第45話: 賢者エルローンの試練とイヴァールの覚醒
イヴァールの体から溢れ出した、純粋で強烈な「魂の共鳴」の力。そしてその力が引き起こしたであろう、谷の自然との神秘的な共鳴現象は、賢者エルローンをはじめとする古き民たちに、大きな衝撃と動揺を与えた。
彼らは、目の前の幼い少年が只者ではないこと、そして彼が持つ力こそが古い伝承にある「古き民の真の力」——すなわち、失われたはずの「星々と魂が響き合う力」に近いものであることを、直感的に感じ取ったようだった。
武器を構えていた戦士たちは、知らず知らずのうちに構えを解き、イヴァールを畏敬と警戒の入り混じった目で見つめている。谷全体を包んでいた緊張の糸が、僅かに緩んだように感じられた。
しかし長老・エルローンの表情は、依然として険しいままだった。エルローンもまたイヴァールの力に驚きを隠せないでいるものの、長年にわたる外部の者への不信感を完全に捨てきれずにいるのだ。
「……その子供がもし本当に
我らと同じ血を引く者だとしても
それだけでお前たちを信用するわけにはいかん」
エルローンは、厳しい声で言った。私は咄嗟に、イヴァールをギュッと抱きしめた。
「……我々も、あまりにも多くの
裏切りと迫害を経験してきたのだよ。
帝国の者、外部の者との関わりは
常に我らに災いをもたらしてきた——。
お前たちの真意……そして
その子供の力が本物であるかを見極めるため
試練を課すことにする」
(試練……ですって?)
私は息を呑んだ。だが瞬時に「これはチャンス」だと直感した。彼らの不信感を解き協力を得るための、唯一の道なのかもしれない——と。
「もし、この谷の聖域が課す試練を
お前たちが乗り越えることができたならば
その時は汝らの言葉に耳を傾けよう。
だがもし失敗すれば……
二度とこの谷の土を踏むことは許さん。
お前たちは災厄を運ぶ者として
末代までこの谷には近づけなくなるだろう」
エルローンの言葉は冷徹で、有無を言わせぬ響きを持っていた。その「心の声」もまた『これが最後の機会である』という強い決意を示している。
私はイヴァールの顔を見つめると、イヴァールがついに、意識を取り戻した。
「お、お義母様——!」
「イヴァール!! 大丈夫?
ついに……あなたのお蔭で
ついにここまで来られたのよ!」
こくりと頷き、イヴァールもまた「試練に臨むしかない」という覚悟を決めていることを伝えてくれた。やはり私たちに選択肢など、ない。
「……分かりましたわ、エルローン様。
その試練、お受けいたします。
イヴァールのためにも
そして——私たちの未来のためにも」
「ふふ……よかろう」
◇
しかし、エルローンが課した試練は複数あり、どれも困難を極めるものだった。
最初の試練は「谷の聖域の入口を守る、古代のゴーレムを鎮める」というもの。ゴーレムは古き民の祖先が魔法で作り出したもので、聖域に邪な心を持つ者が近づけば、容赦なく攻撃を仕掛けてくるという。
私たちがゴーレムの前に立つと、巨大な石の塊が動き出し、両目が赤い光を放つ。——明らかに私たちを敵と認識している。
「どうすれば……。
こんなものと戦って勝てるわけがないわ……」
私が途方に暮れていると、イヴァールがゴーレムの前に進み出た。
「……この石の巨人……怒ってる……。
でも、それだけじゃない……。
なんだか、とても……寂しそう……」
イヴァールは目を閉じてゴーレムに向かって何かを囁き始めた。言葉というよりは魂で交信しているような、不思議な時間が流れた。
(まさか——)
私も思わず息をのんだ。……すると、敵意を剥き出しにしていたゴーレムの動きが徐々に鈍くなり、赤い目の光も和らいでいくようだった。
それはまるで、子供をあやすようだった。そしてついにゴーレムは動きを止めた。ただ静かに私たちを見下ろすだけだ。
(イヴァールの力……!
物理的な力ではなく魂に働きかけ
相手の感情を鎮めるたとでもいうの……!?
でもゴーレムの『感情』って——?
いえ、目の前で起きていることが『事実』だわ。
私の先入観で可能性を狭めてはいけない……!)
「イヴァール! すごいわ!」
「お義母様……」
「わたくし、一瞬でも『無理かもしれない』と思った
自分を恥ずかしく思うわ。
あなたは立派よ、とっても。」
私はイヴァールを抱きすくめるしかできなかった。イヴァールの「心の声」も、ただ『よかった』と安堵していた。
「クッ……! まさかゴーレムを鎮めるとは……!
よかろう。奇跡などそうそう起きるものではない」
エルローンも事実は受け入れるしかないようだった。
次の試練は「邪悪な気によって汚染された、谷の霊泉を浄化する」というもの。その泉は、かつては谷の民の生命の源だったが何者かの悪意によって汚され、今は不気味な霧を立ち上らせる『死の泉』と化していた。
私がエレオノーラの日記にあった『浄化の呪文』を試みても、泉はひどく淀んだまま。
しかしイヴァールが恐る恐る泉の水に手を浸すと、指先から金色の光が広がった。泉の濁りが晴れ、不気味な霧も一瞬で消滅した。
(なんてこと……! 純粋な魂の力が
泉の邪気を中和したとでも言うの——?)
「泉の穢れが一瞬で——?
この者の力、いかほどのものだというのか!」
エルローンも立て続けに起こる奇跡に驚いている。私以上に驚いている。
「だが——奇跡もこれまでよ」
最後の試練は、「古き民の賢者たちが集う聖なる円卓で、賢者の深淵な問いに答える」というものだった。
「では、答えてもらおうか——」
普段は礼拝所だという薄明りの部屋の中で、老賢者たちに取り囲まれた私たちは、まるでひたすら尋問を受けているようだった。
歴史、哲学、自然の摂理、そして魂のあり方——縦横無尽にあらゆる質問を次々と問いかけてくる。
私は、皇立図書室で学んだことや書記官のアランとの学び、一度目の人生の屈辱……あらゆるものを総動員して、必死に答えようとした。
「では、次。風の精霊たちとの魂の交歓において
必要とされる三つのものとは何か——」
「ええ……
風の精霊というものは——」
(イヴァール……! あなたなら何と答えるの?)
「問い」はあまりにも多岐にわたり、私の知識だけでは到底太刀打ちできない——。追い詰められた私を見て、イヴァールが静かに口を開いた。
「……難しいことは、僕には分かりません。
でも……一番大切なのは、誰かを想う心
そして、みんなで一緒に幸せになろうとすること……
じゃないでしょうか……?」
子供らしい、純粋で本質を突いた答えに賢者たちは一瞬言葉を失い、互いに顔を見合わせて静かに頷いた。「問う側が用意した答え」を意識しすぎて、自分たちの思考が凝り固まっていることに気づかされた、という様子だ。
「ぬう……
もうよい、その子の力は『本物』のようだ——」
「……! イヴァール!」
「お義母様……!」
こうして全ての試練を乗り越えた私たちを、エルローンは、以前とは全く違う穏やかな目で見ていた。
「……まさかここまでとは。
見事だ、ロマンシア殿。そしてイヴァール殿。
お前たちは、我らが課した全ての試練を乗り越えた。
その勇気、知恵——
そして何よりも互いを想う強い絆の力……
確かに見届けさせてもらった」
彼の「心の声」までも、私たちへの賞賛とイヴァールへの深い畏敬の念で満ちていた。
「特に、イヴァール殿……。
あなたのその力は
まさしく我らが祖先の魂と響き合う
真の『魂の響き』。
あなたは……古き民の未来を導く
『予言の子』なのかもしれん……」
エルローンはそう言うと、イヴァールの前に静かにひざまずいて深々と頭を下げた。他の古き民たちもまた、私たちに敬意を示してくれた。
その時、谷の奥深くにある最も神聖な場所——古き民の最高指導者である大賢者ルミナリアが住まうという「月の神殿」から、一人の使者がやってきた。
「エルローン様。そして異郷の方々。
大賢者ルミナリア様が、皆様をお呼びです。
どうか、こちらへ」
「なんじゃと、ルミナリア様が……?」
大賢者ルミナリアはエルローンの報告と、イヴァールの覚醒の様子を全て見聞きしており、私たちに正式な謁見を許し、全面的な協力を約束してくれるというのだ。
◇
その夜。月の神殿は谷の最も高い場所にあり、月光を浴びて白銀に輝いていた。そこは静謐と神聖な空気に満ちている。
その中央。穏やかで威厳に満ちた、美しい、老いた女性が腰かけていた。大賢者ルミナリア。彼女の瞳は、全てを見通すかのように深く、慈愛に満ちていた。
「ようこそ、月の谷へ。
ケルベロスの娘、そして……古き魂を継ぐ者。
イヴァールよ」
ルミナリアの声は、優しく、力強い響きを持っていた。
「あなた方の勇気とこの子の清らかな魂が
我ら古き民に希望を与えてくれました。
我々の知識と力を
世界の破滅を止めるために役立てましょう」
そう言うと、私たちに、『蛇』の組織が「天穹の祭典」で何をしようとしているのか、恐るべき計画の全貌を語り始めた。
組織は、古き民の失われた強大な力を悪用し、世界に破滅的な災厄をもたらす可能性のある『邪悪な存在』をこの世界に復活させようとしているのだという。
しかしその儀式には、イヴァールのような強力な「魂の共鳴」を持つ「器」が必要不可欠である、と。
(やはり……!
イヴァールが狙われている理由は
そういうことだったのね……!)
私たちが、衝撃的な事実に言葉を失っていると、見張り役の男が血相を変えて駆け込んできた。
「大変です、大賢者様! エルローン様!
谷の結界が……
何者かによって破られようとしています!
おそらく……『蛇』の刺客!
あの、ゼノビアとかいう女も
……再び、谷に迫ってきています!」
つかの間の安堵は打ち砕かれた。
「……『蛇』の動きもまた
我々の予想を超えて速いようですね」
大賢者ルミナリアは静かに、厳しい表情で言った。
「だが、もはや恐れることはありません。
我々には、希望の光が灯ったのですから。
さあ、反撃の準備を始めましょう。
この月の谷を、そして世界の未来を守るために!」
ルミナリアの言葉によって、古き民たちの顔にも決意の光が宿った。そして私もまた、イヴァールの手を強く握りしめ、迫りくる最後の戦いに向けて心を固めるのだった。




