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第06話: 恩人のポジションと手作りのクッキー ——氷解の兆し

 「獅子の檻」の一室で、私はベッドの上に半身を起こしていた。


 左腕にはまだ包帯が巻かれ、鈍い痛みが続いているが、幸い骨折は免れたらしい。打ち身と捻挫、そして裂傷。


 全治にはしばらくかかると侍医は言っていた。だがこの程度の痛みは、断頭台の恐怖に比べれば些細なものだ。むしろこの傷がもたらした変化の方が、私にとっては重要だった。


(あの日……

 私は確かに運命を変える一歩を

 踏み出したはず……)


 狩猟会での事故から数日が経った。私がイヴァールを庇って負傷したという事実は、瞬く間に宮殿内に広まり、私に対する空気は明らかに変化していた。


 以前のようなあからさまな敵意や侮蔑は影を潜め、代わりに好奇心や困惑、そして僅かながらも敬意のようなものが感じられるようになったのだ。


 【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】が拾うノイズも——


『あのケルベロスの女、見かけによらず勇敢だな』


『イヴァール様を身を挺して守るなんて……

 悪女というのは嘘だったのか?』


『皇太子殿下も少し見直されたのでは?』


 ——といったものが増え、それは決して不快なものではなかった。


 最も顕著な変化はレオルガン皇太子の態度だった。彼は毎日、短時間ではあるが見舞いに訪れるようになった。


 公務で多忙なはずの彼が、だ。口数は少ないままだがアイスブルーの瞳には、以前の冷徹さに加えて、探るような、あるいは計りかねるような複雑な光が宿っている。


 そして以前よりも、私個人に向けられる注意が増したように感じられた。


「具合はどうか」


 今日も彼は簡潔にそう尋ねた。部屋には護衛の騎士が二人控えている——これは事故後、レオルガンが新たに配置した者たちだ。


 私の侍女ミーアも傍にいる。レオルガンは私のベッドの傍らに立ち、じっと私を見下ろしている。その視線は、まるで解剖でもするかのように鋭いが、以前のような無関心さはない。


(まだ警戒は解いていないわね……

 でも、明らかに変化はある。


 あの事故が、彼の氷を少しだけ

 溶かしたのかもしれない——)


 「心の声」は、相変わらず厚い氷の下で揺らめいている、といったところか。


『なぜ、あのような危険を冒した?

 計算か? それとも本心か?』


『イヴァールを守ったことには感謝している……

 だが、この女の真の目的は何だ……?』


 そして、以前にはなかった響き——


『あの時、崖から落ちそうになった

 君の顔が……妙に、頭から離れない……』


 ほんの僅かだが個人的な感情の揺らぎが、ノイズの中に混じり始めていた。


「おかげさまで、順調に回復しておりますわ、殿下。

 ご心配には及びません」


 私は淑女の微笑みを浮かべて答える。内心では、彼のその僅かな変化を、興味深く観察していた。


「そうか。だが油断はするな。

 ケルベロス公爵令嬢……いや、ロマンシア」


 彼は私の名を呼び、続けた。


「君の身辺警護は、私の直属の者で固めた。

 何かあれば遠慮なく

 彼らにあるいは私に直接、報告するように」


「まあ、殿下直々に? 光栄ですわ」


 私は少し驚いたふりをして見せた。


「ですがわたくしのために、

 殿下の手を煩わせるわけにはまいりません」


「私の決定だ」


 彼はきっぱりと言った。


「君の身に何かあれば

 ヴァリスガルとケルベロスの関係に影響が出る。


 ……それだけではない。


 君は私の妃候補であり

 そして……私の息子を救ってくれた

 恩人でもあるのだからな」


『それだけではない……君という存在を

 失いたくないのかもしれない……』


 彼の内心の響きが、言葉には出されない本音を伝えてくる。


 彼は私の存在を単なる政略の駒としてだけではなく、無視できない「何か」として認識し始めている。


 そしてその配慮が、護衛の強化という具体的な形となって表れたのだ。


(氷解の兆し……と期待してもいいのかしら?)


 レオルガンが去った後、部屋には静寂が戻った。ミーアが手際よく薬湯の準備をしてくれる。


「ロマンシア様、お加減はいかがですか」


「ええ。少しずつ良くはなっているわ。

 ありがとう、ミーア」


 私は窓の外に目をやった。中庭でカリクスが剣の素振りをしているのが見える。


 あの日以来、彼は私を避けるでもなくかといって馴れ馴れしくするでもなく、ただ遠巻きに私の様子を窺っているようだった。


 私の能力が受信しているのも——


『あの女、本当に怪我したんだな……』


『僕のせいで兄様が

 危なかったのに助けてくれた……』


『……ちょっとだけ見直したかも……

 でも、まだ認めないぞ!』


 ——といった、罪悪感と反発心そして僅かな感謝が入り混じった複雑な心境だった。


 一方でイヴァールは、あの日から一度も私の見舞いに来ていない。


 侍従の話では、部屋に閉じこもるでもなく、以前よりも少しだけ外に出るようになり、時折、私の部屋の方向を気にしている様子だという。


 彼もまたあの出来事に少なからず影響を受けているのだろう。


 【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】は遠すぎて受信できないが、きっと複雑な思いを抱えているに違いない。彼の心の壁を壊すには、まだ時間が必要だろう。


 セラフィナは何度か侍女に連れられて部屋の前に来たようだが、中には入ってこなかった。ただドアの隙間から心配そうに私を覗き込む気配だけは感じていた。


 「心の声」を聞いてみると——


『痛そう……かわいそう……

 でも、お兄様を助けてくれた……

 ありがとう……』


 ——という純粋な同情と感謝。


(焦る必要はないわ……

 ゆっくりと関係を築いていけばいい。

 この怪我が、そのきっかけになるのなら……)


 私はミーアに頼んで、厨房からいくつかの材料を持ってきてもらった。幸い、左腕以外は動かせる。


 何か子供たちの心を和ませるものはないかと考えた時、ふと前世の記憶が蘇ったのだ。悪役令嬢らしからぬ、ささやかな趣味。——菓子作り。


 前世の私はストレス解消のために隠れて簡単な焼き菓子などを作っていた。誰にも知られず、誰にも振る舞うことなく。


 だが今は違う。このささやかな知識が、関係改善の糸口になるかもしれない。


(ヴァリスガルの菓子は

 甘すぎるか、素朴すぎるものが多いのよね……

 少し目新しいものを。


 前世で得意だった、バターとナッツを使った

 あのサクサクしたクッキーなら……)


 私はミーアの手を借りながら、前世の記憶を頼りにクッキーを焼いてみることにした。


 バターと砂糖を練り、卵と小麦粉、砕いたナッツを混ぜ合わせる。ほんのりとバニラの香りを加え、生地を成形していく。


 心の声が聞こえる私にとって、人の感情が渦巻く宮殿での生活は、あまりに多くの「心の声」にさらされるため常に精神をすり減らす。


 だがこうして何かに没頭している時間は、僅かながらも心の安らぎを与えてくれた。


 焼き上がったクッキーは形は不揃いだが、香ばしい良い匂いを放っている。


「ミーア。

 これを少し

 子供たちの部屋へ届けてもらえるかしら。

 わたくしが焼いた、と伝えて」


「かしこまりました」


 ミーアは少し意外そうな顔をしながらも、丁寧にクッキーを皿に盛り付け、部屋を出ていった。しばらくして、ミーアが戻ってきた。


「ロマンシア様、お届けいたしました」


「反応はどうだった?」


「セラフィナ様は

 『いい匂い! 可愛い!』と

 とても喜んでいらっしゃいました。


 イヴァール様は……無言で受け取り

 部屋に戻られましたが

 その後こっそり召し上がっているのを

 侍女が見たそうです。


 カリクス様は……」


 ミーアは少し言い淀んだ。


「カリクスがどうかしたの?」


「『こんなもの、食えるか!

  毒でも入ってるんじゃないのか!』

 と仰って最初は皿を叩き落とそうとなさいました。

 ですが……」


「ですが?」


「……わたくしが

 『ロマンシア様がお怪我を押して

  皆様のために心を込めて焼かれたのですよ』

 と申し上げましたら、


 少し顔を赤くして……結局、一つ口にして


 『……まずくはないな。むしろ……まあまあだ』と


 呟いていらっしゃったと、他の侍女が……」


 思わず笑みがこぼれた。カリクスらしい反応だ。素直じゃないけれどちゃんと興味は持ってくれた。


 そして口にしてくれた。「まあまあ」というのは、彼なりの最大限の賛辞だろう。


(確かな一歩ね)


 たとえ小さな一歩でも、確実に前進している。この怪我も、無駄ではなかった。氷のように閉ざされた子供たちの心にも、いつか温かい光が差す日が来るかもしれない。


 そして、あの氷の皇太子の心も——。いや、今はまだ、そこまで考えるのはよそう。


 まずは、この獅子の檻で生き延びること。そして姉たちの陰謀を阻止すること。やるべきことは、山積みだ。


 私は窓の外に目を向けた。素振りを終えたカリクスが、汗を拭いながら宮殿の中へ戻っていく。その背中はまだ小さいけれど、どこか以前よりも少しだけしっかりして見えた。 

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