第02話: 氷の皇太子と姉妹の罠 ——漆黒のドレスと宣戦布告
鏡の中の決意から数日。ケルベロス公爵邸の私の部屋には、慌ただしい空気が流れ込んでいた。
隣国ヴァリスガル帝国への出発準備と、その前に行われる皇太子レオルガン=ヴァリスガルとの公式な初対面に向けた支度である。
「ロマンシアお嬢様
こちらのドレスはいかがでしょう?
皇太子殿下のお好みは
清楚で控えめなものだと伺っておりますわ」
侍女の一人が淡い水色のドレスを手に取り、媚びるような笑みを浮かべて言った。その言葉が耳に入った瞬間、ズキリとこめかみが痛む。
そしてあの不快なノイズ——【心の声を聞く者】が受け取った音声のようなものが、頭の中に響いた。
それは侍女の言葉の裏にある、あからさまな悪意の響きだった。
それはつまり——
(『清楚で控えめ』ですって?
ふふ、この愚かな悪女には
到底似合わない色を選んで殿下の前で
恥をかかせようという魂胆ね。
グロリア姉様の差し金かしら?
それとも、この侍女自身の浅はかな悪意?)
言葉の表面とは裏腹に、侍女の思考が濁った音となって流れ込んでくる。
『悪女に似合うのは、もっとけばけばしい色よ』
『殿下に嫌われればいいのに』
『これで少しは私の気が晴れるわ』
——そんな、淀んだ感情を受信している。これが私の力……。
相手の強い感情、特に悪意や嘘に反応し、その裏にある本心を不快なノイズや感覚として感知してしまう力。
死の間際に目覚め、この回帰と共に持ち越してきたらしい、厄介だが使い方次第では強力な武器となる力。
まだこの力に慣れず、制御もままならない。人の悪意に晒されるたびに、こうして頭痛や不快感に苛まれる。
だが前世のように無防備に悪意を受け入れるつもりは毛頭ない。それにこの不快感は、危険を知らせる警報でもあるのだ、と直感している。
「結構よ。
そんな地味な色は私の好みではないわ」
私は冷たく言い放った。侍女の顔に、一瞬だけ悔しさと驚きが浮かぶのが見えた。
「それに皇太子殿下のお好み?
あなたは、どこで
そのような情報を仕入れたのかしら。
まさか、根も葉もない噂を
鵜呑みにしているわけではないでしょうね?」
私の新しい力が侍女の内心の動揺を捉える。
『しまった、口が滑った!』
『まさか気づかれるなんて……!』
そんな焦りの音がノイズと共に頭痛を増幅させる。
「も、申し訳ございません!
で、では、こちらの深紅のドレスなどは……」
「いいえ、それも違うわ」
私は立ち上がりクローゼットへと向かった。並んでいるのは、前世の私が好んだ、あるいは姉たちに勧められるままに選んだ、派手で、時に悪趣味とさえ言えるドレスばかり。
だがその中に一着だけ、違うものがあった。
漆黒のベルベット生地を基調とし、銀糸で繊細な荊棘の刺繍が施されたドレス。首元と袖口のデザインはシャープで、甘さを排した気品がある。
前世の私なら決して選ばなかったであろう一着だ。いつ用意されたものか、記憶にない。だが今の私には、これが最も相応しいように思えた。
「これにするわ。支度を急いでちょうだい」
「か、かしこまりました……」
侍女たちは意外そうな顔をしながらも、私の指示に従った。支度を進める間も私の力は周囲の侍女たちの様々な感情を拾い続ける。
好奇心、侮蔑、恐怖、そして僅かな同情のようなものまで。ノイズの波に眩暈を覚えそうになるのを、必死に堪える。
この力を使うこと自体が、私の精神力を削っていっているような気もした。
(これが私の日常になるのか……
人の嘘や悪意を否応なく聞き続ける日々——
そして、この負荷に耐え続けなければならない……)
だが同時にこれは情報源でもある。誰が敵で、誰が利用できるか。誰が何を隠しているか。
前世では決して知り得なかった情報を、私は手に入れることができるのだ。代償は大きいが生き延びるためには必要な力といえそうだ。
支度が終わり鏡の前に立つ。漆黒のドレスは、私の白い肌と黒髪によく映えた。
銀の荊棘の刺繍が、まるで私のこれからの人生を象徴しているかのようだ。化粧は最低限に抑え、アクセサリーもシンプルな銀のイヤリングだけ。
派手さはないが、見る者を圧倒するような、冷たい気品と意志の強さが滲み出ている——はずだ。少なくとも、前世の軽薄な悪女とは違う。
「時間よ」
私は侍女たちを従えて応接室へと向かった。廊下を進む間も、すれ違う使用人たちの囁き声と、その裏にあるノイズを受け取った【心の声を聞く者】が私を苛める——頭痛が酷くなる。
『あれが、ヴァリスガルに嫁ぐ三女様か……』
『怖い顔……』
『皇太子殿下に気に入られるのかしらね』
(——好きに言わせておけばいい)
私は背筋を伸ばして顔を上げた。彼らの視線も、悪意も、今はただの背景ノイズに過ぎない。
私の目はこれから対峙するべき相手——氷の皇太子、レオルガン=ヴァリスガルだけを見据えればよい。
応接室の扉が開かれる。重厚な絨毯が敷かれ、豪奢な調度品が並ぶ部屋の中央に、一人の男性が立っていた。
背が高い。肩幅が広く、軍服のような仕立ての良い黒の上着を隙なく着こなしている。
プラチナブロンドの髪は短く整えられ、彫刻のように整った顔立ちは、まるで感情というものが存在しないかのように静謐だった。
そして、そのアイスブルーの瞳。見る者を射抜くような冷たく鋭い光を宿している。
傍らには数名の側近らしき人物が控えているが、彼らの存在感は皇太子の前では霞んで見える。
(レオルガン=ヴァリスガル……!)
前世でも何度か遠目に見たことはあったが、こうして間近で対峙するのは初めてだ。噂に違わぬ冷徹さと威圧感。ただそこにいるだけで、部屋の空気が凍てつくようだ。
私が部屋に入るとレオルガンは僅かに視線を動かし、私を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするように一瞥した。
その瞳には何の感情も浮かんでいない。ただ効率的に情報を処理しているかのような、無機質な光があるだけだ。
そして彼の視線が私に注がれた瞬間、これまで経験したことのないほど強烈で複雑な「思いの吐露」を【心の声を聞く者】が受け取り、私の頭を殴りつけたようだった。
(ッ——!?)
激しい頭痛と目眩。ノイズの嵐。だが、それは侍女たちの単純な悪意とは質の違うものだった。
彼の内面は幾重にも重ねられた分厚い氷の壁に覆われているかのようだ。その壁の奥底から、制御された思考と抑圧された感情の響きが、複雑に絡み合って漏れ出してくる。
『ケルベロス公爵家の三女……
悪評通りの女か? 利用価値は?』
『この結婚は帝国のため……私情は挟むな』
『姉たちの傀儡かそれとも……
独自の意志を持つのか?』
『警戒せよ。油断は禁物。情報は全て疑え』
『——また、この虚飾に満ちた世界か……』
悪意ではない。だが好意でもない。あるのはただ、冷徹なまでの警戒心、疑念、そして国益のための打算。
その奥に、微かに、しかし確かに存在する、深い孤独や諦念、そして世界に対するシニカルな諦観のような響きも感じ取れた。
だがそれはあまりにも深く、厚い氷の下に閉ざされている。この男の内面を探ることは、私の能力をもってしても容易ではないだろう。そして、その負荷は計り知れない。
「……お初にお目にかかります皇太子殿下。
ロマンシア=ケルベロッサと申します」
私は平静を装い淑女の礼をとった。声が震えなかったのは奇跡に近い。頭痛を無視し、意識を集中させる。
レオルガンは私の挨拶にも表情一つ変えず、ただ静かに応じた。
「レオルガン=ヴァリスガルだ。
公爵令嬢、長旅ご苦労」
彼の声はその瞳と同じように冷たく、感情の起伏を感じさせない。だが私にはは、その言葉の裏にある、儀礼的なもの以上の「心の声」が聞こえていた。
『……予想とは少し違うか……?
悪女というよりは……いや、油断はできん。
この女——何を考えている……?』
「長旅などとんでもない。
殿下におかれましては
我がケルベロス領まで御足労いただき
恐縮に存じます」
私もまた、完璧な淑女の仮面を被って応じる。
(さあ、ゲームの始まりよ、皇太子殿下。
あなたのその氷の仮面の下に何があるのか。
見極めさせてもらうわ)
しかし、その時だった。
「あらあら、レオルガン殿下。
ようこそいらっしゃいました」
甲高い、甘ったるい声が響き、応接室の扉から華やかなドレス姿の女性が現れた。
長姉、グロリア=ケルベロッサだ。彼女の後ろには芸術家気取りの次姉、ヴィオランテもいる。
「妹のロマンシアは
昔から人見知りで口下手なものですから
——殿下に
ご不快な思いをさせていないか心配で……」
グロリアは優雅な笑みを浮かべながら、レオルガンの隣へと歩み寄る。その動きは計算され尽くしており、見る者を魅了する。
しかし私には「声」が聞こえていた。
再び、強烈な悪意と嫉妬のノイズが、私の頭を激しく揺さぶる。吐き気を催すほどの、醜い感情の嵐。
『忌々しい妹! なぜあの黒いドレスを…!?
殿下の気を引こうというの?
地味なくせに目立ちおって!』
『殿下は私がいただくわ。
あなたのような出来損ないではなく』
『この政略結婚、必ず潰してみせる…!
私が皇太子妃になるのよ!』
——どうせそんなことだろう。負けるわけにはいかない。
「姉様、ご心配には及びませんわ。
皇太子殿下とのご挨拶は恙なく進んでおります」
私は毅然として言い返した。頭痛に耐えながら、はっきりと。
「まあ、ロマンシアったら。
強がらなくてもよろしいのよ?」
グロリアは扇で口元を隠し、クスクスと笑う。
「殿下、この子は少々
世間知らずなところがありまして……」
レオルガンは、姉妹のやり取りを黙って観察している。そのアイスブルーの瞳は、値踏みするように私たち三姉妹の間を往復している。
【心の声を聞く者】は彼の心境を捉え、複雑な響きを増していた。
『なるほど……姉妹仲は、噂通り
あるいはそれ以上にか……茶番だな』
『どちらが本物か、あるいはどちらも偽物か。
ケルベロスは腐っているな』
『だが……三女の瞳。あれは……?』
「心の声」とでも言うべき残響を聞き、私はすかさずベストな行動を模索した。
(このままでは、前世と同じだ。
グロリア姉様のペースに持ち込まれ
私はただの引き立て役、
あるいは愚かな悪役にされてしまう!)
ここで引くわけにはいかない。私はレオルガンに向き直り、敢えて少し挑発的な口調で言った。
「皇太子殿下。
姉たちの戯言はお気になさらないでくださいませ。
わたくしはケルベロス公爵家の者として
そして、いずれ貴国に嫁ぐ者として
言うべきことは自分の言葉で申し上げます」
グロリアの顔色が変わった。ヴィオランテは怯えたように姉の後ろに隠れる。
レオルガンは初めて、そのアイスブルーの瞳を僅かに見開いたように見えた。私の能力も、明確な驚きと今までにはなかった「興味」の声を捉えた。
『……ほう? 傀儡ではない、と?』
「——あなたに、一体何が分かると言うのですか」
私は彼に向かって、さらに言葉を続けた。前世で飲み込み続けた言葉。今、初めて口にする反逆の言葉。
「人は噂や見かけだけで
物事を判断するものですものね。
ケルベロスの悪女ですって?——結構ですわ。
ですが、あなたが見ているのは一体誰ですの?
誰かの作り上げた虚像? それとも——」
聞こえてくる周囲の者の心の声が、私に警告を発しているようだった。言い過ぎだ、と。だが、もう止まれなかった。
「——あなたご自身の歪んだレンズを通して見た
ただの幻影ではございませんこと?」
言い切った瞬間、しん、と部屋が静まり返った。侍女たちの息を呑む音。姉たちの硬直した表情。
そして目の前の皇太子——レオルガン=ヴァリスガルの凍りついたような、しかし、その奥底で何かが激しく揺らめいているような、複雑な表情。
【心の声を聞く者】は、今までにない激しさで揺れるレオルガンの心境を伝えてきた。
単純な怒りではない。驚愕、困惑、そして——ほんの僅かな、打ち砕かれた何かへの反応——か?
あるいは、予想外の言葉に対する純粋な興味かもしれない。
『——面白い。実に、面白い女だ……』
「……面白い」
やがてレオルガンは静かに、そう呟いた。その声には、もはや先程までの無機質さはなく、確かな感情——おそらくは、興味と、そしてより深い警戒心が入り混じった響きがあった。
(手応えは……あった、か?)
強烈な頭痛が後から押し寄せてくる。能力の使いすぎだ。だが、後悔はなかった。
これが、私の宣戦布告。氷の皇太子、レオルガン=ヴァリスガル。そして、私を貶めようとする者たち全てへの。
私はただの操り人形ではない。断頭台で死んだ、あの愚かなロマンシアではない。
この回帰が、この力が、何のために与えられたのかは分からない。だが、私はこの二度目の人生を、必ず生き抜いてみせる。たとえ、どれほどの荊棘の道が待っていようとも。
——波乱に満ちたヴァリスガル帝国での日々が、始まろうとしていた。