第04話: 侍女ミーアの謎と姉妹の来訪 ——見えざる悪意の胎動
ヴァリスガル帝国での生活が始まって数週間が経過した。
帝都アヴァロンの空気にも、そして「獅子の檻」と呼ばれる皇太子の居城の冷ややかな雰囲気にも、少しずつ慣れてきた——いや、正確には慣れるように努めているという方が正しい。
レオルガン皇太子や継子たちとの関係はまだ手探り状態だが、少なくとも前世のような破滅的な状況ではない。
しかし油断はできない。私の破滅を望む者たち——特に、姉のグロリアとヴィオランテ——が、いつ、どのような形で妨害してくるか分からない。
この宮殿自体も、見えない敵意や陰謀が渦巻いている可能性がある。生き延びるためには情報が必要だ。正確な情報を掴み、先手を打つ必要がある。
そこで頼りになるのが、ケルベロス家から連れてきた数少ない侍女の一人、ミーアだった。
彼女は控えめで口数が少なく目立たない印象の若い侍女だが、その仕事ぶりは驚くほど有能だった。
身の回りの世話はもちろん、私が指示した宮廷内の情報収集に関しても的確かつ迅速にこなしてくれる。
そして何より【心の声を聞く者】も、彼女からは悪意や侮蔑といったノイズを一切受け取らなかった。
ただ純粋な忠誠心と、任務を遂行するという強い意志の響きだけがある。
(彼女は信頼できる……少なくとも、今は)
だが同時に、彼女にはどこか謎めいた雰囲気があった。その冷静すぎる態度、観察眼の鋭さ、そして時折見せる侍女らしからぬ隙のない所作。
私の能力を通しても、彼女の奥底には何か固く閉ざされた「扉」のようなものを感じる気がする。彼女自身の過去や素性に関しては、決して語ろうとしないのだ。
(ただの侍女ではない……それは確かね。
でも今は彼女の力を借りるしかない)
「ミーア。
宮廷内の派閥争いの状況について、
何か新しい情報は?」
自室で、私はミーアに尋ねた。
「はい、ロマンシア様。
現在、宰相派と将軍派の対立が
水面下で激化している模様です。
特に、レオルガン殿下の外交政策や
最近の改革の動きを巡って
意見が対立しております」
ミーアの報告は、常に簡潔で要点がまとまっている。
「姉様たちが、どちらかに接触している様子は?」
「現時点では明確な動きは確認できておりません。
しかし——」
ミーアは僅かに言い淀んだ。
「グロリア様とヴィオランテ様が
近々、帝都をご訪問される
という情報が入っております」
「なんですって!?」
思わず声が大きくなる。姉たちがこんなに早く帝都に来る?
(何の目的で——?)
前世ではもっと後だったはずだ。
(歴史が変わってきている?)
それとも、私の知らない動きがあったのか?
(油断できない…!
あの二人が来るということは
必ず何かを企んでいる!)
ズキリ、と再びこめかみが痛む。姉たちの名前を聞いただけでも私のアンテナが過剰に反応するようだ。
この力はどうも強い悪意に対して特に敏感で、その分、私の精神への負荷も大きいらしい。
まさにその時、侍従が部屋の扉を叩き、来客を告げた。
「ロマンシア様。
グロリア様とヴィオランテ様がお見えになりました」
(……嘘でしょう!?
今、噂をしていたばかりなのに!)
最悪のタイミングだ。心の準備ができていない。しかし、ここで動揺を見せるわけにはいかない。
「……お通しして」
私は平静を装い、ミーアに目配せした。ミーアは無言で頷き、一歩下がって控える。彼女の所作には、やはりどこか常人離れした落ち着きがある。
まもなく、華やかなドレスに身を包んだ姉たちが、明らかに何かを企んでいる、にこやかな笑みを浮かべて部屋に入ってきた。
長姉グロリアは相変わらず社交界の花といった完璧な装いで、その美貌は見る者を惹きつける。
次姉ヴィオランテは、儚げな芸術家風の雰囲気を漂わせ、グロリアの後ろにぴったりと寄り添っている。
「まあ、ロマンシア。元気そうで安心したわ。
慣れない土地で、
さぞ心細い思いをしているのではないかと思って
心配で見に来てあげたのよ」
グロリアは甘い声で言いながら私の手を取ろうとする。その瞬間、凄まじい悪意の波動が能力を伝って私の脳を殴りつけた!
(ッ——!! くっ……!)
その「警告」のあまりの激しさに、思わず呻き声が出そうになるのを必死で堪える。激しい頭痛と吐き気。視界がぐらつき、立っているのがやっとだ。しかし動揺は禁物だ。
グロリアの内面から溢れ出してくるのは、煮えたぎるような嫉妬と憎悪、そして黒々とした悪意のノイズ。
『忌々しい! なぜこの子が皇太子妃候補なの!?
私の方が相応しいのに!』
『レオルガン殿下の気を引いて…!
絶対に許さない!』
『この子を貶めて、私が代わりに…!』
隣にいるヴィオランテからも粘つくような嫉妬と劣等感のノイズが響いてくる。
『ロマンシアばかり……いつも、私より注目されて…』
『レオルガン殿下は
私の芸術を理解してくれるはず……』
『姉様、早くこの子を排除して……』
二人の強烈な悪意の挟み撃ちのようだ。これが私の能力の最大の効果であり、代償でもあるようだ。特に血縁者からの強い悪意は、私の精神をより深く蝕むのかもしれない。
しかし、何もわからずに思いのままにされるよりは遥かにマシだ。
「……お心遣い痛み入ります、姉様。
ですが、わたくしは——
こちらでの生活にも慣れ
レオルガン殿下や、
お子様方とも良好な関係を築いておりますので
ご心配には及びませんわ」
私は震える声を抑えつけ、精一杯の虚勢を張って答えた。グロリアの作り笑顔が一瞬だけ引きつったのを【心の声を聞く者】も受け取っている。
「あら、そうなの? それは良かったわ。
でも、油断は禁物よ、ロマンシア。
ヴァリスガルの宮廷は
ケルベロスとは違うのだから。
何か困ったことがあればいつでも
この姉に相談してちょうだいね?」
グロリアは心配するふりをしながら、私の肩にそっと手を置いた。その接触を通じて、さらに強い悪意の波動が流れ込んでくる。まるで、毒が染み込んでくるようだ。
(耐えられない……!)
これ以上姉たちと一緒にいるのは危険だ。能力の負荷だけでなく、精神的にも限界に近い。このままでは、また前世のように、彼女たちのペースに呑み込まれてしまう。
「——申し訳ありません、姉様。
長旅の疲れが出たのか
急に気分が悪くなってしまって……
少し、休ませていただいてもよろしいでしょうか?」
私は顔面蒼白を装ってよろめくふりをした。実際に、気分が悪かったのは事実だが。
「まあ、大変! やはり疲れていたのね」
グロリアは心配そうな声を出すが、私の能力が捉えた「彼女の真意」は——
『計画通り!
精神的に追い詰めてやればいい! なんて弱い子!』
——という喜びの響きを隠さない。
「ヴィオランテ、ロマンシアをベッドへ。
侍女は何をしているの!
早く介抱してさしあげなさい!」
侍女たちが慌てて駆け寄り、私を支えようとする。その混乱に乗じて、私はグロリアの手を振り払い、ミーアの方へと体を寄せた。
「ミーア……後は頼むわ……」
そう囁くとミーアは無言で、しかし力強く頷いた。彼女の腕に支えられながら、私は寝室へと引き下がる。彼女の腕は、驚くほどしっかりとしていて頼りになった。
背後でグロリアとヴィオランテの声が聞こえる。
「無理はしないでね、ロマンシア」
「早く良くなってね」
——その言葉とは裏腹の冷たい悪意も同時に聞こえてきた。
◇
寝室の扉が閉められ、ようやく姉たちの気配が遠ざかると、私はベッドに崩れ落ちた。激しい頭痛と吐き気。全身から力が抜けていく。
「ロマンシア様、お気を確かに!」
ミーアが冷静に、しかし心配そうに私に呼びかける。彼女が用意してくれた水を受け取り、ゆっくりと口に含む。
「ありがとうミーア……助かったわ……」
「とんでもありません。
しかし、お体の具合が優れないご様子。
やはり——あの力の反動が大きいのでしょうか?」
ミーアは私が持つ【心の声を聞く者】について、ある程度察しているようだった。
私が「人の悪意や嘘に敏感で、それによって疲弊することもある」という程度の認識は持っているのかもしれない。
もちろん私が回帰者であることや、能力の具体的な内容までは知らないだろうが……。
「ええ……気づいていたのね。
特に姉たちの悪意はこたえるわ……」
私は額を押さえながら答えた。
「あの二人が帝都に来たのは
間違いなく私を陥れるため。
早く手を打たないと……」
「お一人で抱え込まないでください。ロマンシア様」
ミーアは静かに言った。
「私にできることがあれば
何なりとお申し付けください。
ロマンシア様をお守りすることが
私の務めですので」
彼女の言葉に嘘の響きはない。ただ純粋な忠誠心だけが感じられる。だが、やはりその奥には、何か固く閉ざされたものがある。
(協力者が必要だ……私一人では、限界がある……
この力にも、頼りすぎてはいけない)
ミーアは有能だが、彼女一人に全てを任せるわけにはいかない。それに彼女の謎も気になる。この宮殿で他に信頼できる相手を見つけなければ。
(それは、氷の仮面を被った皇太子か?
それとも、まだ見ぬ誰かか……?)
頭痛はまだ治まらない。だが、心の中には新たな決意が生まれていた。
姉たちの妨害。能力の代償。見えぬ敵。乗り越えるべき壁は高い。それでも、私は負けない。生き延びるために、そして、いつかこの手に平穏を掴むために。
まずは、体調を整え、姉たちの動きを探ることからだ。そして、信頼できる協力者を見つけること。それが、今の私にできる、次の一歩。
窓の外は、既に夕暮れに染まっていた。長い一日だった。だが、戦いはまだ始まったばかりだ。