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--アンタ、ばっかじゃない。
山田の頭に高音の罵声が響いた。
反射的に眉をひそめる。
だが、その声は鼓膜を震わせたわけではなかった。空気の振動も、距離もない。ただ直接、意味だけが神経に触れてくる。
いや、これの音声も本物ではない。
いま山田はネットに接続して、その意識をアバターに繋いでいる。
拡張された知覚の中で、彼はゆっくりと自分の“手”を見た。
そこにあったのは、肉でも骨でもない。
半透明の輪郭で構成された、簡略化された五本指のモデル。関節の動きに合わせて微細な光が流れ、まるで神経の代わりにデータが走っているかのようだった。
指を曲げる。
一瞬遅れて、曲がる。
現実の身体を動かしたわけではない。
「動かそう」と思った意図だけが、直接この仮想の手に反映される。
奇妙な感覚だった。
身体を使っているのではなく、身体という概念そのものを操作しているような――
--聞いてんの?シリル。
今度は明確な苛立ちを含んだ声だった。山田は、いや“シリル”が声のする方へと視線を向けた。
視界の端で、三色のノイズが集束する。
散乱していたデータ片が引き寄せられ、形を取り始める。
耳。
尾。
しなやかな背。
やがて、それは一匹の三毛猫の姿を結んだ。
グリッチャのアバターだった。
片耳だけがわずかに欠けているのは、彼女が自分で付けた“グリッチ”――視認用の識別子だ。完全な形ではないことを、あえて誇示するための傷。
三毛猫は宙に浮いた広告ウィンドウの縁に軽やかに降り立ち、こちらを睨んだ。
広告は健康食品の宣伝らしく、「あなたの身体は危険に晒されています」という文言が点滅している。その上に乗っているグリッチャの方が、よほど危険そうだった。
彼女……いや、彼かもしれない。
山田はグリッチャの本体のことを知らない。
年齢も、性別も、人間かどうかすらも。
ただネットを徘徊するうちに意気投合し、仕事を組むようになった。
最初は偶然だった。
山田が手こずっていた汚染領域を、横から現れた三毛猫が数秒で分解したのだ。無言で。説明もなく。まるで最初から構造を知っていたかのように。
三毛猫のグリッチャといえば、ゴミ収拾屋の間で知らぬものはいなかった。
深層に潜り、戻ってくる。
誰も触れられないデータを触る。
そして時折、存在しないはずの“道”を作る開拓者。
そのくせ、自分のことは一切話さない。
山田にとってグリッチャは、相棒であり――同時に、ネットそのものが飼っている野良猫のような存在でもあった。
「それでその依頼を受けたワケ?出所も分かんない汚染情報を消せる訳ないじゃん」
三毛猫は尻尾を一度だけ苛立たしげに揺らした。
その動きに合わせて、周囲の広告ウィンドウが微かに歪む。
「はぁ、こっちにも色々あるんだよ」
シリルは額を掻いた。
指先が触れた場所で、アバターの表皮が一瞬だけ遅れて反応する。現実の身体ではない証拠だった。
あの後、琴吹から話されたのは――情報ゴミ収拾の許可の更新についてだった。
『山田さん。今年度が申請更新の年なんですよね?』
柔らかい声だった。
だが、その言葉の意味を理解するのに時間はかからなかった。
更新の許可は審査制だ。
そして審査の基準は公開されていない。
実績。
貢献度。
信頼性。
そして――協力性。
この仕事を受けなければ、更新の許可は降りない。
ゴミ収拾の仕事で食い繋いでいる身には、よく効いた脅し文句だった。
露骨な命令よりも、ずっと性質が悪い。
「断れない仕事ってことね」
グリッチャはあっさりと言った。
責めるでもなく、同情するでもなく。ただ事実として。
「まぁな」
シリルは苦笑した。
「公認の掃除屋が、汚染を見て見ぬふりってのも格好つかねぇし」
「建前はね」
三毛猫は鼻を鳴らした。
「本音は?」
シリルは少しだけ考え――肩を竦めた。
「飯が食えなくなるのは困る」
その答えに、グリッチャはしばらく何も言わなかった。
ただ、欠けた片耳を微かに動かした。
「……ま、いいけど」
やがて、三毛猫は広告ウィンドウから跳び降りた。
着地した場所に、小さな波紋のようなノイズが広がる。
「グリッチャ。お前にとっても悪い話じゃないんだぜ」
ホラ、とシリルがグリッチャの方に向けてなにかを投げた。それをグリッチャは右から左に視線を流すと目の前に一枚の紙が現れた。いわゆる“許可証”であった。
「へぇ。深層部ゲートの許可証じゃない。これニセモノ?」
「馬鹿をいえ。市役所お墨付きの本物だ」
「シリル。アンタにしてはやるじゃない」
三毛猫はニヤリと笑った。
「深層部ゲートの許可証なんて、今どき都市伝説レベルよ。アンタ、どこまで潜る気?」
シリルは肩を竦めた。
「依頼元が市役所だからな。“表層削除では対応不能の可能性あり”といえば発行してくれた」
その言葉に、グリッチャの尻尾がゆっくりと揺れた。
ネットの海には、層がある。
一般ユーザーがアクセスする表層。
企業や行政が管理する中層。
そして――許可なくしては存在すら観測できない深層部。
2020年代。
生成AIの爆発的普及は、ネットの構造そのものを変質させた。
当時、世界中の企業や研究機関が競うように巨大なデータバンクを建設した。
学習量こそが知性を決定するという信仰にも似た理念のもと、あらゆる情報が収集され、保存された。
文章。
音声。
映像。
顔。
癖。
そして、人格の断片。
規制が整備されるよりも早く、蓄積は進んだ。
そして規制が施行された時には――すでに遅すぎた。
削除命令が出されたデータも、完全に消えることはなかった。
バックアップ。ミラー。分散保存。
AI自身による“最適化”の過程で再配置されたデータ群。
それらはネットのより深い場所へと沈み込み、やがて人間の手の届かない領域を形成した。
深層部。
そこは、現在稼働しているAIの“記憶の地層”だった。
「深層部のデータはね」
グリッチャが言った。
「削除されたはずのもの。忘れられたもの。それから――誰も保存した覚えのないものがある場所よ」
三毛猫の瞳が、わずかに細くなる。
「普通の掃除屋は近づかない。近づけない」
「だから許可証がある」
シリルは軽く言った。
「市役所が責任取るってことだろ」
「責任?はっ!」
グリッチャは短く笑った。
「違うわよ」
その声は、少しだけ低かった。
「“観測した責任を、アンタに押し付ける”って意味」
一瞬、周囲のノイズが静まった気がした。
広告ウィンドウの流れが遅くなる。
遠くを漂っていたデータの残骸が、わずかに軌道を変える。
ネットは常に流動している。
だが深層部だけは違う。
そこでは、古いデータが――死なずに残り続けている。
「……怖がらせるなよ」
シリルは笑った。だが、その笑いはわずかに硬かった。グリッチャは答えなかった。
代わりに、空中に座標ウィンドウを展開する。
「入口、開けるわ」
三毛猫の欠けた片耳が、微かに震えた。
「深層部なんて、久しぶり」
三毛猫がゴロゴロと嬉しそうな音を鳴らした。




