ断片が上方へ流れていく。
表層からこぼれ落ちたキャッシュ。削除されたはずのログ。名前を失った識別子。
深く潜るほど、それらは古くなり、重くなる。
視線を投げられたシリルは腕を組みながら「うーん」と、唸った。
「あきれた!なんにも考えなしに潜るつもりなの!?」
その時グリッチャは、普通の猫ならばできないように、二足歩行の姿勢で腰に手を当てた。尻尾が苛立たしげに左右へ揺れる。
「深層部がどれほどの領域が広がっているのか、検討もつかないのよ。その中で一個人の……しかも無名の一般人のデータなんか見つかりっこない!」
声が、わずかに反響した。
深層に近づくほど、空間の解像度は曖昧になる。
座標そのものが、AIの解釈に依存しているからだ。
シリルは、落下し続ける光景を眺めながら言った。
「ネットの領域は無限じゃないさ」
グリッチャが眉をひそめる。
「……なに?」
「限界がある」
シリルは、自分の掌を見た。
そこには、現実の肉体の感覚を模倣した触覚フィードバックが微かに残っている。
「データは、どこかに保存されなきゃ存在できない。保存するには媒体がいる。媒体を動かすには電力がいる。電力を作るには資源がいる」
彼は、上方――すでに見えなくなった表層の方角を顎で示した。
「サーバーは水で冷やされてる。冷やさなきゃ焼き切れるからな」
それは、この時代では常識に近い話だった。
巨大データセンターは、川の近くや海沿いに建設される。
膨大な演算が発生させる熱を、絶えず水で奪い続けなければならない。
「水と電気の量に比例する」
シリルは続けた。
「つまり、ネットの大きさは地球の大きさを超えられない」
グリッチャは、しばらく何も言わなかった。
落下は続いている。
だが、暗闇の密度が変わってきていた。
光が減っている。
新しいデータが、ここまでは届かない証拠だった。
「……いつから反演算主義者みたいなこと言うようになったの」
グリッチャの冷ややかな視線が向けられたのをシリルは無視した。グリッチャが反演算主義--グリッチャが言うには旧世代の懐古厨--のことを心底嫌いなのを知っての冷やかしだった。
「まぁ、怒るなよ」
「別に怒ってなんかない」
そう言って尻尾の先端を曲げた。ご機嫌斜めにさせてしまったのは間違いないようだった。普通ならばここまでヘソを曲げさせると、どんな仕事でも放棄して姿を見せなくなるのだが……今回は深層部への潜水許可証が効いているのだ。
深層部へ政府の下部機関とはいえ市役所の旗の下で潜れることは、グリッチャにとっては喉から手が出るほど欲しいに決まっている。だから珍しく……我慢しているのだ。
三毛猫のグリッチャを他の人間は“深層のあきれた探訪者”と呼ぶ。半分は冷ややかな目で、半分は畏怖を込めて。
深層部への潜水は脳自体にとんでもない負荷がかかる。
視覚化された空間は比喩に過ぎないが、比喩を維持するための演算は現実の神経に委ねられている。
脳は“存在しない空間”を理解しようとし、その辻褄合わせのために現実の感覚を削り取る。
浅層であれば問題はない。
人間が作り、人間が使い、人間が整理してきた領域だからだ。
だが深層は違う。
そこは――人間の理解を前提としていない。
2020年代。
生成AIが爆発的に普及し始めた頃から、ネットは人間だけのものではなくなった。
AIは文章を書き、絵を描き、音楽を作り、コードを書き、別のAIを設計した。そして最適化を繰り返すうちに、人間が読む必要のないデータを作り始めた。
読むためではないデータ。
理解されることを前提としない記録。
反演算主義者たちはそれをこう呼んだ“AIの暴走”と。ただ演算の中間生成物として生まれ、用済みになり、だが削除されることもなく沈殿していくもの。
それらはゴミとして扱われた。
だが。
ゴミは完全には消えない。
ネットワークの帯域。
記憶媒体の冗長性。
分散保存。
そして、AI自身による再利用。
誰にも見られないまま、誰のためでもないまま、データは深層へと沈んでいった。
やがてそこは――人間のものではない領域になった。
「……ねぇ」
グリッチャが、不意に口を開いた。
声は先ほどまでよりも低かった。
「アンタ、知ってる?」
シリルは視線を向ける。三毛猫は落下しながら、前方の暗闇を見据えていた。
「深層って、“削除された場所”じゃないのよ」
尾が、ゆっくりと揺れる。
「削除できなかったものが、流れ着く場所」
シリルは肩を竦めた。
「ゴミ溜めってことだろ」
「違う」
即座に否定した。
珍しいほど、強い口調だった。
一瞬の沈黙。
グリッチャは続けなかった。代わりに、わずかに欠けた片耳がぴくりと動いた。
その仕草は――何かを探しているもののそれだった。シリルはそれ以上突っ込まなかった。
突っ込めば、この猫は消える。
理由は分からないが、それだけは分かっていた。落下は続いている。暗闇は、さらに濃くなる。
そして。
遠く。
本来なら存在しないはずの場所に――微かな光が瞬いていた。新しいデータの光ではない。
古い……あまりにも古い光だった。
その瞬間。
グリッチャの欠けた片耳がぴくりと動く。ほんの僅かに。まるで遠くから聞こえた音に反応した猫のように。
「……」
三毛猫は何も言わない。
だが、その視線だけが暗闇の向こうへ伸びていた。
シリルは気付かない。
あるいは気付いても、いつもの好奇心だと思っただろう。グリッチャは昔からそういう奴だった。
誰も行かない場所へ行きたがる。
誰も見たことのないものを見たがる。
深層のあきれた探訪者。
それが、三毛猫のグリッチャだ。




