第03話: 獅子の檻と三つの視線 ——継子たちとの初対面
ヴァリスガル帝国、帝都アヴァロン。ケルベロス公爵領を出発してから数日後、私は壮麗な帝都の門をくぐり、皇太子レオルガン=ヴァリスガルの居城、通称「獅子の檻」と呼ばれる区域へと足を踏み入れた。
鉄灰色の重厚な石造りの宮殿は、ケルベロス公爵邸の華やかさとは対照的に、質実剛健、あるいは冷厳という言葉が似合う佇まいだ。
城壁には歴戦の傷跡が残り、衛兵たちの鎧は鈍い光を放っている。まさに、北方の強国ヴァリスガルの心臓部。
(ここが私の新たな戦場……
そして生きる場所になるのか……)
レオルガン皇太子との初対面は波乱含みではあったが、少なくとも前世とは違う結果になった。
彼は私の挑発的な言葉に「面白い」と反応し、その後の道中、必要最低限の会話しか交わさなかったものの、以前のような完全な無関心や侮蔑の響きを【心の声を聞く者】が受信することはなかった。
代わりにあったのは依然として強い警戒心と、探るような視線。
そして『この女は何者だ? 真の目的は?』という純粋な疑問のノイズ。それで十分だ。まずは、彼に私を「未知数」として認識させることが第一歩だったのだから。
◇
宮殿の奥深く、私に与えられた居住区画は、広々として調度品も整ってはいるが、どこか寒々しい印象を受けた。
ケルベロス家から連れてきた侍女はごく少数。ヴァリスガルの侍従たちは、礼儀正しいが明らかに壁を作っており、私の能力は——
『ケルベロスの悪女』
『厄介者』
『皇太子殿下は何をお考えなのだ……』
——といった拒絶と警戒、そして戸惑いの声を絶えず拾い続けた。
(とはいえ前途多難、ね——)
溜息をつきたい気持ちを抑え背筋を伸ばす。まずは、この宮殿での最重要課題——三人の継子たちとの対面に臨まなければならない。
レオルガンが前妻との間にもうけた子供たち。前世の私は彼らを完全に無視し、時には邪険に扱い、彼らの心をさらに深く傷つけた。
その結果、彼らは私の破滅を望むようになり、断罪イベントでは私を告発する証言者となったのだ。
今回は、絶対に同じ轍を踏まない。彼らとの関係改善は、私の生存戦略の要の一つだ。
案内されたのは、宮殿内にある子供たちのための私室区画の一室。陽光が差し込む明るい部屋だが、どこか緊張した空気が漂っている。
部屋の中央には小さなテーブルが置かれ、お茶の準備がされていた。そしてそのテーブルを囲むように、三人の子供たちが座っていた。
私が入室すると、三対の瞳が一斉に私に向けられた。好奇心、怯え、そして敵意。様々な感情が入り混じった視線が、突き刺さる。
一番年上に見える少年は、線の細い、母親似であろう繊細な顔立ちをしていた。黒髪に、父レオルガンとは違う深い森のような緑の瞳。年の割に大人びた、影のある表情をしている。
彼が長男のイヴァール=ヴァリスガル、12歳。私の姿を認めると、その緑の瞳に、露骨なまでの敵意と軽蔑の色が宿った。【心の声を聞く者】が、彼の内心の激しいノイズを捉える。
『父上の新しい玩具か……!』
『ケルベロスの悪女め……
母様の代わりになどさせるものか!』
『この女も、母様と同じように……
いや違う、警戒しなければ……
父上も僕たちも、守らなければ!』)
私の能力は、彼の冷たい拒絶と母親を失ったことへの深い悲しみ、そして何かを守ろうとする強い意志、さらには父親への複雑な感情の響きを捉えている。やはり一筋縄ではいかない相手だ。
その隣に座る少女は、まだ10歳くらいだろうか。金色の巻き毛に大きな青い瞳。愛らしい容姿だが、怯えた小動物のように体を縮こまらせ、私の顔をまともに見ようとしない。
長女のセラフィナ=ヴァリスガル。彼女の心の声はストレートに伝わってきた。
『こわい……あの人、怒ってるみたい……
目がきらきらしてて、怖い……』
『お兄様の後ろに隠れたい……』
『嘘の匂いがする……悲しい音もする……
どうして……?』
私の能力は、セラフィナの純粋な恐怖と不安、そして嘘や悪意に対する異常なまでの敏感さを聞き取ったようだ。
もしかすると私の内面の揺らぎ——悪役令嬢の仮面の下にある苦悩や決意——をも、彼女は微かに感じ取っているのかもしれない。
これは私の能力にとって、もしかして予期せぬ障害か、あるいは……?
そして一番年下の少年。8歳くらいか。父レオルガンによく似た、勝ち気そうな顔立ちをしている。次男のカリクス=ヴァリスガル。
彼は私を値踏みするように睨みつけ、わざとらしく足を組んで椅子にふんぞり返っている。だがその態度は明らかに虚勢だった。
『ふん、どんな女かと思えば……!
父上が選んだなんて信じられない!』
『俺のこと、馬鹿にしてるんだろ?
どうせ子供だって……!』
『面白くない。早く帰りたい……
でも、帰ったら一人だ……』
『構ってほしい……僕を見てほしい……!』
カリクスの虚勢と反抗心の下の強い寂しさと、注目されたいという切実な願いが隠されているようだ。
無礼な態度は、不安と愛情への渇望の裏返しなのだ。
「初めまして。
わたくしがロマンシア=ケルベロッサです。
本日から、あなたたちの新しい母……
いえ保護者として——
ここで暮らすことになりました」
私は努めて穏やかな声で挨拶し、テーブルの向かい側の椅子に腰を下ろした。侍女がお茶を淹れてくれるが、部屋の空気は凍りついたままだ。
イヴァールは私を一瞥すると、ふい、と顔を背け、窓の外に視線を向けた。完全な無視だ。完全すぎて、ある意味では無視していないということを示してすらいる。
セラフィナは私の顔を見ないように俯いたまま、小さな声で「……こんにちは」と呟いた。
そしてカリクスは、わざとらしく大きな音を立ててティーカップをソーサーに置くと、ふてぶてしい口調で言った。
「ふん。
あんたが俺たちの母親だって? 冗談じゃない。
俺たちの母親は一人だけだ」
「カリクス!」
イヴァールが低い声で咎めるが、カリクスは兄を睨み返すだけだ。
(来たわね……予想通りの反応。
——でも、大丈夫)
前世ならここで激昂し、カリクスを叱りつけただろう。だが今の私は違う。
【心の声を聞く者】が、彼の言葉の裏にある本当の感情——母親への思慕、新しい母親への反発、そして自分を見てほしいという叫び——を捉えている。
彼の心に響かせるべき言葉は、怒りではない。
「そうですね。あなたたちのお母様は
かけがえのない方だったのでしょう。
わたくしがその代わりになれるとは
思っていません」
私は静かに答えた。
「ですが。
あなたたちを保護し支える役目は
これからわたくしが担うことになります。
気に入らないかもしれませんが
——それは事実です」
私の予想外の冷静な反応に、カリクスは一瞬、虚を突かれたような顔をした。イヴァールも、僅かに眉を動かす。セラフィナが、少しだけ顔を上げた。
「……気に入らないね」
カリクスは再び憎まれ口を叩く。
「あんたみたいな
ケ……ケルベロスの悪女に指図されるなんて
真っ平ごめんだ!」
彼はそう言うと、わざとらしく腕を勢いよく振った。その手が、テーブルの上のティーポットに当たり、ガシャン!という音と共にポットが床に落ち、熱い紅茶が絨毯に飛び散った。
「きゃっ!」
セラフィナが小さな悲鳴を上げる。
「カリクス、お前……!」
イヴァールが立ち上がろうとする。
侍女たちが慌てて駆け寄ろうとする。だが、私はそれを手で制した。
「大丈夫よ」
私は冷静に立ち上がり、床に転がるティーポットと、紅茶の染みが広がっていく絨毯を見下ろした。
そして、顔面蒼白になっているカリクスへと視線を移す。彼は、しまった、という顔をしながらも、まだ強がって私を睨みつけている。
『やっちゃった……!
どうしよう……怒られる……!
父上にも知られたら……!
でも、わざとじゃないって言っても
信じるもんか!
この女は悪女なんだから!
僕のことなんか嫌いに決まってる!』)
彼の内心の動揺と恐怖が、激しいノイズとなって伝わってくる。虚勢を張ってはいるが、本当は怯えている。叱責を恐れ、罰を恐れ、そして…見捨てられることを恐れている。
前世の私なら、ここで怒鳴りつけ、彼を罰しただろう。
だが、それは逆効果だ。彼の反抗心を煽り、心をさらに閉ざさせるだけ。彼が本当に求めているのは、罰ではなく、理解と安心感のはずだ。
私はゆっくりと屈み、カリクスの視線の高さに自分の顔を合わせた。そして、彼の瞳を真っ直ぐに見つめて、静かに言った。
「わざとでは、ないのでしょう?」
カリクスの目が驚きに見開かれる。能力越しの心の声も、一瞬、ピタリと止んだ。
「え……?」
「手が滑っただけ。違いますか?」
私は続けた。彼の本心が「わざとではない」と叫んでいるのを捉えている。ならば——かける言葉は決まっている。
「驚かせてしまったのなら申し訳ありません。
——ですが
怪我はありませんでしたか?
熱い紅茶がかかったりしませんでしたか?」
私の言葉は、彼の予想とは全く違うものだったのだろう。カリクスは、ただ呆然と私を見つめている。
イヴァールも、セラフィナも、そして控えている侍従たちも、信じられないものを見るような目で私を見ている。
カリクスの瞳から強がりの色がすっと消え、代わりに戸惑いと、ほんの少しの安堵のようなものが浮かんだ。
私の能力が再び動き出す。今度は先程までの激しいノイズではなく、もっと穏やかで困惑した響きを捉えている。
『怒らない……? なんで……?』
『心配……してくれてる……?』
『この人……本当に悪女なのか……?
父上が言ってたのと……違う……?』
「……べ、別に……怪我なんかしてない!」
カリクスはまだ少しぶっきらぼうに答えたが、その声色には先程までの刺々しさはない。
「ポットくらい、弁償すればいいんだろ!」
「いいえ。その必要はありませんわ」
私は立ち上がりながら言った。
「事故は誰にでもあること。
それよりも皆さんが無事でよかった」
そう言って、侍女たちに片付けを指示する。部屋には、気まずい沈黙が流れた。
イヴァールは、何か言いたげに私を見ている。セラフィナは、まだ怯えの色を残しながらも、先程よりは少しだけ顔を上げて、私を観察しているようだった。
『優しい……声……? 嘘じゃ……ない……?』
という心の声が聞こえてきた。
その時、部屋の扉が静かに開き、レオルガンが入ってきた。彼は、室内の様子——床の染み、片付けをする侍女たち、そして子供たちの微妙な表情——を一瞥し、私に視線を向けた。
そのアイスブルーの瞳には、探るような色が浮かんでいる。
「……何があった?」
低い声が問う。
「少し、お茶をこぼしてしまっただけですわ、殿下。
お気になさらないでください」
私が答えようとした、その時。
「僕が……やったんだ……」
か細い、しかしはっきりとした声でカリクスが呟いた。彼は父親であるレオルガンを真っ直ぐに見上げている。
「わざとじゃない。手が、滑っただけだ。
でも……この人——ロマンシアは、怒らなかった。
僕を心配してくれた」
レオルガンは息子と私を交互に見比べ、その表情は相変わらず読めないが【心の声を聞く者】も彼の内心の驚きと、私に対する評価がまた少し変化したことを捉えている。
『……怒らなかった?
感情的だという噂のこの女が?
カリクスの虚勢ではなく真実か……?』
『悪評とは違う面を見せる……
一体、何を考えている……?
ケルベロスの悪女の仮面の下には、何がある?』
その「内なる心の声」を聞いて私は内心で微笑んだ。
(ふふ……面白いでしょう、皇太子殿下?)
悪役令嬢の仮面。それは時として私を守る盾となり、時として相手を油断させる武器となる。
だが時には、その仮面を外して素顔を見せることが、人の心を開く鍵となるのかもしれない。そういうことだろう。
氷の皇太子とその三人の子供たち。彼らとの関係はまだ始まったばかりだ。複雑で、困難な道のりになるだろう。だが今日の出来事で、確かな手応えを感じていた。
回帰で手に入れた不思議な力——【心の声を聞く者】は、人の嘘や悪意だけでなく、その裏にある弱さや本心をも私に教えてくれる。
それをどう使うか。どう向き合うか。それが、この二度目の人生における、私の大きな鍵となるだろう。
獅子の檻と呼ばれるこの宮殿で、私は生き抜かなければならない。しかしいつか、この場所を本当の「家」と呼べる日が来るかもしれない。
そんな、まだ微かな希望を胸に、私は静かにレオルガンに向き直った。