第08話: 夜会の罠 ——ドレスに隠された悪意と反撃の狼煙
リリアを味方につけ、マルティナたちの動きを把握できるようになったことで、私は精神的にいくらかの余裕を取り戻していた。
だが、敵もさるもの。あからさまな妨害が難しくなったと見るや、より巧妙で、陰湿な嫌がらせを仕掛けてくるようになった。
まるで、見えざる手に常に監視され、足をすくわれそうになるような息の詰まる日々。それは私の精神をじわじわと蝕んでいく。
些細な嫌がらせは日常茶飯事だった。用意された食事が冷めていたり、塩辛すぎたり。私が好む茶葉がなくなっていたり。
散歩に出ようとすれば必ず「急な来客」や「緊急の連絡」が入り邪魔をされる。
どれも決定的な証拠はなく、偶然や不手際を装っているため、表立って抗議することも難しい。
だが私の【心の声を聞く者】は、その裏にある明確な悪意——
『あの女を苛立たせろ』
『些細なことで精神的に追い詰めろ』
——といった、マルティナやおそらくはグロリア姉様の指示を受けた者たちの思考を、嫌というほど捉えていた。
(まるで毒蛇にじわじわと
締め付けられるようだわ……
この陰湿さ。まさしく姉様たちのやり方ね)
常に悪意のノイズに晒され続けることは、確実に私の精神を蝕んでいく。この能力は強力な武器だが、同時に私の精神力を絶えず消耗させる側面がある。
夜は悪夢にうなされることが増え、日中でも時折、強烈な頭痛や目眩に襲われるようになった。ミーアは心配し、侍医を呼ぼうとするが私はそれを断った。
この不調の原因は、通常の医療では治せない。これは、この力を持つ者が支払わなければならない代償なのだ——そう、感じていた。
◇
そんなある日、皇宮主催の小さな夜会が開かれることになった。大規模な舞踏会ではないが、帝国の有力貴族たちが集まる重要な社交の場だ。
怪我が癒えてから初めての公式な場であり、私にとっては汚名返上と敵対勢力の動向を探る絶好の機会となるはずだった。
それはつまり、姉たちにとっても私を公の場で貶める格好の舞台となるということだ。
「ロマンシア様。
今宵の夜会には
こちらのドレスはいかがでしょう?」
ミーアが、深紅の美しいドレスを差し出した。それは、ケルベロス家から持ってきたものの中でも特に私が気に入っていた一着だ。
「ええ、それにしましょうか。
ありがとう、ミーア」
私はドレスを受け取って袖を通そうとした。だがその瞬間、リリアから事前に得ていた情報が頭をよぎった。
『マルティナ様が、ロマンシア様のドレスに
何か細工をしようとしていました……!』
私はドレスの内側を慎重に調べた。すると縫い目に何か硬いものが……? 指先で探ると、小さな金属片のようなものが、布地の裏に巧妙に縫い込まれているのを見つけた。
それはリリアが言っていた通り、肌に触れることで反応を引き起こす特殊な金属片だろう。
これを着て夜会に出れば、途中で発疹やかぶれを起こし、醜態を晒すことは確実だ。
(こんな手口で……!
リリアがいなければ危なかったわ……)
怒りよりも先に深い疲労感が押し寄せる。どこまで卑劣な手を使い続けるのだろうか、あの姉たちは。
それを実行する宮廷内の手先たちにも呆れるしかない。
私の能力が、このドレスを用意した侍女——おそらくリリア以外のマルティナの影響下にある誰か——の罪悪感と恐怖、そして『見つかりませんように』という祈りのような響きを捉えている。
「ミーア。
このドレスはやめておくわ。
少し……デザインが古臭い気がするの」
私は冷静に言い、別のドレスを選ぶふりをした。ミーアは私の意図を察したのか、何も言わずに頷き、問題のドレスをそっと片付けた。
(このままやられっぱなしで
いるわけにはいかない……
ただ防御し、回避し続けるだけでは
いずれ限界が来る。
どこかで反撃に転じなければ。
敵に「ロマンシア=ケルベロッサは甘くない」
と、思い知らせる必要がある)
夜会の時間が近づき、私はミーアに手伝ってもらいながら別のドレス——銀灰色のシンプルだが洗練されたデザインの一着を選び、身支度を整えた。
アクセサリーは最小限に抑え、冷静さと知性を感じさせるような装いを心がける。
「ロマンシア様、お美しいです」
ミーアが珍しく感嘆の声を漏らした。彼女の心の声も純粋な賞賛で溢れている。
「ありがとう、ミーア。
でも今夜は美しさよりも強かさが必要になりそうね」
私は自嘲気味に微笑んだ。
◇
夜会の会場はまばゆいシャンデリアの光に照らされ、着飾った貴族たちの談笑で華やいでいた。
レオルガン皇太子は、すでに会場の中央で各国の使節や有力貴族たちと談笑している。
彼の姿を見ると、私の能力は相変わらず複雑な感情をとらえているが、今はそれに構っている余裕はない。
私の姿を認めると会場のあちこちから視線が集まるのが分かった。好奇心、警戒心、そして確かな敵意。
特にグロリア姉様とその取り巻きたちの視線は、刺すように冷たい。私が例の深紅のドレスを着ていないことに気づき、僅かに眉を顰めたようだった。
『あのドレスはどうしたの?
まさか気づいた……?
いや、偶然よ、きっと……!』
——という焦りの声が聞こえてくる。
(ふふ、残念だったわねお姉様。
あなたの企みは、お見通しよ)
私は優雅に微笑み返し、会場をゆっくりと歩き始めた。すると予想通り、マルティナが近づいてきた。彼女は満面の笑みを浮かべているが、その瞳の奥には冷たい計算の色が浮かんでいる。
「まあ、ロマンシア様。今宵はお美しいですわ。
そのドレスとてもよくお似合いで……
あら? でも、先日お選びになっていた
深紅のドレスではございませんのね?
何かございましたの?」
彼女は、わざとらしく周囲の貴族たちにも聞こえるような声で尋ねてきた。
私が何か失態を演じるのを期待しているのだろう。あるいは、ドレスの件がバレていないか探りを入れているのかもしれない。
「ええ、ありがとう。マルティナ」
私は穏やかに答えた。
「実はあの深紅のドレス
少し問題が見つかりましてね」
私は声を潜めるふりをしながら、しかし周りの者にも聞こえるように続けた。
「どうやら仕立ての際に
粗悪な金属片が縫い込まれていたようなのです。
肌に触れると酷い炎症を起こすとか……
怖いことですわ。
意図的なものだとしたら大問題です。
宮廷の侍女の中に
そのようなことを企む者がいるなんて
——信じられませんけれど」
私の言葉に、マルティナの顔色が一瞬で変わった。激しい動揺と恐怖が能力越しに伝わってくる。
『な…なぜ、それを知っている!?』
『バレた……!?
まさかリリアが喋った……!?』
『まずい……! これは、まずい!
私の指示だと知られたら……!』
周囲の貴族たちも私の言葉にざわめき始めた。皇太子妃候補のドレスに、意図的に危険な細工がされていた?
それは単なる嫌がらせでは済まされない、重大な事件だ。疑惑の目がマルティナへと集まる。
「そ、そのようなことが……!
ま、まさか…何かの間違いでは……?
ど、どちらの侍女が
そのようなことを……!?」
マルティナは必死に平静を装おうとするが、声は上ずり顔は蒼白になっている。自分の指示だとバレることを恐れているのだ。
「さあ? わたくしも
誰がやったのかまでは分かりませんわ」
私はわざとしらを切った。
「ですが原因を究明するために
調査をお願いする必要があるかもしれませんわね。
このようなことが二度と起こらないように。
それともマルティナ、あなた何か心当たりでも?
例えば誰か、
わたくしに恨みを持つような侍女を
知っているとか?」
私はマルティナの目を真っ直ぐに見つめた。彼女は私の視線に耐えきれず、蒼白な顔で俯いた。もはや反論することもできない。
彼女の敗北は明らかだった。実行犯を庇えば自分が疑われ、実行犯の名を明かせば自分の指示がバレる。どちらにしても彼女に逃げ道はない。
だが私はここで彼女を完全に追い詰めるつもりはなかった。まだその時ではない。彼女を泳がせ、背後にいる姉たちや宰相派の動きを探る方が得策だ。
「まあ——今は夜会の席ですもの。
難しい話はこれくらいにしましょう」
私はわざと明るい声を出した。
「マルティナ。美味しいワインでも
持ってきてくださる?
少し喉が渇いてしまって」
「は……はい! た、ただいま!」
マルティナは救われたように顔を上げ、逃げるようにその場を去っていった。周囲の貴族たちは今のやり取りを目の当たりにし、私を見る目に畏敬とそして少しの恐怖の色を浮かべていた。
(これで分かったでしょう?
私を敵に回すとどうなるか。
そしてあなたたちの悪事は
いつか必ず暴かれるのだと)
私は内心で呟いた。今回の件でマルティナはしばらくは迂闊な手出しはできなくなるはずだ。
そしてこの情報は確実に姉たちの耳にも入る。彼女たちの焦りはさらなるミスを誘発するかもしれない。
ふと視線を感じて顔を上げると、少し離れた場所でレオルガン皇太子が私を見ていた。
彼は周囲と談笑しながらも、そのアイスブルーの瞳は、先程の私とマルティナのやり取りの一部始終を捉えていたようだ。
私の能力によると、彼の驚きと警戒心、そして『やはり、この女は一筋縄ではいかない…敵の罠を逆手に取るとは…面白い』という、ある種の感嘆にも似た響きを捉えていた。
そしてほんの少し『よくやった』というような肯定的な声もある。
私は彼に向かって、小さいが挑戦的な笑みを送ってみせた。
彼はその瞳を僅かに細め、応えるように微かな頷きを返した——ように見えた。
(ゲームは始まったばかりよ、お姉様。
そして皇太子殿下、あなたとのゲームもね)
反撃の第一打は成功した。だがこれは長い戦いの序章に過ぎない。敵はさらに巧妙な手を使ってくるだろう。
私はもっと強く、もっと賢くならなければならない。そしてこの【心の声を聞く者】という力を、もっと効果的に使いこなさなければ。
夜会の喧騒の中で私は一人、静かに闘志を燃やしていた。この華やかな仮面の下で、生き残るための戦いはまだ——始まったばかりなのだ。