第30話: 古い教育論の終焉と新しい絆
老女教師ヒルデガルド=フォン=ミュラーに対して抱いていた懸念は、ついに具体的な形で表れた。
彼女はレオルガンに対し、私が子供たちに「悪影響」を及ぼしているとして、正式な進言を行ったのだ。
彼女が用意したという分厚い資料には、私の「型破りな」教育方針がいかに皇家の伝統を軽んじるものであるか、あるいはイヴァールの力の制御訓練が奇行でありいかに危険であるかが、詳細かつ一方的な視点で書き連ねられているのだろう。
◇
そんな私の推測を知ってか知らずか——レオルガンの執務室でヒルデガルドは、その老婆とは思えぬ張りのある声で熱弁を振るっていた。
「殿下。
ロマンシア様の教育方針は
あまりに自由奔放に過ぎます!
このままでは、皇子様方の将来——
ひいては帝国の未来に関わります。
特にイヴァール殿下は
最近奇妙な行動が目立ち
精神的にも不安定なご様子。
これはあの方の不適切な行動の影響によるもの
としか考えられません!」
彼女の「心の声」は、歪んだ正義感と私への強い不信感で満ち溢れていた。
『あの女狐からお子様たちを救わねば!』
レオルガンは、ヒルデガルドの言葉を冷静かつ厳しい表情で聞いていた。彼の「心の声」は、彼女の忠誠心を認めつつも、その旧態依然とした考えに対して、苛立ちを募らせていた。
しかも、私への信頼が揺らいでいないことも同時に示していた。
「ヒルデガルド。
君の長年にわたる皇室への忠誠心は理解する。
だが子供たちの声も聞かずに
判断を下すわけにはいくまい。
ロマンシアと、
そして子供たち自身にも話を聞く必要がある」
レオルガンの決定により、ヒルデガルド、私、そしてイヴァール、セラフィナ、カリクスの三人の子供たちが同席する、異例の話し合いの場が設けられることになった。
◇
応接室の空気は重く張り詰めていた。ヒルデガルドは子供たちの前でも臆することなく、子供たちにも分かるようにしたうえで、私の教育方針の「問題点」を厳しい口調で改めて説き始めた。
伝統的な皇室教育の重要性。規律と服従の必要性。それに対して私のやり方がいかにそれらを無視しているか。
彼女は子供たちが自分の意見に同調し、私を非難することを期待しているようだった。
「あなた方もお分かりでしょう?
ロマンシア様のなさっていることは
皇家の伝統を軽んじるものです。
真の皇族となるためには
もっと厳格な躾と教育が必要なのです。
甘やかされて育っては
いずれ国を傾けることになりますよ」
子供たちはヒルデガルドの厳しい言葉と威圧的な態度に、最初は怯えたように俯いていた。
特にセラフィナは、今にも泣き出しそうな顔をしている。イヴァールもまた、唇を固く結び、何かを堪えているようだ。
私は子供たちを信じて、静かにそのやり取りを見守っていた。そして彼らが自分の言葉で真実を語ってくれることを待った。
ヒルデガルドの予想に反し、最初に口を開いたのは、意外にもセラフィナだった。彼女は涙ぐみながらも、震える声ではっきりと言った。
「……で、でも、お義母様は……
私たちにとても優しくしてくださいます……。
お話も、たくさんしてくださいますし……
お菓子も、作ってくださいます……。
それにお兄様のことだって、一生懸命……!」
セラフィナの言葉にヒルデガルドは一瞬、虚を突かれたような顔をした。
次にイヴァールがゆっくりと顔を上げた。その緑の瞳には、以前のような怯えはなく、確かな意志の光が宿っていた。
「ヒルデガルド先生……。
僕は……確かに時々
自分でもよく分からない力が出ることがあります。
それは怖いことかもしれません。
でも……ロマンシア様は、その力を
無理に抑えつけようとはしませんでした。
むしろどうすればそれを良いことに使えるか、
一緒に考えてくれました。
父上も、ミーアさんも……
みんな、僕を助けようとしてくれています。
僕は……もう、自分の力を怖いものだとは
思いたくないんです。
いつかこの力で、大切な人たちを……
この国を守れるようになりたいんです……!」
イヴァールの拙いながらも懸命な言葉は、その場にいた全ての者の心を打った。彼の純粋な想いと周囲への信頼、そして未来への希望。
それはヒルデガルドの古い価値観では到底理解できない、新しい時代の輝きを放っていた。
そして最後にカリクスが、ぶっきらぼうな口調だが、瞳に兄への誇りと私への僅かな信頼を滲ませて言った。
「……別に、今のほうがマシだ。
前のジジイの先生より、ロマンシアのほうが
面白いこと教えてくれるし。
兄貴も、前よりずっと元気になったと思うぜ」
子供たちの予想外の成長と、私との間に生まれた確かな絆の深さ、そしてイヴァールの前向きな言葉。それらを目の当たりにしたヒルデガルドは、完全に言葉を失い、自身の価値観がガラガラと崩れ落ちていくのを感じているようだった。
彼女の「心の声」は、驚愕と混乱、そして僅かな敗北感に染まっていた。
『まさか……子供たちが
あのようなことを言うとは……。
私の教育は……間違っていたというのか……?』
レオルガンは、子供たちの言葉に深く頷き、そして、ヒルデガルドに向かって静かに、威厳をもって告げた。
「ヒルデガルド。
君の長年の皇室への貢献には感謝する。
だが、子供たちの意志と成長を尊重するのが
親としての私の務めだ。
教育方針についてはロマンシアと私で責任を持つ。
君の進言は、受け入れられない」
レオルガンの言葉は、ヒルデガルドにとって決定的な敗北を意味した。自身の教育者としての限界と時代の変化を悟り、そして子供たちと私の間に生まれた真の絆を目の当たりにし、静かに頭を下げた。
「……恐れ入ります、殿下。
私の役目は……終わったようでございます。
本日をもって、お暇を頂きたく存じます」
彼女の声には、寂しさと同時にある種の清々しさのようなものも感じられた。
ヒルデガルドの辞任後、私たち家族の間には、より一層強い絆が生まれた。イヴァールの力の制御訓練も、彼の前向きな意志によって順調に進み始め、彼は少しずつ、自分の力をコントロールする術を身につけつつあった。
宮廷内の小さな敵は、これで一掃されたと言っていいだろう。私は宮廷改革の足がかりを築き、子供たちとの絆を深めることができた。
だがイヴァールの力も徐々に顕著になりつつあり、例の組織がその力を狙っている可能性も否定できない。
執務室の窓から、私は闇に包まれた帝都を見下ろした。その闇の奥深くには、まだ見ぬ強大な敵が潜んでいるのだ。
(わたくしたちの平穏を脅かす『蛇』……。
必ずその正体を暴き、断ち切ってみせる。
エレオノーラ様の無念を晴らし
そしてこの子たちの未来のために——)
私の心は、恐怖と、それを上回る使命感、そして困難な道を進む覚悟で満たされていた。




