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第21話: 新たなる日常と忍び寄る影

 夜会での激闘とその後の慌ただしい処理が一段落してから、早くも数週間が過ぎ去ろうとしていた。


 あの血なまぐさい記憶は、まだ私の脳裏に鮮明に焼き付いている。しかしヴァリスガル皇宮の日常は驚くほど静かだ。まるで何事もなかったかのように時を刻んでいる。


 あの夜の出来事など、遠い昔の悪夢であったかのように。


 執務室の窓からは、秋の柔らかな陽光が差し込み、磨き上げられたデスクに降り注いでいる。


 山と積まれた書類の束。これは私が皇太子妃候補として、そしてレオルガン=ヴァリスガル皇太子の協力者として、新たな責務を担い始めていることの証。


「ロマンシア様、

 次はこちらの陳情書に目を通していただけますか?」


 傍らに控える侍女のミーアが、いつものように落ち着いた声で私に促す。彼女の有能さと揺るぎない忠誠心。この異国での生活において、私の何よりの支えとなっている。


「ありがとう、ミーア。

 それにしても終わりが見えないわね……

 この書類の山は」


 私は軽く肩を竦めてみせる。亡き前皇太子妃エレオノーラ様が遺したという膨大な資料の解読作業。これはレオルガンとアラン=セレスター書記官を中心に進められてはいる。だが難解な暗号や古い言語が多く、遅々として進んでいないのが現状だ。


 加えて、宮廷内の細々とした問題処理や、私が独自に進めようとしている改革案の準備もある。やるべきことは山積みだ。


 でも、この忙しさは決して不快なものではない。むしろ、前世でただ断頭台に赴く日を待つだけだった無為な日々と比べれば、遥かに充実している。


 自分の意志で未来を切り開こうとしている、その確かな手応えがある。


「ですが、

 ロマンシア様の精力的なお働きのおかげで

 宮廷内の雰囲気も

 少しずつ変わりつつあるように見受けられます」


「そうだといいけれど」


 私は小さくため息をつく。確かに、私の【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】が拾う宮廷内のノイズは、以前のようなあからさまな悪意や侮蔑に満ちたものから、戸惑いや好奇心、そして僅かながらも期待や好意が混じるものへと質を変えつつあった。


 特に先の夜会。あの場で私を陥れようとした貴族たちが失脚してからその傾向は顕著だ。


 だが安堵するにはまだ早い。水面下では、依然として旧体制にしがみつこうとする勢力や、私の存在を快く思わない者たちの不穏な蠢きが感じられるのだから。


 彼らの心の声は、まるで澱のように宮廷の隅々に沈殿している。いつまた悪臭を放ち始めるか分からない。私の能力はそんな不協和音を敏感に捉え、私に警告を発し続けている。


(この宮廷も

 少しずつだけれど変えていかなくては。

 まずは、ここで働く者たちの心からだわ)


 私は、先日から準備を進めていた一つの提案書を手に取った。それは、侍従たちの労働環境改善に関するものだった。


「ミーア。

 これをレオルガン殿下にお渡ししたいの。

 午後にお時間があると伺っているわ」


「かしこまりました。

 ですが、また反対されるかもしれませんね。

 特に、古参の皆さんからは」


「ええ、覚悟の上よ。

 でも、諦めるわけにはいかないもの」



 午後、私はレオルガンの執務室を訪れた。やはり山のような書類に囲まれている。だが私の姿を認めると、僅かに表情を和らげたようだった。


「ロマンシアか。何の用だ?」


「はい、殿下。

 先日お話しした件について

 具体的な提案書をまとめてまいりました」


「ああ、その件か」


 私は侍従たちの労働環境改善案を彼に手渡した。彼は黙ってそれに目を通し始める。そのアイスブルーの瞳が、真剣な光を宿して文字を追っていく。

 

 彼の心の声は、相変わらず厚い氷の壁の奥で複雑に揺らめいている。けれどその中に、以前にはなかった種類の響き——私への信頼と、そして私の提案に対する真摯な関心——が感じられる。


 この数週間で私たちが築き上げてきた関係性の変化を物語っているようだった。


「……なるほど。

 具体的なデータに基づいた合理的な提案だ。

 特に、交代制の導入と休憩時間の確保は

 皆の士気向上に繋がり

 結果として業務効率の改善も期待できるだろう」


「はい。

 そして、それは最終的に殿下への

 より良い奉仕へと繋がるはずです」


「君の考えは合理的だ。全面的に協力しよう」


 レオルガンはきっぱりとそう言ってくれた。彼の力強い言葉と、その瞳に宿る信頼は、私の心に温かいものを灯してくれる。


 そしてふと、彼の脳裏に別の懸念がよぎったのか、レオルガンは僅かに表情を曇らせて口を開いた。


「ロマンシア。

 言わねばと思っていたことだが——


 君との正式な婚礼については

 無論、ヴァリスガルの皇太子として

 そして一人の男として

 可及的速やかに執り行いたいと考えている。


 いつまでも皇太子妃候補という曖昧な立場に

 置いておくわけにはいかないからな……」


 彼の真摯な言葉に私の胸は小さく高鳴った。だが、今の私たちを取り巻く状況を思えば、それはまだ現実的ではないことも理解していた。


「ですが殿下、今はまだ……」


 私が言いかけた言葉を遮るように、レオルガンは静かに首を振った。


「ああ、分かっている。

 考えは同じではないかと考えていたところだ。


 この宮廷内に渦巻く不穏な動き

 そして正体不明の『蛇』の紋章の組織の脅威……。


 全てが片付かぬ限り

 民に祝福されるべき婚礼を強行することはできまい。


 君を、そしてこの国を

 無用な危険に晒すわけにはいかない。


 ——分かってくれるな?」


 彼の瞳には私への深い配慮と、そして目の前の困難に立ち向かうという強い決意が宿っていた。


「わたくしも同じ気持ちですわ、殿下。

 今はまず、この国を脅かす全てのものを排除し

 真の平穏を取り戻すことが先決です。


 わたくしたちのことは

 その後でゆっくりと考えましょう」


 私たちは、互いの瞳を見つめ合い、言葉なく頷き合った。共に戦うべき敵がいる限り、私たちの幸せはまだ少し先のことになるだろう。


(彼とならきっと変えていける。

 この国を、そして私たちの運命を)


 そんな希望に満ちた予感が胸に広がりかけた、まさにその時だった。


 扉が慌ただしくノックされる。息を切らした侍従が駆け込んでくる。


「も、申し訳ございません。

 殿下、ロマンシア様!

 ただいま、

 ロマンシア様の私室にこのようなものが!」


 侍従が差し出したのは、一通の封筒だった。上質な羊皮紙だが、差出人の名前も紋章もない。不気味なほど簡素なものだ。私の胸騒ぎが、急速に大きくなっていく。


 私が震える手で封を開けると、中から現れたのはたった一枚の便箋。そこには、血文字のような赤いインクで、歪んだ文字が記されていた。


『過去の亡霊はおとなしく眠っていろ。

 さもなくば、真の断頭台がお前を待つ』


 その文字から放たれる、どす黒い悪意と殺意の波動。私の【心の声を聞く者アンテナ・オブ・ソウル】が、強烈なノイズと共にそれを捉え、頭痛が走る。


 脳裏に前世の断頭台の光景がフラッシュバックする。


(……誰が、こんなものを……!?

 「真の断頭台」……?

 私の『前の人生』を知っている……!?)


「これは……!」


 レオルガンの表情が険しく変わる。この脅迫状がただの悪戯ではないことを瞬時に悟ったのだろう。しかし私はふつふつと湧き上がる感情を憶えていた。


(——忠告のつもりのようだけれど

 残念ながらわたくしはもう迷わない。

 売られた喧嘩は、きっちり買わせていただくわ)


 静かに燃える、私の内心の怒り。この脅迫状は、間違いなく『蛇』の紋章の組織からのものだろう。彼らの計画にとって、私は、無視できない障害となりつつあるのだ。


「すぐにライルを呼べ!

 宮殿内の警備を強化し

 この脅迫状の差出人を特定させろ!」


 レオルガンの鋭い声が執務室に響き渡る。侍従は慌てて部屋を飛び出していった。


 脅迫状の出現は、束の間の平穏を打ち砕き、私たちの日常に再び不穏な影を落とした。


 レオルガンの指示で、彼の直属の騎士であるライル騎士隊長率いる近衛兵たちが、以前にも増して私に対して厳重な警護体制を敷くことになった。それは安心感と同時に、息苦しさももたらした。

 

 私は脅迫状の筆跡や紙質、インクの種類などをミーアと共に調べたが、有力な手がかりは得られなかった。敵は大胆な行動をとっている。だが、巧妙に痕跡を消している。


 

 そんな緊張感の中で、私の能力は、新たな不協和音を捉え始めていた。それは、宮廷の会計監査官であるバルドゥス=グレイリング卿という、初老の貴族から発せられるものだった。


 彼は、私が提案した侍従の待遇改善案や私の警護強化に対し——


「伝統を軽んじるものだ」


「皇太子妃候補とはいえ、出過ぎた真似を」


「過剰反応ではないか」


 ——と、他の貴族たちとの会話の中で、あるいは内心で不満を漏らしているのだ。


『あのケルベロスの小娘め、何を企んでおるのだ……』


『我々の長年の慣習を

 そう易々と変えられてたまるものか』


『皇太子殿下も

 あの女に誑かされておられるに違いない……』


 彼の心の声は、旧体制への固執と、変化への強い抵抗、そして私への明確な敵意に満ちていた。察するに——彼は、旧体制下で様々な利権を享受してきたのだ。


 私の改革は、その立場を脅かすものに他ならない。


(また一人、厄介なのが出てきたわね。

 小物臭がプンプンするけれど、油断は禁物だわ)


 私はレオルガンにバルドゥス卿の不穏な動きを報告した。彼もまた、バルドゥス卿が古くからの重鎮であり、改革の抵抗勢力となる可能性を認識していた。


「バルドゥス卿か……。

 古狐め、やはり黙ってはいないか。

 彼の周辺には、

 旧体制で甘い汁を吸ってきた者たちが集まっている。

 ——注意が必要だ」


「ええ。

 けれど、わたくしたちの歩みを

 止めることはできませんわ。


 侍従たちの待遇改善案は

 予定通り次の宮廷会議に提出いたします」


「ああ、それがいい。

 我々は、我々の成すべきことをするまでだ。

 脅迫にも、内部の抵抗にも屈するわけにはいかない」


 レオルガンと私は、改めて共闘の意志を確認した。窓の外には不穏な月が浮かぶ。それは私たちの行く末を暗示しているかのようだった。



 私は、表立った脅威だけでなく、内部の腐敗にも立ち向かう決意を新たにした。来るべき宮廷会議に向けて、そして見えざる『蛇』の紋章の組織との戦いに向けて、静かに戦略を練っていく。


 ミーアや、私を信頼してくれるようになった侍女リリアも、情報収集や資料作成を献身的に手伝ってくれる。彼女たちの存在は、孤独な戦いの中で、私にとって大きな心の支えだ。


(さあ、最初の戦いの幕開けよ。

 旧体制の亡霊たちに

 新しい時代の風を見せてあげましょう……)


 私の心は、恐怖と怒り、そしてそれを上回る不屈の闘志で満たされていた。この二度目の人生、そう簡単には終わらせない。どんな困難が待ち受けていようとも、私は必ず生き延びてみせる——!

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