第51話: 地下迷宮の最後の守護者と最悪の罠
アスクレピオスの陽動作戦を逆手に取り、秘密の地下通路から大聖堂の深奥へと進む私たちを待ち受けていたのは、まさに古代遺跡のような広大な地下迷宮だった。
かつて古き民が神聖な儀式を行っていた場所なのか、あるいは『蛇』の組織が作り変えたものなのか——壁には奇妙な紋様が刻まれ、空気は重く淀み、どこからともなく不気味な低い唸り声のようなものが響いてくる。
最初の広間で遭遇した石のゴーレム二体を辛うじて撃破した後も、私たちの行く手には次々と新たな脅威が立ちはだかった。
「これは——強酸性の水たまり!」
「触れるな、溶けるぞ!」
ある通路では床一面に毒の水たまりのようなものが広がり、僅かな足場を飛び移らなければ進めなかった。
またある部屋では、壁から無数の矢が放たれ、天井からは巨大な岩が落下してくるという殺意の高い仕掛け。
「大丈夫です、袖をかすっただけです」
「さすがだわ、ミーア。
あなたの身のこなしならではね」
そしてまたある場所では、姿の見えない異形の魔獣が、暗闇から鋭い爪で襲いかかってきた。
『グルルルル……!』
「何か来る!」
「危ない、ロマンシア様!」
「——! ライル、ありがとう!」
毒の水たまりに足が触れそうになった私をレオルガンが間一髪で抱きかかえて救い出してくれ、矢の雨の中をミーアがすんでのところで守ってくれた。ライルは、魔獣の気配を察知して攻撃を寸前で回避した。
イヴァールも「魂の共鳴」の力を使い、罠の気配を事前に感じ取ったり、魔獣の敵意を僅かに和らげたりして、私たちを助けてくれた。
まるで月の谷の記憶が蘇るかのような、生と死の狭間を進んでいる感覚だった。
私たちはそれぞれの能力と、何よりも仲間としての連携で、障害を一つまた一つと突破していった。
その度に私たちの体力と精神力は確実に削られていき、疲労の色も徐々に隠せなくなっていた。
(アスクレピオス……!
どれほどの罠を仕掛けているの……!?
これでは辿り着く前に
私たちが力尽きてしまう……
まさかそれを狙っているとでもいうの……!?)
私の【心の声を聞く者】は、この地下迷宮全体に満ちるアスクレピオスの冷酷な計算と、私たちへの嘲笑のような悪意を捉えていた。
しかし、私たちは辿り着いた。ここは、エレオノーラの日記にある最後の地点。
「いよいよだわ……
ここが恐らく迷宮の最深部。
地下祭壇へと続くと思われる
最後の扉——」
「だが……一筋縄ではいかないようだ」
そう、扉の前には、強大で禍々しいオーラを放つ、これまでのどの魔獣や仕掛けよりも恐ろしい『守護者』が立ちはだかっていた。
黒曜石のような漆黒の鎧に全身を包み、両の手には血のように赤い輝きを放つ巨大な剣を構えた、騎士の姿をした魔人だ。
仮面の下の瞳は、地獄の業火のように赤く燃え盛り、私たちに向けられる殺意は、肌を刺すように鋭い。
『来タナ、侵入者ドモ——
排除モード、オン』
「来る——! 皆、構えて!」
「——我が名はバルログ。
現在の主人は……アスクレピオス様。
祭壇の最後の守護者である。
いかなる者も、この先へ進むことは許可しない。
アスクレピオス様の神聖な儀式を
邪魔立てする者は、全て我が剣の錆となれ!」
バルログと名乗る魔人は重々しい声——いや『音声』でそう宣言すると、両手で剣を振り上げ、私たちに襲い掛かってきた。
「くっ——速い!」
レオルガンの足元に一撃。その動きは巨体からは想像もできないほど俊敏で、その一撃は大地を揺るがすほどの破壊力を持っている。
「こいつは、これまでの奴らとは格が違う……!」
次の一撃は再びレオルガンに振り下ろされる——!
ガアァァァン!
レオルガンは辛うじて剣でバルログの一撃を受け流すが——
「くそっ、腕がしびれ切ってしまう!
これではしばらく左手が使えん!」
ミーアとライルは左右から果敢に攻め立てるが、バルログの固い防具を崩すことはできない。
「イヴァール! あの扉を!
あの扉の封印を解かなければ
アスクレピオスの元へは行けないわ!
——今こそ聖具『魂の鏡』を使う時よ!」
私はイヴァールに叫んだ。巨大な石の扉は、強力な古代魔術によって封印されており、通常の物理的な力では到底開けることができそうにない。
だがイヴァールの「魂の共鳴」の力と、古き民から託された聖具「魂の鏡」を使えば——封印を解くことができるかもしれない。そう直感した。
「はいっ……!
やってみます、お義母様!」
イヴァールは私の言葉に力強く頷くと、聖具「魂の鏡」を石の扉にかざし、精神を集中させ始めた。その体から金色のオーラが放たれ、聖具と共鳴し、扉に刻まれた古代の紋様を照らしていく。
「小僧! まさかそれは——『魂の鏡』!?」
バルログはイヴァールを止めようとする。しかし——
「行かせんぞ、化け物め!」
「イヴァール様! 扉を!
我々が時間を稼ぎます!」
レオルガン、ミーア、ライルが次々に波状攻撃をバルログに仕掛けていく。満身創痍になりながらも、バルログと渡りあいイヴァールに希望を託すかのように見えた。
イヴァールも皆の想いを一身に受け、唇を噛み締め、全身全霊で「魂の鏡」に力を注ぎ込む。額には大粒の汗が滲み、小さな体は限界に近いほど消耗している。
「うぅ……あと、もう少し……なのに……!
開いて……お願い……!」
『今ここで頑張らなきゃ
皆が——世界が終わってしまう!
守りたいんだ! 皆を! この国を!
——未来を!!』
私の【心の声を聞く者】は、イヴァールの悲痛な叫びと、魂の奥底から湧き上がる、仲間を守りたいという純粋で強い願いを、鮮明に捉えていた。
「大丈夫よ、イヴァール!
あなたの力ならできるわ!
みんなを信じて!
そして——自分自身を信じるのよ!」
私は力強い励ましの言葉を送った。これが心の支えとなることを祈りながら……。
と、次の瞬間。イヴァールの体から強烈な金色の光が迸った。聖具「魂の鏡」も呼応するように眩い輝きを放ち、石の扉に刻まれた古代の紋様が、激しく明滅し始めた。
ゴゴゴゴゴ……!
「こ、これは——!
イヴァール!
ついに、ついにやったんだわ!」
重々しい地響きと共に、ついに扉がわずかに開いた。その隙間から、禍々しい赤黒い光を放つ、広大な地下祭壇が見えた。
「あれが——祭壇……」
——が、次の瞬間、そのわずかな扉の隙間から赤黒いオーラが視界を覆うほどに噴き出し、バルログの唸り声が空気をビシビシと震えさせた。
「ぬぬおおおおおお!」
僅かでも扉が開いたことで祭壇内部の邪悪なエネルギーが、堰を切ったように流れ出したらしく、それが全てバルログに吸収されていく。
「扉が開いたときに守護者の力が増幅する——
巧妙な罠、保険が仕掛けられていたんだわ!」
「グオオオオオ!
力が……力が漲る……!
愚か者どもめ! 祭壇の力を解放するとはな!
これで、貴様らの命運も尽きたわ!」
「な、なんてことだ……!」
レオルガンも呆然としている。
「僕のせいで——!」
「いいえ、イヴァール! それは断じて違うわ」
私はすっとイヴァールを抱きすくめた。しかしバルログはさらに巨大化になり、赤い瞳をより一層凶暴な光で輝かせながら、私たちに襲い掛かってきた。
「危ない!」
咄嗟に駆け寄ったレオルガンを「ぬああ!」と雄叫びながらあっさりと吹き飛ばした。ミーア、ライルも続くが、赤子の手をひねるかのようにあっけなく打ちのめし、戦闘不能に追い込んだ。
(せめてイヴァールだけでも——)
私はギュッと強くイヴァールを抱きしめたが「ぐああああ!」と叫びながら襲い掛かってきたバルログの一撃にあっさりと吹き飛ばされた。
「あ、ああ……」
(ダメ、何て圧倒的なの——
全身が雷で撃たれたよう。
どこにも力が入らないわ……!)
「お義母様!
ああ……もう……だめだ……」
イヴァールは、目の前で繰り広げられる光景と、扉を開けたことで逆にバルログを強化してしまったという事実に、深い絶望と自己嫌悪に打ちひしがれ、その場にへたり込んでしまった。
その瞳からは、希望の光が消えかけている。
(イヴァール……! 諦めないで……!)
私は激しい痛みに耐えながら、力を振り絞り、イヴァールに【心の声】で強く呼びかけた。
『イヴァール!
あなたの力は破壊のためではなく
誰かを守るためにあるはずよ!
エレオノーラ様の想いを思い出して!
あなたが受け継いだ古き民の魂の力を
今こそ解放するのよ!』
イヴァールは、魂に直接私の声が聞こえたからか、きょとんとしている。だが、次の瞬間——。
「……お義母様……みんな……!」
イヴァールは涙を振り払い、決然と顔を上げた。そして力を振り絞って、何かを力強く唱え始めた。
「古き魂よ、我に力を……!
愛する者たちを、この世界を守るために……!」
(いつの間に、こんな言葉を——)
イヴァールの唱えた不思議な呪文は、「魂の共鳴」の力をさらに強める言葉なのか……金色の光が一段と力強くなった。
その波動がバルログを包み込み、邪悪な力を浄化するように打ち消していく——!
「な……なぜだ……!?
我が力が……消えていく……!?」
バルログは、風船から空気が抜けていくように、もがきながら萎んでいき、動きも鈍くなっていく。
「今よ!」
私は叫んだ。その刹那、イヴァールの純粋な魂の力が、光の刃となってバルログを貫く。
「ぐあああああああっ!」
バルログは断末魔の叫び声を上げ、体を砕け散らせながら雲散霧消し、完全に消滅した。
「はあはあ……お義母様! お父様! 皆!」
最後の守護者は倒された。ついに地下祭壇の中心部への道が開かれたのだ。
「イヴァール……本当に逞しくなったな」
「ええ。本当に——」
満身創痍のはずのレオルガン、ミーア、ライルもイヴァールの聖なる光によって回復が促されたのか、わずかに微笑んでいるように見えた。
私たちは、互いに肩を貸し合いながら最後の戦いの舞台へと、静かに歩を進めた。扉の向こうには、恐らく——アスクレピオスがいる。
「イヴァールのお蔭で
何とかここまで来られたわ……!
もう後には引き返せない。
——行きましょう!」