第34話: 隣国からの使節と罠だらけの外交
『蛇』の組織との見えない戦いが日増しに緊迫の度を増していく中で、ヴァリスガル帝国には全く別の種類の嵐が近づきつつあった。
それは隣国アルビレオン王国からの、大規模な外交使節団の来訪という形となって具体的になった。
表向きは両国の友好親善と新たな通商条約締結のための訪問とされている。だがヴァリスガル帝国とアルビレオン王国は、長年にわたり領土問題や貿易摩擦を抱える、いわば宿敵同士の関係だ。
アルビレオン王国は、海洋国家として商業が非常に盛んである。商業立国だからか、教育が行き届いておりその国民性は抜け目がなく交渉上手として知られている。
今回の使節団の中にも、これを機にヴァリスガル帝国の内情を探り、自国に有利な条件を引き出そうと画策する者がいることは想像に難くない。
宮廷では華やかな歓迎の準備が進められる一方で、どこかピリピリとした緊張感が漂っていた。私にとっても、これは『蛇』の組織とは別の種類だが無視できない厄介事の始まりを意味していた。
◇
帝都アヴァロンの門を、アルビレオン使節団の豪華な馬車列が楽隊の奏でる歓迎の音楽と共に、堂々と入ってきた。
出迎えるヴァリスガル帝国の貴族たちは、一様に歓迎の笑みを浮かべているが、「心の声」は期待と警戒、そして僅かな敵愾心が入り混じる、複雑な響きを発している。
レオルガンの特別な計らいで今回は私も同席することとなった。それだけ彼が信頼を寄せてくれているということだろう。
「アルビレオン王国の使節団が到着いたしました。
レオルガン殿下、ロマンシア様
謁見の準備が整っております」
侍従長の言葉に私とレオルガンは頷き、謁見の間へと向かった。
使節団の代表として紹介されたのは、壮年のいかにも老獪そうな風貌の外交官だったが、私の注意を引いたのは、傍らに控える一人の若い外交官だった。
名をボージャン=アデルスタン卿という。年の頃は私よりも数歳上だろうか。プラチナブロンドの髪を完璧に整え、仕立てがよく、それでいて華美ではない制服を隙なく着こなしている。
その顔立ちは整っているがどこか冷たい印象を与え、薄い唇には常に自信ありげな笑みが浮かんでいる。何よりも、灰色の瞳の奥には野心と、他者を見下す傲慢な光が宿っていた。
(分かりやすいほどに——野心の塊だわ)
私の【心の声を聞く者】は、彼の内心の声をはっきりと捉えていた。
『ふん。これがヴァリスガル帝国の皇太子と
噂のケルベロスの悪女か。
思ったよりも、大したことはなさそうだな』
『この外交で手柄を立て
本国での私の地位を不動のものにしてやる。
ヴァリスガルなど
我がアルビレオンの敵ではないわ』
『あの女……ロマンシアとか言ったか。
噂ではかなりの悪女とのことだが
利用価値はあるかもしれん。
美貌だけは、まあまあ認めてやろう』
その尊大で野心的な態度に私は、強い不快感と警戒すべき相手だという認識を深めた。「心の声」から今後の厄介な交渉が目に浮かぶようだった。
「ヴァリスガル帝国の皇太子殿下ならびに
今回特別にご臨席いただいている
ロマンシア様におかれましては
ご健勝のこととお慶び申し上げます。
私はボージャン=アデルスタン。
この度の訪問が
両国の友好を一層深めるものとなりますよう
微力ながら尽力させていただく所存でございます」
ボージャン卿はレオルガンと私に対し、表向きは丁重な挨拶を述べたが、言葉の端々には隠しきれない自信とヴァリスガル帝国をやや見下している様子が私には聞こえた。
(『友好』ね……。
その言葉の裏で何を企んでいるのかしら……
ひとまずお手並み拝見といきましょうか)
私は内心を隠しながら優雅な淑女の微笑みを浮かべて会釈を返した。
◇
その夜、使節団を歓迎するための盛大な夜会が催された。きらびやかな衣装に身を包んだ両国の貴族たちが、華やかな音楽の中で談笑しグラスを交わしている。
だが笑顔の裏では互いの腹を探り合う、熾烈な外交戦が既に始まっていた。
公式な外交交渉は翌日から開始された。交渉の席で、ボージャン卿は若さに似合わぬ老獪な交渉術を発揮し、ヴァリスガル側に次々と不利な条件や、アルビレオン側に極めて有利な通商条項を提示してきた。
事前にヴァリスガル帝国の弱点——『蛇』の組織の襲撃による国内の混乱や、折からの天候不順による農畜産業の不振、宮廷内の権力闘争といった情報——を徹底的に調査しており、そこを巧みに突いてくる。
「我がアルビレオンは貴国に対し
これだけの譲歩案を提示しております。
これに応えていただけなければ
両国の友好関係の継続も難しいと
申し上げざるを得ません。
特に、先の国内の不祥事……
あれが公になれば
貴国の国際的信用は失墜するでしょう。
賢明なる皇太子殿下ならお分かりのはずです」
ボージャン卿は自信と冷徹さが入り混じる口調で、ヴァリスガル側に圧力をかけてくる。
彼の提示する情報は真実と曲解が巧みに織り交ぜられており、ヴァリスガルの代表たちは、事細かに訂正を申し入れる時間もなく、反論に窮して苦戦を強いられた。
レオルガンも、ボージャン卿の傲慢な態度と自国の弱みを握られているという事実に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。
その日の夜。交渉が難航する中、ボージャン卿が私的な場で不意に私に接触してきた。夜会の庭園の、人目につきにくい場所だった。
「ロマンシア様。
今宵も一段とお美しいですね。
あなたのような聡明で美しい方が
この国の未来を導かれるのでしょう。
ぜひ、我々アルビレオンとの
架け橋となっていただきたい」
歯の浮くような言葉で私を褒め称えながら、私に取り入ってレオルガンへの影響力を強めようと試みてきているということが、手に取るように分かる。
私がまだ若く、世間知らずで、甘言に乗りやすいとでも考えているようだ。私が功を焦り皇太子妃の座を確実なものにするために自分に協力するのではないかと、浅はかな期待を寄せている。
その証拠に「心の声」は下心を隠そうともしていない。
『この女を籠絡すれば交渉は一気に有利に進む。
皇太子も、この女の言うことなら聞くだろう。
女など、少し褒めれば簡単に靡くものだ』
(……本当に、救いようのないほど
愚かで、そして傲慢な男ね——)
私はこの男の言葉を微笑みで受け流しながら、逆にアルビレオン側の真の狙いや、彼らが隠し持つ「切り札」に関する情報を巧みに引き出そうと試みた。
というのも私の能力が自信過剰な性格と、自分の知略に酔っているという弱点を、明確に捉えていたからだ。
「まあ、アデルスタン卿ったらお上手ですこと。
でも、わたくしのような未熟者に
そのような大役が務まりますかしら?
アルビレオンが本当に望んでいらっしゃるのは
一体何なのでしょう?
それを教えていただければ
わたくしも殿下にお話ししやすいのですが……」
私は彼の自尊心をくすぐり、そして彼が何か重要な情報を握っているかのように持ち上げることで、彼がペラペラと口を滑らせるように誘導した。
案の定ボージャン卿は、私の思わせぶりな態度と、手柄を誇示したいという欲求から、アルビレオン側が狙っている特定の利権や、ヴァリスガル帝国のさらなる弱みを握っているという情報を、得意げに私に漏らしてしまったのだ。
「ふふふ。
ロマンシア様はやはり聡明な方だ。
実は、我が国は……」
私はこの重要な情報をすぐにレオルガンとアランに共有した。
「ボージャン卿の野心と
アルビレオン側の強硬な姿勢の裏には
やはり何かありそうです。
彼らが握っているという『弱み』……
それが『蛇』の組織と
繋がっている可能性も考えられるわ」
「アルビレオンが
そこまで踏み込んだ情報を掴んでいるとは……。
もしそれが真実なら
我々はさらに不利な立場に追い込まれることになる」
レオルガンは、厳しい表情で腕を組んだ。
アランもまた、深刻な顔で口を開いた。
「ボージャン卿の自信過剰な態度の裏には
我々がまだ掴んでいない何かが
あるのかもしれません。あるいは……
何者かが彼に偽の情報を吹き込み
両国を争わせようとしている可能性も……。
もし『蛇』の組織が関与しているとすれば
奴らの目的は
ヴァリスガル帝国とアルビレオン王国の共倒れ
あるいは両国の弱体化なのかもしれません」
アランの言葉は私たちに新たで恐ろしい可能性を示唆していた。外交問題の背後に『蛇』の組織の壮大な陰謀が隠されているのだとしたら……。
「どちらにせよ、あの男の思い通りにはさせないわ。
次の交渉でどう出るか——」
「ああ。存分に『おもてなし』して差し上げよう。
ヴァリスガル帝国の底力を
見せてやる必要があるようだ」
私とレオルガンは顔を見合わせ、不敵な笑みを浮かべた。外交の舞台は情報戦の舞台でもある。私には、いや、私たちには敵の心の声を聞き、その裏をかくという最強の武器がある。
ボージャン卿の鼻を明かすための反撃の準備が、静かに始まろうとしていた。




