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第09話: 皇立図書室の探求 ——知識という名の武器と学者の影

 夜会での一件以来、宮殿内での私に対するあからさまな嫌がらせは目に見えて減少した。


 マルティナは表向き平静を装っているが、私を見る目には明らかに怯えの色が混じっている。


『下手なことはできない』


『あの方の怒りを買ってはならない』


 ―—という警戒心が聞こえてくるのだ。


 姉たちも様々な貴族としての職務があるのだろう、帝都にはまだ滞在しているようだが、直接私に接触してくることはなくなった。


 リリアからの情報によれば水面下で新たな策略を練っているようだが、以前ほどの勢いはないらしい。


(少しは効果があったようね。

 でも、本当の敵は

 姉たちだけではないかもしれない……)


 宮廷内に渦巻く見えない悪意、そしてレオルガン殿下の苦悩の奥に垣間見える帝国の深い闇。その正体は何なのか。


 前皇太子妃エレオノーラ様の死には、やはり何か隠された秘密があるに違いない。それを突き止めることが全ての始まりになるかもしれない。


 そのためにはもっと多くの情報と、そして知識が必要だった。ケルベロス家で甘やかされて育った「悪役令嬢」としての知識だけでは、到底太刀打ちできない。


 そこで私は、宮殿内にある皇立図書室へと本格的に通い詰めるようになった。幸い、皇太子妃候補という立場は、この広大な知識の宝庫への自由なアクセスを許してくれた。


 目当てはヴァリスガル帝国の歴史書、法律に関する書物、地理、文化、そして可能であれば、前皇太子妃の時代に関する記録や、彼女が興味を持っていたとされる「古き民」に関する文献だ。



 図書室は天井まで届くほどの書架が並び、古書の匂いと静寂に満ちていた。日の光がカーテン越しに大きな窓から差し込み、空気中の埃をキラキラと照らしている。


 私は司書に許可を取り、目的の書物が収められているであろう区画へと向かった。


 ケルベロス公爵家にも図書室はあったが、これほどの規模と質ではない。知識の海を前にして、私は新たな決意と共に僅かな興奮を覚えた。


 私は貪るように書物を読み始めた。ヴァリスガル建国の神話、歴代皇帝の治世、近隣諸国との戦争の記録、そして法体系の変遷。


 地理書を読み込み、帝国の広大さと多様性を知る。文化に関する書物からは、人々の価値観や生活様式を学ぶ。


 前世で得た断片的な知識——歴史や政治、経済、地理、さらには心理学や社会学に関する記憶のかけら——とこれらの情報を結びつけ、比較検討していく。


 それはパズルのピースを一つ一つ嵌めていくような、地道だが知的な興奮を伴う作業だった。


(なるほど……

 ヴァリスガルの法体系は

 成文法よりも慣習法や判例が

 重視される傾向があるのね。


 だから前世での私の断罪も

 明確な証拠よりも、『悪女』という評判や

 貴族たちの思惑が大きく影響したのか……


 法を理解しなければ

 同じ過ちを繰り返しかねないわ)


(帝国北東部には

 レオルガン殿下の母親の出身である

 『古き民』と呼ばれる少数民族がいる。


 独自の文化と、自然と感応する

 特別な力を持つという伝承がある……


 イヴァール様の緑の瞳は

 その血筋の証なのかしら……?


 エレオノーラ妃が探っていたのは

 この力のこと……?)


(この国の経済構造は

 貴族による土地支配が根強いけれど

 一方で帝都や港町では

 商人ギルドの力が増している……


 ミーアからの報告にもあった

 急速に台頭してきたという

 『黒曜石商会』のような

 富と情報を集めやすい組織が

 裏で影響力を持つ土壌が

 あるのかもしれないわね……)


 知識が増えるにつれて世界がより立体的に見えてくる。そして同時に、解決すべき謎の輪郭もより鮮明になっていく。


 ただ闇雲に心の声を聞くだけでなく、知識に基づいた論理的な思考と分析がこの戦いには不可欠だと分かってきた気がする。



 そんなある日、いつものように図書室の一角で古い帝国史の書物を読みふけっていると、ふと視線を感じた。


 顔を上げると、少し離れた書架の影から一人の若い男性がこちらを見ているのに気づいた。


 年は私より少し上だろうか。質素だが仕立ての良い服を着ており、貴族階級の人間であることは分かる。


 切れ長の目に、整った顔立ち。色素の薄い髪を無造作に伸ばし、眼鏡の奥の瞳は、知的な好奇心と僅かな警戒心を湛えてこちらに向けられている。


(誰かしら……? 見かけない顔だけれど……

 書記官か学者の方かしら?)


 心の声に耳を傾けると、比較的穏やかな彼の心境のようだ。少なくとも悪意や敵意のノイズはない。


 ただ——


『あれが噂のケルベロス公爵令嬢か……

 近頃、毎日のように

 図書室にいらっしゃるとは……』


『熱心に何を調べているのだろうか?

 噂とは……随分と印象が違うな……

 知的な方なのかもしれない……』


 ——といった、静かな興味と観察だけのようだ。


 私が視線に気づいたことを悟ると、彼は少し驚いたように肩を竦め、書架の影から姿を現した。


 そして躊躇うように、しかし意を決したように私の方へと歩み寄ってきた。


「……失礼。

 もしやケルベロス公爵令嬢

 ロマンシア様でいらっしゃいますか?」


 彼は、穏やかだが芯のある声で尋ねた。


「ええ、そうですけれど。あなたは?」


「これは失礼いたしました。

 私はアラン=セレスターと申します。

 宮廷に仕える書記官の一人で

 歴史編纂室に籍を置いております」


 アラン=セレスター。前世でも聞いたことのない名前だ。だが書記官で歴史編纂室となれば、この図書室を頻繁に利用していても不思議はない。


「セレスター卿。何かわたくしにご用でしょうか?」


「いえ『ロマンシア様』が、連日こちらで

 熱心に書物を読んでいらっしゃるご様子でしたので

 つい興味を惹かれまして。


 もし何かお探しの書物や

 調べものなどでお困りのことがあれば

 専門家として微力ながら

 お手伝いできるかと存じます」


 彼の申し出は親切なものに聞こえたが、【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】は——


『単なる好奇心だ。

 それにこの方が何を考えているのか

 少し探ってみたい。

 これだけの知識欲を持つ方が

 ただの悪女とは思えない』


 ―—という内心を伝えてきた。


 彼もまた、私という存在を計りかねているのだろう。そして、純粋な知的好奇心も持っているようだ。


「まあ……

 ご親切にありがとうございます、セレスター卿」


 私は微笑んで応じた。


「ちょうど、ヴァリスガル帝国における

 貴族間の相続に関する法律の変遷について

 少し難解な箇所があり

 頭を悩ませていたところなのです」


 私は現在調べているテーマの中から、当たり障りのない、しかし専門的な知識を要する質問を投げかけてみた。彼がどれほどの人物か試してみるために。


 アラン=セレスターは私の質問を聞くと、眼鏡の位置を直し、嬉しそうに目を輝かせた。


「相続法ですか! それは専門分野の一つです。

 帝国初期においては——」


 彼は驚くほど詳細かつ的確に、私の質問に答えてくれた。単なる書記官ではなく、歴史や法律に深い造詣を持つ優秀な学者であることが窺える。


 彼の説明を聞きながら、私は時折、相槌を打ち、さらに踏み込んだ質問をしたり、関連する別の時代の法制度との比較について意見を求めたりしてみた。


「……しかし、ロマンシア様のご質問は

 実に的確で、本質を突いていらっしゃいますね。


 失礼ながら、

 これほど深く法制史にご興味をお持ちだとは

 存じ上げませんでした」


 アランは私の知識レベルに驚き、感嘆の声を漏らした。心の声も驚きと純粋な知的好奇心、さらには私に対する尊敬の念のような声で満たされていた。


『この方は……

 本当に噂通りの悪女なのか?


 いや、違う。


 鋭い洞察力と深い知識をお持ちだ……

 一体、何者なんだ……?

 もっと、お話ししてみたい……!』


「わたくしも書物を読んでいるうちに

 興味が尽きなくなってしまいまして。

 専門家であるセレスター卿のお話は

 大変勉強になりますわ」


「とんでもない!

 むしろ、私の方が

 ロマンシア様の斬新な視点に

 多くの刺激を受けております。


 もしよろしければ

 今度改めてお時間をいただき

 法制史について、議論させていただけませんか?」


 アランは、興奮した様子で身を乗り出してきた。


(これは、思わぬ収穫かもしれないわ)


 彼が悪意を持って近づいてきたのではないことは、私の能力が保証している。そして彼は豊富な知識と、おそらくは宮廷内の情報にもアクセスできる立場にある。


 もし彼と良好な関係を築くことができれば、私の情報収集にとって大きな助けとなるかもしれない。


 学者としての彼の知的好奇心を満たしてあげれば、彼は喜んで協力してくれるだろう。


「ええ、喜んで。

 わたくしもセレスター卿の博識には

 感銘を受けましたわ。


 またこの図書室でお会いできるのを

 楽しみにしております」


 私は優雅に微笑み、会話を打ち切った。深入りはまだ早い。まずは、互いに距離を保ちつつ、信頼関係を築いていくべきだろう。


 アラン=セレスターは少し名残惜しそうな表情を浮かべながらも、丁寧な礼をしてその場を去っていった。


 一人残された図書室で、私は再び書物へと視線を戻した。だが頭の中では、先程のアランとの会話を反芻していた。


(アラン=セレスター……彼は敵か、味方か……

 今のところは、中立……

 あるいは潜在的な協力者、と見てよさそうね)


 彼との出会いは、凝り固まっていた宮廷内の人間関係に、新たな風を吹き込む可能性を秘めているように思えた。


 そして彼のような知識人を味方につけることができれば、それは大きな力となるだろう。


 私自身も、この図書室での学びを通じて確実に力を蓄えている。知識という武器を。


 前世の悪役令嬢にはなかった、思考する力と未来を見通すための洞察力を。それは【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】とはまた別の、しかし同様に重要な力だ。


 窓の外では陽が傾き始めていた。図書室の静寂の中で、私は次のステップへと意識を向ける。


 姉たちの次の手は? レオルガンとの関係は? そして近づきつつある、あの運命の夜会——仮面舞踏会。


 前世の記憶によればあの舞踏会は、私にとって大きなターニングポイントとなるはずだ。


 おそらく姉たちも、その日を狙って何かを仕掛けてくるだろう。


(準備をしなければ……今度こそ完璧に。

 知識と力と、そして仲間と共に)


 私は静かに書物を閉じ、立ち上がった。知識の海から得た新たな力を胸に、次なる戦いの舞台へと向かうために。 

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