008 最初の収穫、選ばれし『庭師』
ポタリ、と。
静寂に包まれた執務室に、重く、粘り気のある音が響きました。
私が視線を上げると、巨大なガラス製蒸留器の、一番左にある蛇口から、黒い雫が滴り落ちていました。
ビーカーの底に広がるのは、コールタールのようにどす黒い液体。
「おや。一番乗りは『村』の方でしたか」
私はビーカーを手に取り、軽く揺らしました。
立ち昇るのは、鉄錆と腐葉土、そして微かな涙の匂い。
生きるために肉親を売った、背徳の香りです。
◇
(……視えますねぇ。健気な少女の、悲しい決断が)
私は蒸留器のガラス越しに、遠く離れた村の光景を幻視しました。
薄暗い台所。震える手で『告解の小瓶』を握りしめる少女、カトレア。
隣の部屋では病気の弟が咳き込み、彼女は唇を噛み締めています。
視線の先にあるのは、床下に隠された父親のへそくり(銀食器)。
『……父が、隠し持っています』
彼女の囁きと共に、小瓶がボウッと光りました。
その瞬間、彼女の胸から吸い出されたのは、父親への裏切りという「罪悪感」と、これで弟が助かるという「安堵」。
そして――ほんの少しの、「ざまぁみろ」という暗い喜び。
家族のために自分ばかりが我慢してきた、鬱屈した怒りの解放です。
「ふふ。いい香りです。……おや?」
今度は、右側の蛇口から、鮮血のような赤い雫が落ちました。
こちらは『館』からの収穫ですね。
視界が切り替わります。
映し出されたのは、現在進行系で行われている夕食会の大広間。
優雅な音楽が流れる中、ガシャーン! と派手な音が響きました。
純白のドレスに赤ワインを浴びて泣き崩れる、気弱そうな少女。
その横で、扇子で口元を隠して嗤う勝気な少女、ミリア。
『あら、ごめんなさい。手が滑ってしまって』
白々しい謝罪。周囲の視線を浴びても、ミリアは堂々と胸を張っています。
ライバルを蹴落とし、自分が生き残るためなら泥も被るという覚悟。
その魂から立ち昇るのは、鼻孔を突くような刺激的な『優越感』と『加虐心』。
一方、ワインをかけられた被害者の少女は、床に座り込んで泣くばかり。
周囲に助けを求めるように視線を彷徨わせていますが、誰も助けようとはしません。
そして、自分で言い返すことすらしませんでした。
「……泣いていれば誰かが助けてくれる。そんな甘ったれた根性では、良い香料にはなりませんね」
私はガラス越しに、冷ややかな視線を向けました。
受動的な悲しみは、香りが薄く、すぐに揮発してしまうのです。
私が欲しいのは、他人を蹴落としてでも咲き誇ろうとする生命力。あるいは、泥沼の中で足掻く濃厚な執着。
ただ踏まれて泣くだけの存在は、農場の土壌を無駄に食いつぶすだけの『雑草』です。
「それに比べて……あちらの『加害者』はいいですねぇ」
ミリアの図太さ。あのハングリー精神こそ、私の求める『花』の資質。
私は手元の通信用魔道具を起動し、広間に控えているポチ(前領主)へ指示を飛ばしました。
『ポチ。泣いているそこの女は【選外(雑草)】です。即刻、荷物をまとめて追い出しなさい』
映像の中、ポチが「ワンッ!」と吠え、衛兵たちに少女を摘み出すよう指示するのが見えます。
館の空気が凍りつきました。
被害者が追放され、加害者が残った。
その事実は、彼女たちに一つの真理を植え付けました。
――ここでは、清く正しい者ではなく、強く狡猾な者が生き残るのだ、と。
◇
しばらくして。
私は、村で最初の密告者となったカトレアを執務室に呼び出しました。
部屋に入ってきた彼女はやつれてはいましたが、その瞳には異様な光が宿っていました。
報酬として与えられたパンと干し肉を、命綱のように抱きしめています。
「……お呼びでしょうか、アマリリス様」
「ええ。貴女が最初の『告解者』だと聞きました」
私は彼女に近づき、その頬に触れました。
「父親を売って手に入れたパン……そのお味はいかがでしたか?」
「……鉄の、味がしました」
カトレアは正直に答えました。
恐怖に震えながらも、彼女は私の目から逃げません。
自分が生き残るために、家族すら踏み台にする覚悟。
そして、その罪を背負って生きていくという強さ。
「素晴らしい。合格です」
私は机の上にあった一冊の分厚い帳簿を手に取り、彼女に渡しました。
「貴女を【特級(庭師)】に任命します」
「……え?」
「その計算高い頭脳と、非情になれる決断力。ただの土にしておくには惜しい素材です。これからは私の側近として、この村の『収穫』を管理しなさい」
カトレアは帳簿を受け取り、呆然としていました。
しかし、すぐにその意味を理解したようです。
これは、搾取される側から、搾取する側への招待状。
弟を守るための、唯一の道。
「……はい。謹んで、お受けいたします」
彼女は深く頭を下げました。
その背中からは、今までとは違う、冷たく鋭いトップノートが立ち昇り始めました。
ただの村娘が、支配者側の悦びを知った瞬間です。
◇
カトレアが去った後。
私は調香台の前に立ちました。
今日収穫されたばかりの、二つの雫。
村の『黒(背徳感)』と、館の『赤(優越感)』。
「さて。本日の収穫を確かめましょうか」
私はスポイトで黒と赤を吸い上げ、ビーカーの中で慎重に混ぜ合わせました。
ガラス棒で撹拌すると、どす黒い赤紫色――凝固した血のような色に変わります。
立ち昇る香りは、単なる絶望ではありません。
生き汚いほどの執着と、他人を踏みにじる快感、そして底冷えするような自己嫌悪が混ざり合った、複雑怪奇な芳香。
「ポチ。ご褒美ですよ」
私は足元の元領主に、試香紙を嗅がせました。
「ワン……?」
スゥッ、と息を吸い込んだ瞬間。
ポチの身体がビクン! と跳ね上がりました。
「アッ、ヒヒ……ッ! グゥ、オォォ……ッ!!」
彼は泣きながら笑い、笑いながら嘔吐き始めました。
快楽と苦痛、希望と絶望が同時に脳を焼き、処理しきれずにショートしたのです。
彼は涎と涙を垂れ流しながら、床を転げ回り――やがて、白目を剥いて幸せそうに痙攣しました。
「ふふ。いい反応です」
私はその狂態を眺めながら、満足げに頷きました。
単純な恐怖や痛みだけでは、こうはいきません。
相反する感情をない交ぜにし、魂の形を歪めることでしか生まれない、極上のアロマ。
この農場なら、もっと多種多様な『香り』が作れるでしょう。
私は窓の外を見やりました。
夜の闇に沈む村と館。
そこでは今も、私の可愛い作物たちが、悩み、苦しみ、裏切り合いながら、素晴らしい果実を実らせているはずです。
「さあ、どんどん育ちなさい。……腐り落ちるその瞬間まで」




