第43話: 執拗すぎるゼノビアの追撃と、イヴァールの力の開放
燃え盛る森の中、私とイヴァールはただひたすら走り続けていた。
レオルガンが、ミーアとライルが、私たちのために命を賭して作ってくれた時間を無駄にしないために。
「父上は……ミーアさんとライルさんは……
大丈夫なのでしょうか……?」
イヴァールが息を切らしながら、か細い声で尋ねてきた。彼の緑の瞳には、恐怖と、仲間や家族と離れてしまったことへの深い悲しみが浮かんでいる。
「……大丈夫よ、イヴァール。
皆、必ず生きているわ。
私たちは信じていきましょう。
——まずは安全な場所へ辿り着かなければ
皆も安心して戻ってこられませんよ」
「——はい。お義母様」
その言葉に私は驚いた。しかし、ほんの少し微笑んで、すぐにイヴァールを励ましながら先を急ぐことにした。私の心の奥底では「こう呼ばれるのは最後かもしれない——」そんな最悪の事態も覚悟していた。
あの炎とゼノビアの狂気的な執拗さを考えれば、ミーアもライルも……レオルガンさえも、無事でいられる可能性は低いのかもしれない。そんな思考すらよぎってしまった。
(いけない。私がこんなことでは
イヴァールも不安になってしまうわ——)
その時、雨が降り始めた。
(濡れてしまうと体温が——でも……!)
雨は私たちの体温を奪い、体力を消耗させる冷たい試練であるが——同時に、火事を鎮め、私たちの痕跡を消す恵みの雨だと考えた。
私たちは雨に打たれ、泥にまみれながら、エレオノーラの日記に記された「月の谷」への手がかり——断片的に書かれた地形や、ところどころに群生する珍しい植物・「月光花」の香り——そんな微かなものを頼りに、何とか道なき道を進んでいった。
「エレオノーラ様も、こんな旅を続けたのかしら……」
脚はもつれ、服もボロボロ、身も心も限界が近づいていた。しかし——ゼノビアの追撃は、私たちの想像を絶するほど執拗だった。
どんな足止めも、雨も、道なき道も、全てをかいくぐりながら追いかけ続けている。
彼女の「心の声」は純粋な狂気と、イヴァールへの異常な執着だけで満たされている。
『あの小僧……あの力……!
必ず手に入れてみせる……!
他の雑魚はどうでもいい……
あの子さえ手に入れば……!』
手練れの部下数名を引き連れ、血に飢えた肉食獣のように私たちの後を追ってきているようだ。その影が、気配が、私たちの背後にねっとりと貼りついているようで、片時も安心を与えてはくれなかった。
ゴリッ! 見通しの悪い渓谷地帯に差し掛かり、私が小石を踏んで思わずバランスを崩し、その場に倒れそうになった瞬間——ついに、私たちはゼノビアに追いつかれてしまった。雨は少し、小降りになっていた。
「やっと追いついたわよ、おチビちゃん。
それと——ケルベロスの悪女様。
もう逃げ場はないわ。
大人しく、小僧を渡してちょうだい」
ゼノビアは岩陰から現れると、血に濡れた鞭をペチペチと弄びながら冷酷な笑みを浮かべた。背後には、数名の人影。いずれも強い殺気を漲らせて立ちはだかっている。
「ふっ……そんなものは当然お断りよ。
イヴァールは、絶対にあなたたちには渡さない」
私は震えるイヴァールを背後に庇い、毅然とした態度で答えた。だが内心では、絶望的な状況に打ちのめされそうだった。
レオルガンもミーアもライルもいない。私たち二人だけで、どう立ち向かえというのか——。
「ふふふ、勇敢なことね。
だけど無駄な抵抗よ。
お前たちのような非力な者が
私に敵うとでも思っているの?」
ゼノビアは鞭を大きく振りかぶり、私に襲い掛かってきた。その動きはあまりに速く、正確——。私は咄嗟に身を躱したが、鞭の先端が頬を掠める。鋭い痛み。
「きゃあ!」
「お義母様!」
「——イヴァール、逃げて!
私なんてどうでもいいの。……逃げて!」
私は叫びながら、ゼノビアの次の攻撃に備えようとした。しかし彼女の鞭は、まるで生き物のようにしなり、足に絡みつき、歩くことさえ許してくれなかった。
グシャァ!
私は無様に地面に倒れ込み、泥にまみれた。その瞬間、全身に痛みが走った。声にもならない。
「——!」
「ふん、やはりこの程度か。つまらないわね」
スッと私の眼前に立つと、ゼノビアは私を見下ろして嘲るように言った。ちらりと目線を動かす。もちろん、その先にはイヴァール。
「さあ、小僧。
おとなしくこちらへ来なさい。
抵抗しなければ、苦しまずに済むわよ?」
イヴァールは恐怖に顔を引きつらせながらも、私とゼノビアの間に立ち、小さな体で私を庇おうとした。
「いやだ! お義母様を……いじめるな!」
(イヴァール……!)
その時だった。イヴァールの体から再び、金色のオーラが迸った。以前よりもずっと強く、激しい。
誰かを守りたいという強い想いと、恐怖や無力感、そして怒りが、眠っている「古き民の力」を無意識に解放させたのか——。
「やめろーっ!!」
イヴァールの叫び声と共に、体の周りにエネルギーの渦が発生し、強烈な衝撃波となってゼノビアたちを襲った。
「なっ……!
この小僧、こんな力を隠していたとは……!」
ゼノビアは驚愕の表情を浮かべながら、イヴァールの衝撃波に吹き飛ばされ、岩壁に叩きつけられた。部下たちもまた、なすすべもなく地面に転がって呻き声を上げている。
イヴァールの解放した力は強大だが、あまりにも荒々しく、しかも制御されていない。イヴァール自身も、その力の波動に苦しみ、頭を抱えてその場にうずくまってしまった。体は小刻みに震え、瞳からは光が消えかけている。
(イヴァール……! 力が暴走している……!
このままではイヴァール自身が危ない……!)
私は全身の痛みも忘れ、危険を顧みずイヴァールに駆け寄った。
「イヴァール! しっかりして!
私よ、イヴァール!」
私はイヴァールの肩を掴み、【心の声を聞く者】の能力を研ぎ澄ませ、彼の混乱した心に必死に呼びかけた。彼の魂は、力の波動の中で、嵐に弄ばれる小舟のように激しく揺れ動いている。
「大丈夫よ、イヴァール……。
あなたは一人じゃないわ……。
その力は、
あなたを傷つけるためのものじゃない……。
大切な人を、守るための力なのよ……!」
私の言葉が、彼の心の奥底に届いたのだろうか。あるいは私の魂の声が、彼の力の波動を鎮めたのだろうか。
イヴァールの体の震えが、少しずつ収まり、瞳にも僅かながらではあるが光が戻り始めている。
「……お……かあ……さま……?」
彼は、掠れた声で、私を呼んだ。
「ええ、そうよ、イヴァール。もう大丈夫……」
私が、その手を強く握りしめると、彼はまるで安心したかのように、ゆっくりと意識を失った。力の暴走は、辛うじて抑え込まれたようだった。
一方、ゼノビアはゆっくりと立ち上がり、口元から流れる血を手の甲で拭った。その赤い瞳は、先程までの狂気的な光を失っているようだが、代わりにイヴァールの力に対する底知れぬ執着と、僅かな恐怖の色を浮かべていた。
「……覚えておきなさい……ケルベロスの悪女
……そして、あの小僧……。
あの力は……必ず、私のものにするわ……!」
ゼノビアは自分たちの受けたダメージを計算したのか、不気味な言葉を残しながらも深手を負った部下たちを引き連れ、雨の中へと姿を消した。
(イヴァールのお蔭で……助かったわ。
でも、あの執着心。
——きっと、またやってくる)
私は、意識を失ったイヴァールを抱きかかえ、疲労困憊の中、再び「月の谷」を目指して歩き始めた。
イヴァールの力は、私たちの希望であると同時に大きな危険も孕んでいることを、改めて痛感していた。
この力を正しく導き、制御する方法を一刻も早く見つけ出さなければならない。
それに——
(ミーア、ライル、——レオルガンも
どうか、どうか皆も無事でいて……!)
私たちの旅は、まだ終わらない。全身の痛みをこらえながら、今は歩くことしかできなかった。