第37話: エレオノーラ妃の日記と古き民の伝承
アルビレオン王国との外交問題が一段落し、帝都アヴァロンに束の間の平穏が訪れた。私とレオルガン、そしてアラン=セレスターは、改めてエレオノーラ妃が遺した日記の解読に本格的に取り組むことにした。
日記には彼女の死の真相と、『蛇』の組織の陰謀、そしてイヴァールの力の秘密を解き明かすための重要な手がかりが隠されている——そう予感したからだ。
イヴァールも母の遺品である日記に強い関心を示し、自分にも何か手伝えることはないかと、自ら解読作業に加わることを申し出てくれた。
彼の緑の瞳には、母への思慕の念と、真実を知りたいという切実な願いが宿っている。
「お義母様、父上、アランさん……。
僕も、母様が何を調べていたのか知りたいのです。
僕のこの……よく分からない力についても」
イヴァールの言葉は、以前からは想像もできないほどしっかりとしてきていた。あの高熱事件と、詩歌コンクールでの出来事を経て精神的に大きく成長し、自身の運命と向き合う覚悟を決めつつあるように見て取れた。
日記は、エレオノーラ妃の美しい筆跡で綴られていたが、焼け焦げたりインクが滲んで読めなくなったりしている箇所も多く、解読は困難を極めた。
だがアランの博識と、古代言語に関する深い知識、そして何よりもイヴァールの直感的なひらめきが解読の助けとなった。
筆跡の癖や、よく使っていた言葉遣いに対する記憶、そして時折、日記の特定の箇所に触れるとそこに込められた母の想いのようなものを微かに感じ取るという、イヴァールの身に起きる不思議な現象が、解読作業を少しずつだが着実に進展させていった。
「この文字……
母様が、僕に子守唄を歌ってくれた時に
こんな風に何かを書いていた気がします……。
もしかしたらこれは『星』や『月』を意味する
古い言葉なのかもしれません」
イヴァールが、焼け焦げたページの一節を指差して言った。
「なるほど!
イヴァール様の仰る通りに解釈すると
この難解な一節の意味が通じますね。
古き民に伝わる
星々の配置に関する記述と一致します」
アランは興奮した様子で声を上げた。
解読が進むにつれて、エレオノーラ妃が短い生涯の中で、いかに深く危険な謎を探求していたかが明らかになっていった。
彼女は「古き民」と呼ばれる、かつて帝国の領土内で暮らしていた少数民族の存在と彼らの特異な力——すなわち、魂を共鳴させ、自然と調和し、時に未来を予知することすらある能力——について、詳細に調査していた。
そして『蛇』の紋章の組織が、古き民の力を悪用して何か恐ろしい目的を達成しようとしていることに気づき、それを阻止しようとしていたらしい。
日記からは、古き民が帝国からの弾圧を逃れて人知れず隠れ住んでいるという「月の谷」の場所を示唆する、詩や謎掛けのような、暗号めいた記述も複数見つかった。
『七つの峰を越え、嘆きの川を渡りし時
月の女神の涙が谷を潤す。
そこは忘れられし民の聖域、
魂の響きが星々と交わる場所……』
(「古き民」……「月の谷」……。
そしてイヴァールの力。
これらが全て繋がっているというのね……)
「エレオノーラは……こんな危険な調査を
たった一人で進めていたというのか……。
なぜ私に何も話してくれなかったのだ……」
レオルガンは苦渋に満ちた表情で呟いた。彼の心の声は、妻を守れなかったことに深い後悔を湛えながらも、彼女の勇気と知性に対して改めて敬意を払おうとしているようだった。
アラン=セレスターは、エレオノーラの日記の記述を元に、皇立図書室の禁書庫を徹底的に調査しなおし、古き民に関する貴重な文献をついに発見するのだった。
それは——恐らく故意に別の資料と共に、書庫の奥底で箱詰めにされていた、分厚い歴史書、羊皮紙に書かれた民話集、そして失われた魔法に関する古文書の束だった。
それらの文献によると古き民は、ヴァリスガル帝国建国にも深く関わった、高度な精神文明を持つ民であった。
自然と調和し、精霊や星々の声を聞き、魂の力を操ることができたという、古き民。しかしその強大な精神の力を恐れた時の権力者たちによって異端とされ、歴史の闇に葬られたのだ。資料に断片的に記されていたことを繋ぎ合わせると、そういうことだと分かった。
(なんてことなの——確かにこんな力
悪用されたら歴史すら変わってしまうわ)
だが、彼らの力の多くは失われた。しかしその一部は特定の血筋——例えばイヴァール——に受け継がれているという。その稀有な力を『蛇』の組織は「器」にしようと狙っているのだろう。
「信じられません……。
古き民は、我々が学校で習う帝国史とは全く異なる
壮大な歴史を持っていたようです。
その力は……まさに神話の時代のものです。
これがもし真実なら
イヴァール様が狙われる理由もあまりに明確です」
アランは学者としての興奮と同時に、歴史の闇に葬られた人々への深い同情を滲ませて言った。
そしてエレオノーラの日記の最後のページ近く。彼女が「月の谷」の場所を特定し、そこへ向かおうとする直前に書かれたと思われる不吉な記述が見つかった。
『蛇の目が私を見ている。時間が無い。
イヴァール、セラフィナ、カリクス……
あなたたちだけは……どうか……』
そこで途切れていた。まるで彼女が最期の言葉を書き終える前に何者かに襲われたかのように。そのページには乾いた血痕のような赤黒いシミが微かに付着していた。
「……母様……!」
イヴァールはそのページを見て声を詰まらせた。レオルガンもまた、肩を震わせている。彼の「心の声」は抑えきれない怒りと悲しみ、そして『蛇』の組織への憎悪で満ち溢れている。
これはエレオノーラ妃が『蛇』の組織に殺害された直接的な証拠ではないかもしれない。だが彼女が組織に命を狙われていたことと、そして子供たちの未来を案じていたことを、何よりも雄弁に物語っていた。
「エレオノーラ様は命がけで
未来の誰かに何かを伝えようとしていたのね……。
この想い決して無駄にはしないわ」
私は固く誓った。
私たちはエレオノーラの日記とアランが発見した古文書の情報を組み合わせることで、「月の谷」のおおよその位置を特定することに成功した。
帝国の北東部、険しい山脈の奥深くにあると推測された。
私たちはイヴァールの力を正しく理解し、制御する方法を学ぶため、そしてアランの報告によれば「天穹の祭典」との関連もあるとされる、『蛇』の組織の計画を阻止する手がかりを得るため、「月の谷」へ旅立つことを決意した。
しかし、その旅は、多くの危険を伴うことが予想された。組織の追手が迫っている可能性も高い。そのため私たちは、慎重に旅の準備を進めなければならなかった。
「『月の谷』か……。
そこに行けばエレオノーラの死の真相と
イヴァールの力の秘密が分かるのかもしれない。
そして、『蛇』の野望を打ち砕くための鍵も
きっとそこにあるはずだ」
レオルガンの声には決意と僅かな希望の光が宿っていた。
「ええ。どんな困難が待ち受けていようとも
私たちは必ず辿り着きましょう。
エレオノーラ様の遺志を継ぎ
そしてイヴァールの未来を守るために」
私は彼の言葉に力強く頷いた。「月の谷」への旅は、私たちにとって過酷な戦いの始まりを意味している。だが私たちはもう引き返すことはできない。真実への道はもう目前に迫っているのだから。




