第31話: 組織から送り込まれた刺客の襲撃と、侍女・ミーアの規格外の戦闘能力
ヒルデガルドの一件が落着してイヴァールの力の制御訓練も順調に進み始めたことで、私たちの周囲には束の間の平穏が訪れていた。
だがそれは嵐の前の静けさに過ぎないことを、私は知っていた。『蛇』の紋章の組織が、このまま黙って見過ごしているはずがないのだから。
——この予感は、最悪の形で現実のものとなった。
◇
月の美しい、静かな夜。私は自室でエレオノーラ妃の日記の解読作業に没頭していた。イヴァールもまた、自分の力のルーツを知りたいという思いから、その作業に積極的に参加するようになっていた。
「お義母様、この記号……
母様がよく使っていた、何かの印に似ています」
「本当?
それは大きな手がかりになるかもしれないわね
イヴァール」
そんな穏やかな会話を交わしていた、まさにその時だった。
『殺せ……!』
私の【心の声を聞く者】が、複数の極めて冷徹な殺意の波動を捉える。
以前の脅迫状や蛇の牙の痕跡から漂う波動とは比較にならないほど、直接的で訓練されたプロフェッショナルの殺意だった。
(……来る!)
私は咄嗟にイヴァールを庇うように立ち上がり、叫んだ。
「ミーア! ライル! 敵襲よ! 構えて!」
ほぼ同時に、部屋の窓ガラスが音もなく破られ、黒装束に身を包んだ複数の影が猫のように静かに、素早く室内に侵入してきた。
その数は四人……いや、五人。その手には、鈍い光を放つ短剣や、特殊な形状の暗器が握られているようだ。
「ロマンシア様! イヴァール様! こちらへ!」
隣室で待機していたミーアが私の叫び声に即座に反応して部屋に飛び込んできた。彼女の手には、いつの間にか、普段は隠し持っている特殊な形状の短剣が握られている。
廊下からは、ライル率いる近衛兵たちの怒号と剣戟の音が聞こえてくる。どうやら、敵は宮殿の警備体制を突破し、複数の箇所から同時に襲撃を仕掛けてきたらしい。
「くそっ、この屋敷、思ったより警備が固い!」
「構うな!
目標はケルベロス家のロマンシアと
あの小僧だ!
速やかに無力化しろ!」
刺客の一人が、私とイヴァールに向かって短剣を振りかざして襲い掛かってくる。その動きは、恐ろしく速く、そして正確だった。
「させません!」
ミーアが私の前に立ちはだかり、刺客の短剣を自身の短剣で受け止める。
カキィィイン!
火花が散る。甲高い金属音が部屋に響き渡る。ミーアの戦闘能力は私が知る限り、並の騎士を遥かに凌駕している。だが相手もまた、相当な手練れであることは明らかだった。
「ライル! 状況は?」
「ロマンシア様! ご無事ですか!
敵はかなりの数です!
お部屋から出ないでください!」
廊下で戦うライルの声が、緊迫した状況を伝えてくる。近衛兵たちは奮戦しているようだが、敵の攻撃は予想以上に激しく、数で勝るはずの近衛兵たちも苦戦を強いられているようだった。
「ぐあああああッ!!」
負傷者の呻き声も聞こえてくる。
「お義母様……!」
「イヴァール、大丈夫よ」
私とイヴァールがいるこの部屋にも次々と新たな刺客が侵入してくる。ミーアは一人で三人の刺客を相手に、一歩も引かない互角の戦いを繰り広げている。その動きは、もはや人間のものとは思えないほど俊敏で、的確だった。
だが彼女の額にも汗が滲み、呼吸も少しずつ荒くなっているのが見て取れた。
(ミーア……!
あなた、一体どれほどの力を隠しているの……!?)
そしてその時だった。ミーアが三人の刺客と戦っている隙を突いて、別の刺客が、音もなく私の背後に回り込み、イヴァールに襲い掛かろうとしたのだ!
「イヴァール!」
私が叫ぶのと刺客がイヴァールに短剣を突き立てようとするのは、ほぼ同時だった。
だが、その瞬間。
普段は冷静沈着で感情を表に出すことの少ないイヴァールが、恐怖に顔を歪ませながらも咄嗟に私を庇うように前に飛び出し、両手を広げた。
「や、やめろーっ!!」
彼の叫び声と共に、イヴァールの体から金色のオーラが迸った。それは以前高熱で倒れた時に見せた、あの「古き民の力」の片鱗のようだった。
金色の波動が物理的な衝撃波となって刺客を襲い、短剣を弾き飛ばし、ドン! と刺客自身をも数メートル後方へと吹き飛ばした。壁に叩きつけられ、呻き声を上げて動かなくなる人影。
「……なっ!?」
ミーアと戦っていた他の刺客たちも、その予期せぬ出来事に一瞬動きを止めた。
(イヴァール……! あなたの力……!)
私は、驚きと安堵、そしてまさか私を守ろうとしてくれたイヴァールの勇気に胸を打たれた。
だがイヴァール自身も、自分の内に秘めた力の大きさに戸惑い、恐怖しているようだった。彼の体は小刻みに震え、顔面は蒼白になっている。
その隙を、敵が見逃すはずがなかった。
「小僧……! やはり、お前が『器』か!
大人しくこちらへ来てもらおう!」
刺客のリーダー格と思われる男が、イヴァールに向かって手を伸ばし、何か特殊な呪文のようなものを唱え始めた。
するとイヴァールの体が、まるで見えない糸に引かれるように、男の方へと引き寄せられ始めた。
「いやだ! 離せ! 離して!」
イヴァールは必死に抵抗するが、その力はあまりにも強大で、彼の小さな体はなすすべもなく引きずられていく。
「イヴァールを……行かせないわ!」
私は恐怖を振り払い、イヴァールと刺客のリーダーの間に割って入ろうとした。だが別の刺客が私の動きを阻む。
その時——!
「お嬢様の御身をお守りするのが、
わたくしの務めですので」
静かだが、鋼鉄の意志を込めた声が響いた。それはミーアの声だった。
次の瞬間、ミーアの動きがそれまでとは比較にならないほど速く、さらに鋭くなった。
彼女はまるで踊るように、あるいは風のように三人の刺客の間を駆け抜け、彼らの急所を的確かつ迅速に短剣で突いていく。
刺客たちは、何が起こったのか理解できないまま、次々とその場に崩れ落ちていく。彼らの目には、信じられないものを見たという驚愕の色が浮かんでいた。
ミーアは、息一つ乱さず、イヴァールを引き寄せようとしていた刺客のリーダーの前に立ちはだかった。彼女の瞳には、冷たく悲しげな光が宿っている。
「あなたたちの目的は、イヴァール様ですね。
ですが、あの方に
指一本触れさせるわけにはまいりません」
「……何者だ、貴様は……。
ただの侍女ではないな……」
刺客のリーダーは警戒心を露わにしてミーアを睨みつけた。
「今はただ、ロマンシア様にお仕えする
一介の侍女に過ぎませんわ」
ミーアは静かにそう答えると再び短剣を構えた。その姿はまるで歴戦の勇士のようだった。
その時、廊下からライルの怒号と共に、近衛兵たちがなだれ込んできた。
「ロマンシア様! イヴァール様! ご無事ですか!」
「残りの賊は制圧しました! こいつらも捕らえろ!」
形勢は完全に逆転した。刺客のリーダーは、捕縛される直前に毒を飲んで自害しようとしたが、ミーアがそれを素早く阻止し、生け捕りにすることに成功した。
部屋には倒れた刺客たちと、息を切らした近衛兵、そして呆然と立ち尽くす私とイヴァール、そして静かに佇むミーアだけが残された。
私はミーアの正体と、彼女がなぜこれほどの戦闘能力を持ちながらも私に仕えているのかという謎の深さを、改めて認識した。
彼女は多くを語ろうとはしなかったが、その瞳の奥には何か重い宿命を背負っているかのような、深い影が見え隠れしていた。
目も耳も覆わんばかりの拷問の末、生け捕りにした刺客のリーダーからは僅かな情報が引き出された。
それは帝都の裏社会で暗躍する情報屋、ラット=ドゥネイブの名だった。ラットが、刺客たちに私の情報やイヴァールの情報をも流したようだった。
金のためならどんな情報でも扱い、時には二重スパイのような危険な橋も渡る男として知られているらしい。
そんな奴が存在するというのなら——逆に利用してやろうと私は覚悟を決めた。
このラットという男に接触し『蛇』の紋章の組織に関するさらなる情報を得る、ということだ。ミーアの謎は一旦胸にしまい、目の前の脅威に対処することを優先しなければならない。
(情報屋ラット……。
不謹慎だけど面白いことになってきたじゃない。
蛇の尻尾を掴むには、
まずその道案内をしてくれるネズミを
見つけ出さないといけないものね)
新たな敵の出現とミーアの覚醒。そしてイヴァールの力の片鱗。
『蛇』の紋章の組織との戦いは新たな局面を迎えようとしていた。私の心は、恐怖と怒り、そしてそれを上回る不屈の闘志で燃え上がっていた。
(どうせ二度目の人生だもの——
思う存分、やらせてもらうわ……)