第55話: アスクレピオスの綻びとロマンシアの覚醒
「蛇眼の紅玉」を破壊され、魔力の源泉の多くを失ったアスクレピオス。その力は大幅に減衰し、顔には焦りと狼狽の色が浮かんでいる。
「ぬうう……! しかしこれで潰えたわけではない!」
次の手を打とうとしている。まだ完全に力を失ったわけではないのだ。古代魔術の知識と何よりも『蛇』の組織への狂信的なまでの想いが、彼を突き動かしている。
「まだだ……! まだ終わらせん……!
これしきのことで
我が『主』の偉大なる計画が潰えるものか!
たとえ不完全であろうとも儀式を成就させ
我が身を捧げてでも『主』の降臨の礎となる!」
アスクレピオスは血のようなものを吐きながら、力を振り絞って祭壇に手をかざし、残された邪悪なエネルギーを無理やり引き出し、不完全ながらも儀式を強行しようと足掻き始めた。
(すさまじい執念だわ——)
魔法陣は再び禍々しい光を放ち始め、地下祭壇全体が不気味な唸りを上げて振動する。
(そん……な——!
このままでは、たとえ不完全でも
何が起こるか分からない……!
やはり、あの男を完全に無力化し
儀式を根源から断ち切らなければ……!)
私はアスクレピオスの常軌を逸した執念を目の当たりにし、その野望を完全に止めるには、通常の手段では通用しないことを悟った。
そして私の【心の声を聞く者】の能力をさらに研ぎ澄ませること——あるいは危険を顧みない高出力な使い方に踏み込む覚悟を決めた。
(もはや私の精神が砕け散ってしまうかもしれない
諸刃の剣だとしても——)
「あなたの歪んだ野望も
ここで終わりにしてあげるわ……。
わたくしの全てを懸けて!」
意識を極限まで集中させ、私の魂の奥底に眠る【心の声】の能力を、これまでにないレベルまで一気に解放した。
(何、この力は——!?)
私の全身から淡く力強い光が放たれた。
「ロマンシア——その瞳は一体……?
目が、目が透き通る青空のようだ」
「えっ……?」
極限まで高められた私の【心の声】の能力は、外見に変化をもたらしだけでなく、アスクレピオスの強固な精神障壁を、まるで鋭い刃が絹を裂くように貫いた。
そしてその先……アスクレピオスの精神の最も深層——彼自身も気づいていないかもしれない、魂の「核」とも言うべき領域に接続した。
(ここは——)
アスクレピオスの強固な信念の仮面の下に隠されていた、驚くほど脆く、悲しい「素顔」。
◇
かつて彼もまた、純粋な理想と正義感に燃える才能ある若き魔術師だった。だが最も信頼し、尊敬していた師に、無残にも裏切られ、絶望の淵で出会ったのが『蛇』の組織だった。
「裏切られたのですね——可哀想に。
その思い……
我々がしっかりと受け止めて差し上げます」
心の隙間に付け入る『蛇』の甘言と、彼らが提示する「世界の再構築」という歪んだ救済の思想に、魂を売り渡してしまったアスクレピオス。
心の奥底には癒えないトラウマと、誰にも理解されない深い孤独——そして愛への渇望が、古傷のように今もなお生々しく存在していた。
◇
(あなたも……
本当は、ただ誰かに認めてほしかっただけ……。
愛されたかっただけなのね……。
でもその手段を
あまりにも大きく間違えてしまった……)
アスクレピオスの隠された内面を知り、怒りだけでなく、ある種の憐れみを憶え、人間の心の複雑さ、脆さを改めて感じた。
(だけど、感傷に浸っている暇はない——)
私はアスクレピオスの魂の核にある、「迷い」や「トラウマ」、「孤独」といった、心の最も柔らかな隙を、容赦なく的確な言葉で突くことにした。
どんな物理攻撃よりも遥かに残酷だとしても——。
「アスクレピオス……。
あなたは、本当は知っていたはずよ。
今のあなたが歩んでいる道が
決して真の救いには繋がらないということを……。
あなたのその孤独が
あなたを歪ませ、破滅へと導いてしまったのね……」
「ええい、うるさいうるさいうるさい!」
「——あなたは
ただ誰かに認めてほしかっただけ……。
愛されたかっただけ……。
でも、その手段を間違えた。
そして、過ちを認める勇気もなかった。
……もう、お終いにしましょう。
アスクレピオス。
あなたのその、空虚な戦いは——ここで終わりです」
私の言葉は、アスクレピオスの精神の核に直接響き渡っただろう。
自身の心の奥底に、何重もの鍵をかけて封じ込めていたはずの感情——悲しみ、後悔、絶望、そして僅かな良心の呵責を、無理やり抉り出され、激しい混乱と、耐え難い精神的苦痛に襲われているようだった。
「自己正当化の論理や組織への狂信的な信念が
根底からガラガラと崩れ落ちているのでしょう?
——私には手に取るように分かっています」
「黙れ……!
黙れ……!
黙れ黙れ黙れっ!
お前に……お前のような小娘に
我が崇高なる理想の
一体何が分かるというのだ!!」
アスクレピオスは頭を抱え、獣のような叫び声を上げながら、その場に膝をついた。
周囲を覆っていた禍々しい魔力は完全に霧散し、その瞳からは、かつての冷徹な光は消え失せ、代わりに深い絶望と混乱の色が浮かんでいる。
(精神的に完全に無防備だわ——)
まさにその瞬間。私の体がもう一度眩しく光り、想像もしていなかったことが起きた。
レオルガン、ミーア、ライル、そして恐怖を完全に克服し、固い決意を瞳に宿らせていたイヴァールの「心の声」を優しく繋ぎ合わせ、彼らの意識をほんの一瞬、完全に共鳴させたのだ。
まるで五人の魂が一つに溶け合うかのような、奇跡的な体験だった。言葉を交わさずとも、互いの意志、覚悟、そして互いへの信頼が、直感的な熱い波動となって流れ込み、私たちは絶対的な一体感を得た。
(((((これは一体——!?)))))
しかし、同時にひらめきが頭を駆け巡った。これがアスクレピオスへの最後の一撃を生み出すための、究極の連携だと。
「「「「「今だ(です)!!!!」」」」」
五人の心の声が、地下祭壇に——もしかしたら世界そのものに、力強く響き渡った。
意識を共鳴させたレオルガンとミーア、そこにライルも加わり、アスクレピオスの最後の僅かな抵抗すらも打ち破るための、魂を込めた突撃を敢行する。
その動きは、もはや個々の戦士ではなく、一つの意志を持つ一体化した大きな人間のようだった。
イヴァールは、私たち全員の想いを一つに束ね、古き民の聖具「魂の鏡」と、彼自身の「魂の共鳴」の力を惜しみなく、最大限に解放した。
全身からこれまでにないほどの強大で、清浄な金色のオーラが迸り、聖具「魂の鏡」が、まるで太陽のように眩い光を放つ。
全ての準備が整った、まさにその瞬間——!




