013 神の残り香、鉄錆の女
ヴィース村での「収穫」を終えた私は、誰にも邪魔されない場所へと戻りました。
そこは次元の狭間に私が作り上げた、私だけの温室であり、実験室。
静寂に包まれた空間で、私はゆったりと椅子に腰掛け、戦利品の整理を始めました。
机の上には、今回抽出されたばかりの小瓶が並んでいます。
「さて……今回の収穫の質を確認しましょうか」
私はアロマポットに火を灯し、スポイトで慎重にエッセンスを垂らしました。
ジッ、と小さな音がして、蝋燭の熱に乗って紫煙が立ち昇ります。
「……銘打つなら、『愚者の安息』といったところでしょうか」
私は目を閉じ、その香りを肺の奥まで吸い込みました。
最初に鼻をくすぐるのは、ミリアから搾り取った『傲慢』の甘ったるさ。
次にカトレアの『背徳』のピリッとした刺激。
そして最後に残る香り(ラストノート)は――村人たち全員から滲み出た、重たくて、どこか粉っぽい『盲信』の香り。
――その匂いを嗅いだ瞬間でした。
私の脳裏に、白い、あまりにも白すぎる光景がフラッシュバックしました。
『――ラヴィーナ。個はいりません。思考もいりません』
『ただ、我らの槍となりなさい』
『それが貴女の幸福です』
あぁ、懐かしくて……反吐が出る光景。
白亜の神殿。漂う聖香の匂い。
床に額を擦り付け、自分の感情を殺し、ただ命令だけを待っていた「人形」時代の私。
この村人たちの香りには、あの頃の私が纏っていたものと同じ成分が含まれています。
「誰かに決めてほしい」「誰かに従いたい」「責任を負いたくない」
自ら思考を放棄し、安寧という名の首輪を望む、腐った『自己放棄』の匂い。
「……ッ、オェッ……!」
私は思わず咳き込み、乱暴に手で煙を払いました。
気分が悪いです。最悪の地雷を踏みました。
これは私が捨てた過去の残骸。
甘美なアロマどころか、古漬けのような陳腐な臭いにしか感じられません。
「……失敗作ですね。こんな、主体性のない香りはもう結構です」
私は不愉快そうにアロマポットの火を吹き消し、亜空間の窓を全開にしました。
ここにある淀んだ空気をすべて入れ替えたい。
もっと、違う香りが欲しい。
誰かに縋るのではなく、自分の足で立ち、自分の意志で抗う……そんな、硬くて噛みごたえのある魂の匂いが。
口直し、いえ、鼻直しが必要です。
私は壁に掛けられた大陸地図を眺め、一つの場所を指差しました。
そこは魔境と呼ばれる、鉄と血の匂いが漂う場所。
「甘ったるい温室はもう飽きました。……次は、草木も生えない荒野に行きましょう」
◇
場所を変え、私は乾いた風が吹き荒れる「赤鉄の峡谷」を歩いていました。
頬を叩く砂混じりの熱風。喉が焼けるような乾燥。
ここは強力な魔獣が跋扈する危険地帯。
生命を拒絶するような荒涼とした大地ですが、今の私にはこの乾いた空気が心地よく感じられます。
「……おや?」
砂塵混じりの風の中に、金属的な鋭い香り(ノート)が混じっているのに気づきました。
血の鉄錆臭と、冷たい鋼の匂い。
そして何より――決して他者と混ざり合わない『孤独』の香り。
私は香りの源へと足を向けました。
岩陰に、一人の女性が座り込んでいました。
燃えるような赤髪。身の丈ほどもある大剣を抱き、全身は傷だらけです。
周囲には、彼女が単独で仕留めたと思われる魔獣の死体が山のように積み上がっていました。
彼女は片目を失っているのか、布で雑に覆っています。
残った片目も、失血で焦点が合いにくくなっているはず。
それでも、その瞳だけはギラギラと燃えていて、彼女の魂からは「助けて」という甘えの香りが一切しません。
「……来るな」
私が近づくと、彼女は掠れた声で威嚇し、震える手で大剣の柄を握りました。
立ち上がることすらできない。けれど、その切っ先だけは正確に私の喉元を狙っています。
「死臭を嗅ぎつけたハイエナか? ……あいにく、肉は固いぞ」
拒絶。警戒。そして、死ぬ瞬間まで戦士であろうとする強固なプライド。
(あぁ……素晴らしい)
さっきの「盲信の香り」で胸焼けしていた私にとって、彼女の放つ香りは、まるで冷えたミント水のように清涼で、刺激的でした。
この鋼のような魂が、どんな風に錆びつき、折れ、香りを変えていくのか。
私はとびきりの聖女スマイルを浮かべ、彼女の前にしゃがみ込みました。
「まあ、怖いワンちゃん。……ハイエナじゃありませんよ。通りすがりの、親切な調香師ですよ」




