第35話: 外交の「切り札」と繋がるピース
アルビレオン王国との外交交渉は第二ラウンドに突入した。会場である皇宮の会議室には前にも増して張り詰めた空気が漂い、両国の代表団の表情は硬い。
ボージャン=アデルスタン卿は、先日うっかり私に機密情報の一部を漏らしたことなど微塵も感じさせず、むしろ自信を深めたかのような傲慢な態度で交渉に臨んできた。
彼の「心の声」は勝利への確信で満ちており私たちヴァリスガル側を見下している。
『ふん。あのケルベロスの女も
結局は私の掌の上で踊っているに過ぎん。
これで皇太子も
我々の要求を呑まざるを得なくなるだろう』
そして結論を急いだのか、交渉が始まるとすぐに決定的な「切り札」を切ってきた。
「レオルガン皇太子殿下、
そしてヴァリスガルの代表諸君。
我々アルビレオンは
貴国の誠意ある対応を期待しておりましたが
どうやらその期待は裏切られそうだ。
ならばこちらも最終手段を講じざるを得ない」
ボージャン卿はそう言うと、数枚の羊皮紙をテーブルの上に叩きつけた。
「これは、貴ヴァリスガル帝国内部の
由々しき状況を示す『証拠』だ。
先の『蛇』の組織による襲撃事件の詳細な報告
一部貴族による反乱の兆候
そして帝国の軍備に関する脆弱性……。
これらの情報が公になれば
ヴァリスガル帝国の権威は失墜し
国内は未曾有の大混乱に陥るでありましょう」
彼の突きつけた情報はまさにヴァリスガル帝国の喉元に突きつけられた刃だった。その内容もあまりにも正確で致命的。こんな情報がどうしてアルビレオン側に漏れたのか。
(間違いない……
『蛇』が裏で糸を引いているんだわ——)
アルビレオンによる外交を利用してヴァリスガル帝国を内部から崩壊させようと企んでいる。そう直感した。
ヴァリスガル側の交渉団は、ボージャン卿の提示した情報に顔面蒼白。言葉を失っている。情報の真偽を確認する時間もなく完全に窮地に立たされた。
「賢明なる皇太子殿下なら
我がアルビレオンの要求——
すなわち、先の通商条約における大幅な譲歩と
係争中の領土に関する権利の放棄。
この条件を呑むことの意味、お分かりのはずです。
さもなくばこの情報は
明日にも世界中に知れ渡ることになるでしょう」
ボージャン卿は冷酷な笑みを浮かべて、最後通牒を突きつけてきた。
レオルガンは怒りに顔を歪ませ、拳を固く握りしめている。「心の声」は屈辱と怒り、そして帝国を守らねばならないという悲痛な叫びに満ちている。
(まずい……このままでは、本当に……)
私も唇を噛み締める。その時だった。
【心の声を聞く者】が、ボージャン卿の心の、僅かな、ごく僅かな揺らぎを捉えた。
『ふふふ、これでヴァリスガルも終わりだ。
……しかしこの情報
本当に全てが真実なのだろうか?
『蛇』などという得体の知れない連中の話だが……。
まあ、構うまい。
重要なのは、相手がこれを真実だと信じ込み
我々の要求を呑むことだ。
それに私にはまだ
本当の『切り札』があるのだからな……』
(……何ですって?
この男、情報の全てを信じているわけではない……?
それをよくもぬけぬけと——
いやそれに
まだ隠された『切り札』がある……!?)
私は咄嗟にレオルガンに視線を送り、小声で囁いた。
「殿下、お気を確かに。
あの男の言葉には、嘘と虚勢が混じっていますわ。
彼自身も、情報の全てを
確信しているわけではないようです。
そして——まだ何かを隠している……。
今は時間稼ぎをして情報の裏を取りましょう」
私の言葉にレオルガンはハッとしたように顔を上げた。彼の瞳に、僅かな希望の光が灯る。一度は激昂しかけた感情を抑え、冷静さを取り戻したようだ。
「……アデルスタン卿。
貴殿の提示された情報は
確かに我が国にとって看過できぬものだ。
——仮に、それが事実であるのならば。
つまり、真偽を確かめる時間が必要だと考える。
即答はできかねる。数日の猶予をいただきたい」
レオルガンは重々しい口調で、毅然とそう告げた。ボージャン卿は、ヴァリスガル側が追い詰められたと見て、余裕の表情で頷いた。
「よろしいでしょう。
だが——猶予は三日。
それ以上は待てませんぞ」
交渉は一時中断された。私たちはまさに崖っぷちに立たされていた。だが諦めるわけにはいかない。
執務室に戻った私とレオルガンはすぐにアラン=セレスターとミーアを呼び、ボージャン卿が提示した情報の真偽を徹底的に調査するよう命じた。
アランは、過去のアルビレオンとの外交事例や、彼らの常套手段である情報操作のパターンを分析し始めた。
ミーアは情報網を駆使し、今回の情報がどこから漏れたのか、『蛇』の組織がどのように関与しているのか探り始めた。
時間は限られている。私たちは、まるで時限爆弾を抱えているかのような息詰まる緊張感の中で、真実を突き止めようと必死に奔走した。
アランの分析は、的確だった。
「アルビレオンの過去の交渉記録を調べましたが
彼らは常に相手の弱点を徹底的に突き
有利な状況を作り出すことを得意としています。
今回提示された情報も
例の襲撃など一部は真実かもしれませんが
誇張されていたり
意図的に歪められたりしている可能性が高いです。
特に『蛇』の組織が関与しているとなれば
情報操作の巧妙さは
我々の想像を超えるかもしれません」
ミーアもまた、重要な情報をもたらした。
「ボージャン卿に情報を流したのは
やはり帝都の裏社会に潜む『蛇』の残党
あるいは彼らに買収された帝国内部の者のようです。
そしてアルビレオン側にも
組織と繋がりのある人物がいる可能性があります。
恐らく組織は、両国を争わせることで
何らかの利益を得ようとしているのでしょう」
そして——決定的な証拠を掴んだのはリリアだった。
ボージャン卿の侍従の一人が酒場で酔っ払い、口を滑らせているのを聞きつけたのだ。
「……ボージャン様は本国に送る報告書で
今回の交渉でヴァリスガルから
過大な譲歩を引き出したと
手柄を水増しして報告するおつもりらしいです。
彼が持っているという『切り札』の情報も
実はまだ裏付けが取れていない
不確かなものだとか……」
(やはり……!)
全ての情報が繋がり、パズルのピースが嵌っていく。
ボージャン卿が提示した情報は、『蛇』の組織によって意図的に歪められた上で提供されたものである可能性が高い。
その上、彼もまたその情報を鵜呑みにするだけでなく自らの手柄のために虚偽の報告をしようとしている。
組織に踊らされている哀れなピエロであり、同時に、野心のために嘘で塗り固めようとしている下劣な男というわけだ。
(これで、反撃の材料は揃ったわ)
私とレオルガンは全ての証拠を手に、次の交渉の場でボージャン卿の不正と情報操作を暴露し、彼を失脚させるための計画を練り始めた。
アルビレオン王国の主席使節——ボージャン卿よりも老練で公正な判断力を持つと評判の人物——に事前に接触し、事の真相を伝えて協力を取り付けることも視野に入れた。
「ボージャン卿には
外交の厳しさと、嘘の代償を
きっちり教えてやらねばな」
レオルガンの声には、冷徹な怒りが込められていた。
「ええ。
それに『蛇』という共通の敵がいることを
アルビレオン王国にも理解していただく
良い機会かもしれませんわ。
この危機を
逆に両国の協力関係を築くきっかけに変えるのです」
外交の舞台では、まさにヴァリスガル側の反撃の狼煙が上がろうとしている。
私たちの未来は、情報戦の結末にかかっているのだ。




