第38話: 社交界の毒婦と嫉妬まみれの罠、そして断罪の舞台へ……
「月の谷」への旅立ちの準備を秘密裏に進める一方で、帝都アヴァロンでは実にくだらない問題が私の頭を悩ませることになっていた。
帝都社交界で絶大な影響力を持つという、アビゴール侯爵夫人の存在がそれだ。
アビゴール夫人は若くして侯爵に嫁ぎ、美貌と家柄を武器に、瞬く間に社交界の女王の座にのし上がったと噂される女性。
だが美しい仮面の下には、傲慢で嫉妬深く、他人の不幸を蜜の味とする歪んだ性格が隠されているという。
私の【心の声を聞く者】も彼女の「心の声」からは、強烈な自己顕示欲と他者への底なしの侮蔑、さらには最近急速に宮廷内で影響力を増している私への、煮えたぎるような嫉妬を捉えていた。
私がレオルガン皇太子の寵愛を受け、詩歌コンクールで才能を示し、宮廷改革でも手腕を発揮していることが彼女のプライドを酷く傷つけ、嫉妬心にさらに油を注いだようだ。
「まあ……あの方が噂のロマンシア=ケルベロッサ様?
ずいぶんと目立たれるのがお好きのようですわね。
皇太子妃候補としては
少し品位に欠けるのではなくて?
それにあの黒いドレス……まるで喪服のようだわ。
不吉ですこと」
華やかな夜会でアビゴール夫人は、取り巻きの貴婦人たちに囲まれて扇で口元を隠しながら、聞こえよがしに私を嘲笑した。
その瞳は氷のように冷たく、私を値踏みする不快な光を宿している。
(また面倒なのが出ていらっしゃったわ……
社交界のゴシップと陰謀は
姉様たちだけで十分だというのに)
私は内心のうんざりを押し隠しつつ彼女には気づかれないように、そっとその場を離れた。だがアビゴール夫人の私への敵意は、そんなことでどうこうなるものではなかった。
数日後、彼女は巧妙な噂話を社交界に流し始めた。
『ロマンシア様は
レオルガン殿下を黒魔術で誘惑し
意のままに操っているらしいわ』
『ケルベロス家の財産を不正な手段で蓄財し
影でこそこそと贅沢三昧の限りを尽くしているとか』
『侍従たちを人知れず虐待しているんですって。
あの優しい笑顔の裏には
恐ろしい本性が隠されているに違いないわ』
それらの噂はあまりにも悪質で、そしてゴシップとしての味付けはちょうどよい旨さだった。
特に私が「黒魔術」を使っているという噂は、エレオノーラ妃の死の謎と結びつけられ、人々の間に不気味な憶測を広げるのに十分だった。
アビゴール夫人はそれだけでは飽き足らず、私が主催する予定だった慈善活動の茶会や、皇室主催の小規模な夜会を様々な手段で妨害し始めた。
招待客に圧力をかけて参加させないようにしたり、会場の手配を直前でキャンセルさせたり、あるいは私の用意した菓子にこっそり下剤を盛ろうとしたり——これはリリアの機転で未然に防げたが、とにかく悪辣で品のない、陰湿で執拗な嫌がらせだった。
(この女……!
私を社交的に抹殺するつもりね。
しかもやり方があまりにも低俗で悪趣味……)
私の怒りは沸点に達しそうだった。だがアビゴール夫人の背後には多くの取り巻き貴族だけでなく、どうも『蛇』の組織の影もちらついている。
下手に手を出せば、逆に窮地に追い込まれる危険性も、「周囲の人間たちの「心の声」の情報から伺えていた。
(こんな低俗な『ひっかけ問題』にひっかかったら
笑うに笑えないわ……)
などと思いつつも私はしばらくの間、彼女の妨害を静観するしかなかった。ところがアビゴール夫人の行動はエスカレートし続け、ついにイヴァールたちにまで悪影響が及びそうになった。
子供たちが中庭で遊んでいた時のこと。アビゴール夫人の取り巻きの子供たちが、イヴァールやセラフィナ、カリクスに対して仲間外れにしたり、陰口を叩いたり、「お前たちの新しいお母さんは悪魔だ」などと心ない言葉を浴びせたりしたのだ。子供たちは深く傷つき、涙を浮かべていた。
その光景を目撃し、私もついに反撃を決意した。これまで抑えていた怒りが一気に爆発したのだ。
(許せない……! 私を貶めるのは構わない。
けれど
罪のない子供たちまで巻き込むなんて……!)
だがその時、私の【心の声を聞く者】が衝撃的な事実を捉えた。アビゴール夫人の心の奥底から、こんな声が聞こえてきたのだ。
『ふふふ、あの子たちを傷つければ
ロマンシアも少しは懲りるでしょう。
これは『あの方々』からの指示でもあるのよ。
ケルベロスの小娘を
精神的に追い詰めるためのね……』
(『あの方々』……ですって?
この女も何らかの組織——あるいは『蛇』の組織と
繋がっているということかしら?
単なる嫉妬深い貴婦人
ではなかったというわけね。
どうしてこんなに次から次に……)
私はアビゴール夫人に対する認識を新たにし、この問題も放置してはいけない、という強い使命感を抱いた。
彼女を単なる社交界の敵として見てはいけない。私たちの真の敵の一部だという可能性を踏まえて対処しなければ。
「レオルガン殿下。
アビゴール夫人の行動は目に余ります。
何とかしなければなりません」
その夜、私はレオルガンに事の次第を報告し、共にアビゴール夫人に対抗する策を練ることにした。
「もう我慢の限界ですわ。
あの女には
きっちりと思い知らせてやらなければなりません。
しかも……どうやら彼女の背後には
またあの『蛇』の影が見え隠れしているようです」
私の言葉にレオルガンもまた厳しい表情で頷いた。
アビゴール夫人は私たちの動きを察知したのか、あるいは単に調子に乗ったのか、さらなる大胆な計画を立ててきた。
あろうことか、私の侍女の一人を買収して偽の証拠をでっちあげようとしているというのだ。
私の私室から「黒魔術に使用した証拠品」(偽)や「不正蓄財の証拠となる帳簿」(偽)が出てきたということにし、レオルガンや他の有力貴族の前で公にして私を失脚させようという卑劣な企みだ。
彼女が買収のターゲットに選んだのは、ミーアやリリアではなく、最近私の侍女として配属された、エルミーラという若い娘だった。
エルミーラは真面目で気が弱く、病気の弟と借金に苦しむ父親がおり、家族に問題を抱えていた。
アビゴール夫人はエルミーラの家族の弱みを利用して脅迫し、この計画に加担させようとしているのだ。
「いいこと、エルミーラ?
あなたの可愛い弟の命が惜しければ
私の言う通りにするのよ。
ロマンシアの部屋から
あの『証拠』を持ち出すだけでいいの。
そうすればあなたの家族は
一生遊んで暮らせるように取り計らって差しあげる。
でも、もし逆らったり
このことを誰かに漏らしたりしたら……
どうなるか分かるわね?」
アビゴールの冷酷な脅迫の言葉と、エルミーラの絶望的な心の叫び——
『誰か助けて……!
私はどうすれば……!
弟を見殺しにはできない……
でも、ロマンシア様を裏切るなんて……!』
——という「心の声」が、私の能力を通じて痛いほど伝わってきた。
(なんて卑劣な……!
そして可哀想なエルミーラ……)
私は、アビゴール夫人への激しい怒りを感じると同時に、エルミーラの苦境に深い同情を覚えた。
彼女にこのまま加担させたうえで罰するのではなく、アビゴール夫人の魔の手から救い出し、同時に、アビゴール夫人の全ての悪事を白日の下に晒す。それがベストだ。そのための計画を私は静かに練り始めた。
手はずを整える時間を確保しつつアビゴール夫人を完全に終了させるには——スケジュール帳を見ながら、私は次に開かれる大規模な夜会が「決着の舞台」として最適だと考えた。
(踊りなさい、アビゴール夫人。
あなたのための最後の華やかな舞台は
このロマンシアが
心を込めて用意して差し上げますわ)
自分の瞳の奥に、社交界の毒婦を断罪するための冷たい炎が燃え盛っていくのを強く感じずにはいられなかった。




