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第05話: 狩猟会の波乱 ——暴走する馬と崖っぷちの誓い

 姉たちが帝都アヴァロンを訪れてから数日後、ヴァリスガル帝国では王家の狩猟会が催されることになった。


 これは帝国の年中行事の一つであり、皇族や有力貴族が参加する大規模なイベントだ。当然、皇太子妃候補である私も参加を求められた。


(狩猟会……前世でもあったわね。

 たしか、この狩猟会で私は……

 そして、イヴァール様にも……)


 苦い記憶が蘇る。前世の私は狩猟など下品なものと見下し、不機嫌な態度を隠そうともしなかった。


 さらにヴィオランテ姉様に唆され、慣れない乗馬で失態を演じ、レオルガン皇太子や他の貴族たちの失笑を買ったのだ。


 あれも私の評判を落とすための姉たちの策略の一つだったのだろう。それだけではなかった。


 イヴァールに何か危険な出来事が起こったはずだ。落馬だったか……? 詳細は思い出せないがそれが彼との関係をさらに悪化させる一因となったことは覚えている。


(今回は絶対に同じ轍は踏まない…!

 私自身の失態も

 そしてイヴァール様の危険も回避しなければ!)


 狩猟会当日。私はミーアが用意した、深い緑色を基調とした動きやすい仕立ての乗馬服に身を包んだ。


 前世で着たようなレースやフリルで飾り立てられたものではない。髪は編み上げて、うなじで一つにまとめている。これならば少なくとも乗馬の邪魔にはならないだろう。


(問題は、乗馬そのものね……)


 ケルベロス公爵家の令嬢として一通りの乗馬の訓練は受けている。だが得意というわけではない。


 ましてや、狩猟に参加できるほどの腕前ではない。しかしここで参加を拒否すれば臆病者と謗られ、またしても姉たちの思う壺だ。


 それにイヴァール様の側にいて、彼を守るためには参加するしかない。


 狩猟場へと向かう馬車の中で、私は隣に座るレオルガン皇太子に尋ねた。


「殿下、お子様方も狩猟会に参加されるのですか?」


「ああ。イヴァールとカリクスはな。

 セラフィナはまだ幼い故、見学だけだ」


 レオルガンは窓の外に広がる森の景色を見ながら淡々と答えた。【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】は、彼の公務における冷静さと——


『ロマンシアは大丈夫だろうか……?

 慣れない狩猟でまた何か

 問題を起こさねばいいが……』


 ——という僅かな懸念を発していた。


 やはり彼はまだ、私のことを完全には信用していないようだ。


(イヴァールとカリクス……

 特にイヴァール様から

 目を離さないようにしないと)



 狩猟場に到着するとすでに多くの貴族たちが集まり、華やかな雰囲気に包まれていた。


 色とりどりの旗がはためき、猟犬たちの吠える声や馬の嘶きが響き渡る。そんな喧騒の中で姉たちの姿を見つけた。


 グロリアもヴィオランテも見事な乗馬服に身を包み、取り巻きの貴族たちと談笑している。


 私に気づくとグロリアは一瞬だけ、嘲るような笑みを向けた。


『見てなさい、ロマンシア。

 今日こそあなたの化けの皮を剥いでやるわ。

 みっともない姿を殿下の前で晒させてあげる』


 ——という、粘つくような悪意の声が聞こえてくる。


(やはり、何か仕掛けてくるつもりね……!)


 気を引き締めていると厩舎から馬が引き出されてきた。私に割り当てられたのは、一頭の美しい栗毛の牝馬だった。


 見た目は穏やかそうだが、瞳の奥にどこか神経質そうな光が宿っている。


「ロマンシア様、こちらの馬をご用意いたしました」


 馬丁が手綱を差し出す。その男の顔に見覚えはないが、彼の内心の僅かな動揺と罪悪感、そして——


『グロリア様のご命令だ……

 少し興奮剤を混ぜておいた……

 大事にはならないはずだが……』


 ——という後ろめたい「心の声」が聞こえてきた。


(——! この馬に薬を……!?)


 全身に悪寒が走る。姉たちの嫌がらせだ。ただ気性が荒いだけでなく薬物まで使うとは。これに乗れば前世以上の醜態を晒し、最悪の場合、落馬して大怪我をするかもしれない。


(どうする? ここで馬を替えてくれと騒ぐか?)


 だが証拠はない。薬もおそらく微量で、すぐに効果が消える類のものだろう。騒げば私が神経質なだけだと笑われるだけかもしれない。


 逡巡する私の横でイヴァールとカリクスもそれぞれの馬を受け取っていた。


 カリクスは元気よく馬に跨り、早く狩りに出たくてうずうずしている様子だ。


 一方、イヴァールはどこか不安げな表情で、小柄な黒馬の手綱を握っている。


『大丈夫だろうか……

 この馬少し様子がおかしいような……

 僕に乗りこなせるだろうか……』


 という不安な思いと、彼自身の緊張が入り混じっているようだ。


(イヴァールの馬も……!?

 まさか薬はわたくしの馬だけではないの!?

 それとも単に彼が緊張しているだけ……?)


 判別がつかない。私の能力も万能ではない。特に感情のノイズが少ない場合や、複数の感情が混じり合っている場合、その真意を正確に読み取るのは難しい。——だが胸騒ぎがするのは確実だ。


 もしイヴァールの馬にも何か細工がされていたとしたら? 姉たちの狙いは、私だけでなくイヴァールにも及んでいるのかもしれない。


 皇太子の長男に何かあれば、その責任は保護者である私に降りかかる。そうなれば私の立場はさらに危うくなる。

 

 狩りの開始を告げる角笛が高らかに鳴り響いた。貴族たちが一斉に馬を駆り、森の中へと散っていく。レオルガンも手綱を引き、私を一瞥して言った。


「無理はするな」


 その言葉の裏には『厄介事を起こすな』という響きがあった。彼はすぐに、屈強な騎士たちと共に森の奥へと消えていった。


 私は目の前の栗毛の馬と少し離れた場所にいるイヴァールとその黒馬を交互に見比べた。どちらも危険な可能性がある。どうすればいい?


(落ち着きなさいロマンシア。

 パニックになっては駄目。


 まずは自分の馬を制御すること。

 そしてイヴァール様から目を離さないこと)


 私は馬丁から手綱を受け取り、栗毛の馬の首筋を優しく撫でた。馬は少し身を震わせたが暴れる様子はない。薬の効果はまだ出ていないのか、それとも本当にごくわずかな量なのか。


「大丈夫……いい子だから……」


 私は馬に優しく声をかけながら、慎重に馬に跨った。足が鐙に収まった瞬間、馬が軽く嘶き、落ち着きなく足踏みをした。


 やはり何かおかしい。だが制御できないほどではない。


 カリクスはすでに森の中へと駆け出して行った。セラフィナは侍女たちと共に少し離れた場所で見守っている。


 問題はイヴァールだ。彼はまだ、その場で躊躇しているように見えた。彼の黒馬も、落ち着きなく地面を蹴っている。彼の不安が、馬にも伝わっているのかもしれない。


(行かないと……!

 イヴァール様に声をかけないと!)


 私が意を決してイヴァールの方へ馬を進めようとしたその時だった。森の奥からパンッ ! というまるで狩猟用の鞭を鋭く空で鳴らしたような、乾いた破裂音が響いた。


 それは偶然の物音にしてはあまりにタイミングが良く、そして姉たちの悪意を常に警戒していた私の耳には、何者かの意図を含んだ響きにも聞こえた。


 その鋭い音に驚いたのだろう。「ヒヒーンッ!!」甲高い嘶きと共にイヴァールの黒馬が突然、前足を高く上げて暴れ出した!


 イヴァールは必死に手綱にしがみついているが、小柄な彼の体ではパニックに陥った馬を制御しきれていない。


「危ないっ!」


 周囲から悲鳴が上がる。黒馬は狂ったように駆け出し、森の奥へと続く道ではなく崖が迫る危険な方向へと猛進し始めた!


(まずい!

 前世と同じ……いや、もっと悪い状況だわ!)


 前世の記憶が鮮明に蘇る。そうだ、これだ。狩猟会での事故。イヴァールが落馬して大怪我を負い、その責任の一端が私にあるとされたのだ。


 だが今回はそれだけでは済まないかもしれない。あの先は——崖だ!


「イヴァール様!」


 考えるよりも先に私は自分の馬の腹を蹴っていた。薬の影響か、私の緊張が伝わったのか、栗毛の馬も興奮している。


 下手をすれば私も落馬する危険がある。だが今は迷っている暇はない!


「行けっ!」


 幸い、私の乗馬技術は前世の記憶よりも少しだけマシだったらしい。あるいは火事場の馬鹿力か。


 もしかしたら……と【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】で馬の感情を読み取る。


 ——興奮と走りたいという衝動の両方が聞こえてくる。


(そうだったのね——)


 それらを制御しながら、私は栗毛の馬を疾風のように駆けさせた。暴走する黒馬を追って、崖へと続く道を進む。


 風が顔を打ち、木々が猛スピードで後ろへと流れていく。黒馬のすぐ後ろに追いつく。イヴァールの小さな背中が、馬に必死にしがみついているのが見える。


(間に合って……!)


 崖が目前に迫る。このままではイヴァールは馬もろとも谷底へ転落してしまう!


 私は馬上で体を大きく乗り出し、イヴァールの腕を掴もうと手を伸ばした。


「イヴァール様、手を!」


 私の声にイヴァールがはっと顔を上げた。その緑の瞳には、恐怖と驚愕の色が浮かんでいる。彼は一瞬躊躇った——私への不信感があるのだろう。


 だが私の必死の形相と、迫りくる崖を見て、彼は覚悟を決めたように伸ばされた私の手に向かって自分の手を伸ばした。


 指先が触れる。


 だがその瞬間、私の栗毛の馬が大きく体勢を崩した。無理な加速と急接近でバランスを失ったのだ。薬の影響も出始めたのかもしれない。


(しまった!)


 視界が傾く。落馬する——!


 だが私はイヴァールの手を掴んだまま、離さなかった。二人同時に地面に叩きつけられる。衝撃で息が詰まる。全身に激痛が走る。


 ゴロゴロゴロ……!


 私たちは土埃を上げながら崖の縁を転がり落ちていく。幸い、崖のすぐ下は急斜面になっており、途中にある灌木に引っかかって、なんとか転落は免れた。


「……っ……う……」


 全身が痛い。特に受け身を取り損ねた左腕が、焼けるように熱い。折れたかもしれない。


 隣でイヴァールが咳き込みながら身を起こそうとしている。


 幸い、彼には大きな怪我はないようだ。ただ呆然とした表情で、私と崖の上でようやく落ち着きを取り戻した二頭の馬を見上げている。


「あ……あなた……は……?」


 イヴァールの声が震えている。彼の混乱と恐怖、そして信じられないものを見たという驚きの声が聞こえてくる。


『なぜ……? なぜ、僕を助けた……?

 この女が……? 悪女のはずじゃ……?

 自分の身を顧みずに……?』


「怪我は……ありませんか……?」


 私は痛みに呻きながら、なんとかそれだけを口にした。


「……僕は……大丈夫だ。

 でもあなたの腕が……血が……!」


 イヴァールは私の左腕から流れる血と、腕が不自然な角度に曲がっているのに気づき、息を呑んだ。


 その緑の瞳に初めて、私に対する敵意以外の感情——心配と戸惑い——が浮かんだように見えた。

 

 その時、崖の上から複数の足音が聞こえてきた。レオルガン皇太子と彼の騎士たちが、異変に気づいて駆けつけてきたのだ。


「イヴァール! ロマンシア殿!

 ——無事か!?」


 レオルガンの鋭い声が響く。彼は崖の上から私たちを見下ろし、そのアイスブルーの瞳を驚愕に見開いていた。


 私の能力は、息子を失うことへの恐怖、安堵、そして——私に対する、形容しがたい複雑な感情の激しいノイズを受け取り、私に伝えている。


『無事か……! よかった……!

 だが、なぜ彼女が……? イヴァールを庇って……?

 あのロマンシアが……?

 一体、何が起きている……?』


(イヴァールが助かった……

 だが、ロマンシアが助けた……!?)


 激痛の中で、私の意識は遠のきそうになる。だが、確かに感じていた。この瞬間、何かが変わった、と。


 レオルガンの、イヴァールの、そして周囲の人々の、私に対する見方が。運命の歯車が、ギシリ、と音を立てて軋んだような気がした。


 断頭台へと続く道から、ほんの少しだけ、逸れたような気がした。これは、私の決意の第一歩。破滅の運命に抗うための、最初の戦い。そしてこの負傷は、そのための代償。


(悪くない……)


 ——意識が途切れる寸前、私はそんなことを考えていた。 

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