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第32話: 情報屋ラットとの接触と、罠の掛け合い・化かし合い

 『蛇』の紋章の組織の刺客襲撃事件は、ヴァリスガル皇宮に大きな衝撃を与えたが、事件から得られた僅かな手がかり、すなわち情報屋・ラット=ドゥネイブの存在は、見えざる敵の尻尾を掴むための細くはあるが確かな筋道に見えた。


 私とミーアはレオルガンの許可と協力を得て、数日後、身分を隠して帝都の下層地区にあるというラットの隠れ家を訪れることにした。


 騎士隊長のライルも私たちの身を案じ、目立たないように遠巻きに護衛として同行してくれることになった。


 帝都アヴァロンは、壮麗な貴族街や活気ある商業地区だけでなくその裏側には、貧困と犯罪が渦巻く日の当たらない下層地区も抱えている。


 私たちが足を踏み入れたのは、まさにそんな場所だった。



 狭く汚れた路地、崩れかけた家々、そして虚ろな目をした人々。豪華な宮殿での生活とはあまりにもかけ離れた光景に、改めてこの世界の歪みを痛感させられた。

 

 ラットの隠れ家は、そんな下層地区の一角にある、薄暗く猥雑な酒場の中にあった。酒と汗と、そして何か腐ったような匂いが充満する店内。


 昼間だというのに、いかがわしい雰囲気の男たちが、濁った酒を呷りながら、低い声で何かを話し込んでいる。


「……情報屋ラットに会いに来た。

 取り次いでもらおうか」


 ミーアが、酒場の主人らしき顔に大きな傷跡のある大男に、低い声でそう告げた。


 彼女は普段の侍女の姿とは全く違う、黒い革製の装束に身を包み、その瞳には鋭い警戒の色を宿している。私もまた地味な旅芸人のような麻の服に着替え、フードで顔を隠した。


 大男は、私たちを値踏みするように足元から顔まで舐めるように見回すと、ニヤリと汚い歯を見せて笑った。


「へっ、ラットの旦那にかい?

 あんたらみたいな

 お綺麗な格好のお嬢さんたちが

 一体どんな用だっていうんだ?」


 この男の「心の声」は下卑た好奇心と、金蔓の匂いを嗅ぎつけたハイエナのような貪欲さで満ちている。


 ミーアが、男の前に数枚の金貨を置くと態度が分かりやすく一変した。本当にどこまでも品がない。ただ、こうさせているのは何なのか、私は考えずにはいられなかった。


「……奥の部屋だ。

 だが、旦那は気難しいぜ。

 機嫌を損ねねえようにな」


 私たちは酒場の奥にある、薄汚れた扉の前に案内された。扉の向こうからは何かの薬品のようなツンとした匂いが微かに漂ってくる。


 ミーアが扉をノックすると、甲高くねっとりとした声が中から聞こえてきた。


「……どなたかね?

 ネズミの巣穴に、何の御用で?」


 扉が警戒心そのもののようにゆっくりと開き、中から現れたのは、小柄で猫背、そして狐のようにずる賢そうな目つきをした男だった。


 年の頃は四十代半ばだろうか。薄汚れた服を着て、指には不釣り合いなほど派手な指輪をいくつもはめている。彼が、情報屋ラット=ドゥネーブに違いなかった。


「へへへ、こりゃまた珍しいお客さんだ。

 一体どんな『秘密』をお求めで?

 こちらのネズミはどんな情報でも嗅ぎつけますぜ。

 ただし、相応の『チーズ』を

 ご用意いただければの話ですがね

 ゲヘ、ゲヘッ、ゲヘヘヘヘッ……」


 ラットは、私たちを(ねぶ)りつくすように目を這わせながら不敵な笑みを浮かべた。この男の「心の声」は、私たちの身なりから金持ちだと判断し、どれだけふっかけられるか計算している、浅ましい人間のそれだった。


「『蛇』の紋章がある組織について

 知っていることを全て教えてほしいの。

 『チーズ』に糸目はつけないわ。

 高級チーズでも、カビたチーズでも、何でもよ」


 私はフードの下から、できるだけ冷静な声で告げた。


 私の言葉を聞いた瞬間、ラットの表情が僅かに変わった。ずる賢そうな目に一瞬だけ、警戒と、何かを企むような光が宿ったのを、私は能力は聞き逃さなかった。


『こいつら……ただの金持ちじゃねえな』


「『蛇』の紋章ねぇ……。

 そいつはちと、厄介な相手だ。

 あいつらに関わると、ロクなことにならねえ。


 ……だが。


 あんたらが本気で情報を欲しがってるってんなら

 少しは協力してやらんでもないがね。


 ただし情報はタダじゃねえ。

 まずは、誠意(チーズ)を見せてもらわねえとなあ?」


 ラットは指を擦り合わせながら、あからさまに金銭を要求してきた。私はミーアに合図し、用意していた金貨の袋を彼の前に置いた。


「これで『誠意』としては十分かしら?」


 ゴトン……金貨の重みにラットの目がキラリと輝く。素早く金貨の袋を懐にしまうと思わせぶりな態度で、組織に関する断片的な情報を小出しに話し始めた。


 組織の末端の構成員が潜伏していそうな場所、連絡を取り合う際の符丁、最近、組織が何か大きな計画を進めているらしいという噂——。


 だがその情報はどれも核心には触れない。曖昧なものばかり。


 しかし、私の【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】は、この下品な男の心の奥底にある『黒い企み』を捉えていた。


『こいつら本気で『蛇』に喧嘩を売るのか。

 グヘヘヘヘ……馬鹿な奴らだ、消されちまうぞ。

 だが——これは俺にとってはビジネスチャンスだ。

 もうちょっと生きててもらわねえとな』


『なんつったって『蛇』の連中にも

 こいつらの情報を売れば儲けは倍だ。

 あいつらに恩を売っておけば

 後々役に立つかもしれん』


『酒場にはいつも通り、仲間も連中もいる

 今、こいつらを『蛇』に引き渡せば

 もっと大きな報酬が得られるかもしれんな……。

 そのためにはもう少し情報を引き出させて

 油断させねえと……』


 馬鹿な男だが、ここまで単純な思考を暴露しているのだから、ある意味かわいらしくすらある。


(……やはりこの男

 わたしたちを組織に売るつもりね。

 まあ、そんなこと当然想定済みよ)


 ラットの強欲さと裏切りを察知し、多少の怒りと軽蔑を覚えたが、顔には出さずに冷静に状況を分析した。


 この浅はかな計算高さは、逆に利用できるかもしれない。表面上はこの男の要求に応じるふりをし、さらに情報を引き出そうと試みる。


 私は「心の声」に耳を傾け、この男の、金に汚く自分を利口だと思い込んでいる性格を利用し、何から何まで聞き出してやろうじゃないか。


「まあ……あなたほどの手練れなら

 『蛇』の組織の重要情報の一つや二つ

 握っていてもおかしくないわよね?


 もし教えてくれたら報酬は今の倍よ。

 それにあなたの安全も

 わたくしたちが保証して差し上げてよ」


 私の甘い誘いと報酬の提示にラットの目は完全に眩んだようだった。私が完全に自分の罠にかかったと思い込み、油断している。


「実はな、お嬢さんたち。

 奴ら、近々またデカいヤマを狙ってるらしいぜ。

 合言葉は『星影の夜』だ。

 これを言えば、仲間だと思ってくれるはずさ。


 それから東地区の古い倉庫街にも

 奴らの隠れ家があるって話だ。


 ただしかなり危険な場所らしいがね。

 へへっ、これでどうだ?

 約束は守ってくれよ、ほら、早く」


(ありがとう、愚かなネズミさん。

 嘘をついている様子もないし

 最高の情報をくれたわ……

 ここに仕掛けられた罠のことまでご丁寧に)


 私は必要な情報を得たと判断し、ミーアと合図を交わした。


 後は、ラットが仕掛けたであろう罠、すなわち酒場の奥に潜む彼の仲間や、待ち伏せている『蛇』の刺客が勘づく前に、隠れ家を脱出するだけだ。


 ミーアが、目にも止まらぬ速さでラットの背後に回り込み、彼の首筋にトン、と手刀を打ち込む。「あぁ」と短い呻き声を上げてラットはその場に崩れ落ちた。


 もちろん気絶させただけで、命までは取らない。


 この男には私たちへ罠を仕掛けたことに対する、相応の報いを受けてもらう必要があるからだ。


 こうして私たちは裏口から隠れ家を脱出した。喧嘩や客引き、男女の諍い。そんな酒場の喧騒に紛れながら下層地区の雑踏の中へと姿を消していく。


 ラットはしばらくは気絶したままだろう。そして目を覚ました時、彼を待っているのは、私たちからの報酬ではなく『蛇』の組織からの、裏切り者への冷たい制裁であるはずだ。



 脱出後、私たちはすぐにレオルガンに連絡を取り、ラットから得た、組織の暗号、アジトの場所、次の計画の断片、仕掛けようとしていた罠の詳細の情報を報告した。


 レオルガンは私とミーアの機転と勇気を称賛してくれた。同時に、直ちに騎士団を動かし、組織の拠点への急襲準備を命じた。


「ロマンシア、よくやった。

 ミーアにもよろしく伝えておいてくれ。

 ——ネズミはまんまと

 君の罠にかかってくれたようだな。

 あとは蛇の巣を叩くだけだ」


 レオルガンの声には、確かな手応えと戦いへの決意が込められていた。


「ありがとうございます。

 ……ミーアのお蔭ですわ」


 私はまだ楽観していなかった。ラットはまだまだ小物。『蛇』の組織の本体は依然として深い闇の中に潜んでいる。本当の狙いも、計画の全貌も、まだ何も明らかになっていない。


 だが私たちは一歩、確実に前進した。見えざる敵の尻尾を確かに掴んだのだ。必ずやこの糸を辿り真実にたどり着こうではないか。

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