003 刹那の無限地獄
弟子入りから数ヶ月。季節は巡り、春の暖かな風が吹き始めていました。
私はすっかり、この村の風景の一部になっていました。
「ヴィーナねぇちゃーん! あそぼー!」
「こらこら、ヴィーナ姉ちゃんは仕事中だぞ!」
「ふふ、大丈夫ですよ。薪割りくらい、すぐに終わりますから」
私は子供たちに微笑みかけながら、大人の男性でも担ぐのがやっとの丸太を、小枝のように軽々と持ち上げました。
村人たちは最初は驚いていましたが、今では「ヴィーナちゃんは力持ちだなぁ」で済ませてくれます。
平和で、温かくて、肥料の質もいい。最高の牧場です。
――そんな私の平穏な庭に、土足で踏み込んでくる害虫が現れたのは、そんなある日の午後でした。
◇
「おいババア! もっとマシなポーションはねぇのかよ! 水みてぇに薄めやがって!」
診療所から怒鳴り声が聞こえ、私は作業の手を止めました。
入り口には、派手な装備に身を包んだ四人組。
いわゆる「勇者パーティ」というやつですね。
「うちは混ぜ物はしないよ。嫌なら街で買いな!」
マルサ師匠が毅然と言い返しますが、リーダー格の剣士の男――勇者が、腹いせに棚の商品を薙ぎ払いました。
ガシャーン!!
瓶が砕け散り、薬液が床に広がります。
……あーあ。それ、私が昨日作った新作なんですけど。
「あ? なんだこの姉ちゃん、美人だな。俺たちの仲間になるか?」
診療所に入ってきた私を見て、勇者が下卑た笑みを浮かべました。
私の身体を上から下まで、舐め回すように視線が這います。
気色が悪いですね。殺虫剤を撒きたい気分です。
「いいねぇ。回復職か? 俺の『専属』にしてやるよ」
勇者が私の手首を掴みました。
「やめな! その子は私の弟子だよ、勝手に連れていかれちゃ困る!」
師匠が慌てて割って入ろうとします。
「あぁ? なんだ、ばばぁ。邪魔すんじゃねぇよ!」
勇者が乱暴に師匠を突き飛ばしました。
ドン、と鈍い音がして、師匠が作業台に腰を強打し、床に倒れ込みます。
「――ッ、うぅ……!」
「師匠!」
私は駆け寄り、師匠を抱き起こしました。
……腰の骨にヒビが入っていますね。高齢者には致命傷になりかねません。
(……ほう?)
私の中で、何かが冷たく凪いでいきました。
私の大切な生産拠点を。私の許可なく傷つけた?
私はゆっくりと立ち上がり、勇者に向き直りました。
にっこりと、聖女のような微笑みを浮かべて。
「……わかりました。ですが、私に勝てたら、私をパーティに入れてもかまいません」
「はあ? 勝負だと?」
私はキョロキョロと辺りを見回し、野次馬の中にいた男の子たちの集団に声をかけました。
「ボクたち。戦士ごっこで使っていたその棒、お姉ちゃんに貸してくれませんか?」
「え? う、うん……」
男の子たちが差し出したのは、ただの木の棒です。
私は二本受け取ると、その一本を勇者に向かって放りました。
カラン、コロコロ……。
木の棒が勇者の足元に転がります。
「これで戦いましょう」
「はあ!? おまえ、馬鹿かよ。俺は『剣技スキル』高めなんだぞ? 女だからって手加減しねーぞ、あとで嘘と言われても困るからな」
勇者は呆れたように棒を拾い上げました。
「構いませんよ。さあ、始めましょう」
「おいおい、ちょっと待てよ田舎娘」
勇者が鼻で笑いました。
「『誓いの儀式』もなしか? 常識知らずにも程があるだろ」
「……ちかいのぎしき?」
私が小首を傾げると、勇者とその仲間たちがゲラゲラと笑い出しました。
「マジかよ、そんなことも知らねぇのか! これだから田舎モンは困るぜ」
「しょうがねぇなぁ。俺が教えてやるから、こっち来て手を出せよ」
勇者がニヤニヤしながら私の手を取り、自分の手と重ね合わせました。
「いいか? この状態で互いに勝利条件を宣言するんだ。そうすりゃ、神様が証人になって、負けた方は約束を破れなくなる。そういうシステムだ」
(へえ。神様、ですか)
元・神の使い(わたし)の前で、人間が作った都合のいいルールを、さも絶対の理のように語る。
なんて滑稽で、可愛いんでしょう。
「わかりました。……じゃあ、武器を落としたほうが負け、ということで」
「はん。いいぜ。俺が負ければ二度とこの村には来ない。お前が負ければ、俺のモノになる」
勇者の宣言と共に、二人の手が淡く光りました。
誓約完了、ということらしいです。
「よせ、ヴィーナ! 相手は腐っても勇者だ、勝てるわけがない!」
師匠が痛みに顔を歪めながら叫びます。
「もうおせーよばばぁ、儀式は完了した! ……へへっ、棒の握り方も素人だ。こりゃ俺の勝ち確だな」
勇者が棒を構え、嘲笑うように言いました。
「行きますよー。えいっ」
私がへっぴり腰で棒を振ると、勇者は鼻で笑ってそれを避けました。
「おっそ!」
ブン! ヒュン!
勇者の棒が風を切ります。
私は「おっと」「危ないですねぇ」「きゃあ」と気の抜ける声を出しながら、最小限の動きでそれを躱しました。
棒は空を切るばかりで、私の服の端すら掠りません。
「ちょ、おい! 早く当てろよ!」
「パフォーマンスかよ、趣味悪いぜリーダー!」
後ろで見ていた勇者の仲間たちが野次を飛ばします。
村人たちや子供たちからは、「おねえちゃん、すごぉい!」「がんばれー!」と歓声が上がります。
勇者の顔が、屈辱で真っ赤に染まりました。
「……ナメやがって! クソアマがぁぁ!!」
勇者の全身が赤く発光しました。
スキル『神速剣』。彼の動きが倍速化します。
仲間たちが勝ち誇ったように笑います。
「あぁ、あの嬢ちゃん大怪我だな」
「まぁ怪我しても俺らが治してやるからよ、ギャハハ!」
圧倒的な速度を手に入れた勇者は、私の目の前に立ちはだかり、最後の警告を突きつけました。
「今すぐ棒きれを捨てて俺に屈服するなら、やめてやる。……5秒以内にな!」
「……」
「5、4、3、2、1……!」
「あの時捨てなかったことを、後悔するんだなぁ!!」
勇者の棒が、私の身体をボコボコにしようと迫ります。
――神技『思考加速』。
私の思考が、世界を置き去りにしました。
周囲の音が消え、舞い散る砂埃さえも空中で静止します。
1秒が何万分の1という形で分割され、引き伸ばされていく。
勇者の棒は、私の身体に届く寸前で止まっていました。
彼の顔には、嗜虐的な笑みが張り付いたまま。
(なんです、この遅さは。あくびがでちゃいますよ)
私は凍りついた時の中で、勇者の耳元へ顔を寄せ、恋人のように囁きました。
(これが限界なんですか? 私はもっと早く動けますよ)
トン、と彼の膝を木の棒で突きます。
(とりあえず、あなたの足を折りますね)
バキッ。
加速した世界の中で、骨の砕ける音が響きます。
本来なら激痛で絶叫するところでしょうが、彼の脳へ信号が届くより早く、私は次の行動に移ります。
(そして回復します。――ヒール)
砕けた骨が、一瞬で元通りになります。
そしてまた、木の棒を振り下ろす。
(これを、1万回繰り返します)
バキッ。ヒール。
グシャッ。ヒール。
ボキボキッ。ヒール。
1秒という刹那の間に、「破壊」と「再生」を叩き込みます。
肉体的な傷は残りません。
ですが、脳に刻まれる「痛み」の記憶と、魂に刻まれる「圧倒的な暴力」への恐怖は消えません。
凝縮された痛みの奔流が、神技の解除と共に彼を襲うでしょう。
5回目――いえ、50回目に到達したあたりでしょうか。
勇者の魂から、「ポキッ」という小気味良い音が聞こえました。
プライド、傲慢、自信。それらが粉々に砕け散り、代わりに生まれたのは――。
絶対的強者への、底なしの『屈服』と『恐怖』。
(あ、実りましたね)
私は勇者の胸元に手を差し込み、熟れきった漆黒の果実を引き抜きました。
――思考加速解除。
ドサァァァッ……!!
現実世界では、一瞬の出来事でした。
私が棒を一振りしたかと思った次の瞬間、勇者は白目を剥いて地面に崩れ落ちていました。
口から泡を吹き、身体を小刻みに痙攣させています。
棒は手から離れ、私の後方に転がっていました。
「……え?」
「な、なにが……?」
仲間たちも、村人たちも、何が起こったのか理解できていません。
勇者は外傷ひとつないまま、ただ「心だけが破壊されて」気絶しているのですから。
「あらあら。貧血でしょうか?」
私は木の棒を子供に返すと、倒れた勇者を冷ややかな目で見下ろしました。
その手には、誰にも見えない『屈服の果実』が握られています。
毒々しいほどに紫色をした、大ぶりの果実です。
仲間たちが青ざめた顔で後ずさります。
彼らの目には、私が「何か得体の知れないバケモノ」に見えていることでしょう。
「しょ、勝負あり……ですね! さあ、約束通りお引き取りください。……それとも、皆さんも遊びますかぁ?」
私が小首を傾げると、彼らは「ひぃっ!」と悲鳴を上げ、動かなくなった勇者を引きずって逃げ出しました。
二度と、この村の方角を見ることもできないでしょうね。
静寂が戻った診療所の前で、私は師匠に駆け寄りました。
「師匠! 大丈夫ですか!?」
「あ、ああ……。あんた、今なにを……」
「ただの偶然です。彼、足がもつれちゃったみたいで」
私は師匠の背中をさすりながら、こっそりと手の中の『果実』を懐の「亜空間ポケット」へと放り込みました。
(ジャンクフードですけど、たまにはこういう刺激的な素材も悪くありませんね)
(いつか調合する時の、隠し味として取っておきましょう)
村人たちが私に駆け寄り、口々に感謝の言葉を述べています。
私はその歓声を聞き、ひっそりと満足げな笑みを浮かべました。




