第29話: 子供たちとの絆とイヴァールの力の制御訓練
『蛇』の紋章の組織からの脅威が日増しに現実味を帯びてくる中で、私の心は常に張り詰めていた。
いつ、どこで、見えざる敵が牙を剥いてくるか分からない。そんな息詰まるような日々の中で、私にとって唯一の安らぎと言えるのが、継子たち——イヴァール、セラフィナ、カリクス——と過ごす時間だった。
私は意識的に、彼らとの触れ合いの時間を大切にした。共に庭で遊んだり、絵本を読み聞かせたり、時には私が焼いたお菓子を一緒に食べたり。
そんな何気ない日常の積み重ねが、彼らの心の氷を少しずつ溶かし、私たちの間に確かな絆を育んでくれているのを感じていた。
特にイヴァールは、あの原因不明の高熱から回復して以来、私に対する態度が目に見えて変わってきていた。
以前のような刺々しい敵意は消え、代わりに戸惑いと僅かな信頼のようなものが、彼の緑の瞳に宿るようになった。
彼はまだ口数が少なく、私と直接言葉を交わすことは少ないけれど、彼の部屋を訪れると静かに私の話に耳を傾け、時には小さな声で「……ありがとう」と呟いたりもするようになった。
セラフィナは、すっかり私に懐き、行くところどこへでもついてくるようになった。「お義母様、お義母様」と甘える彼女の純粋な愛情は、私の疲れた心を優しく包み込んでくれる。
カリクスもまた、相変わらずの憎まれ口は健在だが、その態度の裏に私への関心と、そして兄や妹を想う優しい心が隠されていることを私は知っていた。
「お義母様……いつも、ありがとう」
ある日、イヴァールがぽつりと、そう言ってくれた。
それは、彼が初めて私に対して明確に示した感謝の言葉だった。その一言が、私の胸にどれほど温かいものを灯してくれたことか。
「セラフィナ、
お義母様といると、あったかい気持ちになるの!」
セラフィナの屈託のない笑顔は、太陽のようだった。
だがそんな穏やかな日常の裏で、イヴァールの内に眠る「古き民の力」は、彼の精神的な不安定さや、外部からのストレス——おそらくは『蛇』の紋章の組織の暗躍に対する無意識的な感知——に呼応して、より頻繁に、そして少しずつ強く発現し始めていた。
物が大きく揺れたり、部屋の温度が急に変化したり、時には窓の外の天候が僅かに変わったり。
それらの現象は、まだ他の誰かに気づかれるほどのものではなかった。だが私とレオルガンは、その力の増大と不安定さに、強い懸念と焦りを感じていた。
「このままでは……イヴァールの身が危うい。
何とかして、この力を制御する方法を見つけねば」
レオルガンは、苦渋に満ちた表情で私に語った。
もしこの力が制御できないまま暴走すれば、イヴァール自身が危険に晒されるだけでなく、組織にその存在を気づかれ、利用されてしまう可能性が高い。
私とレオルガンは相談し、イヴァールが自身の力を正しく理解して制御するための基礎的な訓練を、秘密裏に開始することを決意した。
エレオノーラ妃の日記や、アランが調べてくれた古き民に関する文献を参考に、まずは精神集中、感情のコントロール、そして力の流れを感じる訓練から始めることにした。
その訓練の指導役として、意外な人物が名乗りを上げた。
私の侍女、ミーアだ。
「ロマンシア様。
もしよろしければイヴァール様の力の制御訓練
わたくしめがお手伝いさせていただいても
よろしいでしょうか?
ささやかながら、その種の心得がございまして」
彼女は、いつものように冷静な口調でそう申し出た。だがその瞳の奥には、何か強い決意のようなものが宿っているように見えた。彼女の謎は深まるばかりだが、今は彼女の申し出に賭けてみるしかない。
「ありがとう、ミーア。
あなたなら、
きっとイヴァールの助けになってくれるわ」
ミーアは、イヴァールに対して、驚くほど的確かつ辛抱強く、力の制御方法を教え始めた。静かな呼吸法、精神を一点に集中させる瞑想法、そして体内に流れるエネルギーを感じ取り、それを穏やかに導く方法。
イヴァールもまた、最初は戸惑いながらも、ミーアの指導に真剣に耳を傾け、必死に訓練に取り組んでいた。
「イヴァール様。
まずはご自身の内なる声に
耳を澄ませてくださいませ。
力の源は、恐怖ではなく、
あなたの心の中にあるのです」
ミーアの静かで優しい声が、イヴァールの心を少しずつ解きほぐしていくようだった。
セラフィナは、兄の異変と、私たちが何かを隠していることを敏感に感じ取って不安を募らせていた。
彼女は兄の訓練の様子を遠くから心配そうに見つめていることが多かった。私はセラフィナの不安を受け止め、彼女にも安心感を与えるよう努めた。
「大丈夫よ、セラフィナ。
お兄様のことはわたくしが必ず守るから。
そしてイヴァールは、きっともっと強くなれるわ。
あなたとカリクスを守るためにね」
私が微笑みながらそう言うと、セラフィナは涙ぐみながらも、こくりと頷いた。
だが、そんな私たちの秘密の訓練も、いつまでも隠し通せるものではなかった。新たな障害が、私たちの前に立ちはだかろうとしていたのだ。
子供たちの教育係の一人で、厳格で融通の利かないことで知られる老女教師、ヒルデガルド=フォン=ミュラー。
彼女は私の「甘やかすようで型破り」な教育方針や、イヴァールの「情緒不安定で異質な」才能に、以前から強い懸念を抱いていた。
彼女は、「伝統的な皇室教育こそが、子供たちの健全な育成と帝国の安寧に不可欠」と固く信じ込んでおり、私の存在を危険視しているようなのだ。
彼女の「心の声」からも私への不信感と、イヴァールへの過度な心配、あるいはほとんど恐怖のようなものを捉えていた。
『ロマンシア様のやり方では、
皇子様方の将来が案じられる……。
特にイヴァール様は
何か……得体の知れないものを
内に秘めておられるようだ。
あれは、放置しておいてはならぬ……。
何か手を打たねば』
そして運命のいたずらか、ヒルデガルドは、イヴァールがミーアと共に力の制御訓練を行っている様子を、偶然にも目撃してしまった。
しかも見るなりそれを「危険な魔術の類い」あるいは「精神の異常」と誤解し、私がイヴァールに悪影響を与え、彼を破滅へと導こうとしていると誤解を深めたのだ。
「これは……断じて看過できぬ!
皇太子殿下に申し上げ
あの方を皇子様方から引き離さねば!」
ヒルデガルドは、固い決意を秘めた表情でペンを取り、レオルガン皇太子への正式な進言書を書き始めた。彼女の「心の声」は、正義感と私への強い敵意に燃えていた。
(またしても、面倒なことになったわね。
けれど、これも乗り越えなければならない試練。
イヴァールが制御訓練を頑張っているのだもの
わたくしもこのくらいは——)
ヒルデガルドの動きを【心の声を聞く者】で察知しながらも、冷静に次の手を考えていた。
彼女がレオルガンに進言する前に、子供たちとの絆をさらに深め、彼ら自身の言葉でヒルデガルドの誤解を解く必要がある。
イヴァールにも、ヒルデガルドにありのままの自分を見せる勇気を持つよう、優しく諭さなければならない。
「ヒルデガルド先生は、少し心配性なだけよ。
あなたたちが、ありのままの気持ちを伝えれば
きっと分かってくださるわ」
私はイヴァールとセラフィナの手を握り、そう語りかけた。子供たちは、真剣な表情で頷く。来るべき対決に向けて、私は静かに準備を整える。
この古い教育論との戦いは、子供たちの成長を促し、私たちの絆をさらに強くするための、重要なステップとなるはずだから。




