第19話: 《氷の皇太子》への告白 ——回帰の真実と最後の賭け
レオルガン皇太子の執務室の扉は、かつてないほど重く感じられた。
これから私が彼に打ち明けなければならないのは、私の命運だけでなく、彼自身の立場、そして帝国の未来をも左右しかねない、あまりにも突拍子もない真実と、絶望的な状況なのだから。
深呼吸を一つし、震える手で扉をノックする。中から、低く、そしてどこか疲労の色を帯びた声で「入れ」という許可が聞こえた。
部屋に入ると、レオルガンは山積みの書類に埋もれるようにして机に向かっていた。ここ数日のスキャンダル騒動で、彼もまた心身ともに疲弊しているのだろう。
部屋全体に張り詰めたような緊張感が漂い、彼の纏う空気は、絶対零度の氷のように冷え切っている。
私が部屋に入っても、彼は顔を上げようともしない。
(やはり……
彼も、私を疑っている……?
それとも、この状況に絶望している……?)
【心の声を聞く者】が、彼の内心の激しい葛藤を捉える。
『機密書類の窃盗……ロマンシアが関与?
ありえない……と信じたい。
だが状況証拠が悪すぎる……』
『彼女を信じるべきか?
それとも皇太子として
帝国のために彼女を切り捨てるべきか……?』
『これもあの「組織」の仕業なのか?
それとも彼女自身の……
いや、考えたくない……!』
——疑念、怒り、失望、そして僅かながらも残る私への信頼と愛情。それらが彼の内で激しくせめぎ合い、彼自身をも苦しめている。
「……殿下」
私は乾いた喉で呼びかけた。
「お話がございます」
「何の用だ」
レオルガンは、書類から目を離さないまま冷たく応じた。
「機密書類が見つかった件についてか?
それならばすでに調査を進めている。
君の弁明を聞く必要はない。
今は、それどころではないのだ」
彼の言葉は、突き放すように冷たい。だが、その裏にある苦悩を知っている私は怯まなかった。
ここで引き下がれば、全てが終わってしまう。そして彼をも、見殺しにしてしまうことになるかもしれない。
「いいえ、弁明ではありませんわ。
……わたくしの全てをお話しに来たのです」
私は彼の机の前まで進み出て、真っ直ぐに彼を見据えた。ようやくレオルガンは顔を上げた。そのアイスブルーの瞳には、深い疲労と、鋭い疑念、そして僅かな絶望の色が浮かんでいる。
「全て、だと?
君の言う全てが、この状況で何になるというのだ」
「意味があるかどうかは
お聞きになった上で殿下がお決めください。
ですが、これだけは信じてください。
わたくしは、あなたを裏切ってなどおりません」
——私は、覚悟を決めて、全てを打ち明けた。
自分が回帰者であること。前世で断頭台で処刑されたこと。姉たちの陰謀によって破滅させられたこと。
そしてこの二度目の人生で、破滅を回避するために行動してきたこと。【心の声を聞く者】のこと。
前皇太子妃エレオノーラの死の謎を探っていたこと。そして今回のスキャンダルが、私とあなたを同時に陥れるための巧妙な罠であること。
嘘偽りなく、私の知る全てを、感情を抑えながら、しかし切々と語った。
突拍子もない話だ。普通の人間なら、狂人の戯言と一蹴するだろう。
だがレオルガンは、黙って私の告白を聞いていた。彼の表情は変わらない。しかしその瞳の奥で、激しい動揺が起こっていることが、私には分かった。
『回帰者……? 断頭台……?
【心の声を聞く者】……?
まさかそんなことが……ありえるのか……?』
『だが、彼女のこれまでの不可解な言動……
知識……能力……エレオノーラの死への執着……
全てがこれで説明がつく……?』
『もし、これが真実だとしたら……
私は……なんと愚かな疑いを……!』
私の告白は、彼の世界観を根底から揺さぶっているようだった。合理主義者である彼にとって、到底受け入れがたい話だろう。
だが同時に、彼が抱いていた私への疑問や、前妻の死に関する違和感を、奇妙な形で説明してしまうものでもあった。
そして何よりも、私の言葉の響きには、嘘偽りのない必死の真実が込められていることを、彼自身も感じ取っているはずだった。
話し終えた私を、レオルガンは長い間、黙って見つめていた。部屋には時計の音だけが響いている。
彼の内心では、信じたい気持ちと、信じられない現実との間で、激しい戦いが繰り広げられているのだろう。
——やがて彼は重々しく口を開いた。
「……君の話が、真実だと
証明できるものはあるのか?」
「証明するもの……ありませんわ」
私は正直に答えた。
「わたくしの言葉と、そして……
これまでのわたくしの行動を
信じていただくしか……」
「信じろ、と? この状況で?」
レオルガンの声には、苦渋の色が滲んでいた。
「君は、私がどれほどの危険を
冒すことになるか分かっているのか?
万が一、君の話が偽りであった場合、
私は帝国を破滅に導くことになるのだぞ」
彼の立場、子供たちの未来、そして帝国そのもの。彼が背負っているものの重さを考えれば、逡巡するのは当然だった。
「ええ、分かっておりますわ」
私は静かに頷いた。
「ですから、信じてほしいとは申しません。
ただ、わたくしは賭けたいのです。
あなたという存在に。
あなたが噂や状況証拠に惑わされず、
真実を見抜く力を持っていると
わたくしは信じたいのです」
私は彼の目を見て、続けた。
「もし殿下が
それでもわたくしを疑うのであれば、
どうぞわたくしを断罪してください。
ですがもし僅かでも
わたくしの言葉に真実のかけらを
感じてくださるのであれば…
どうか、力を貸してください。
この絶望的な状況を覆すために。
あなたと、そしてこの国を守るために」
私は自分の持つ最後のカードを切った。私の命運は完全に彼の手に委ねられた。
レオルガンは、再び長い沈黙に陥った。彼の視線は、私の瞳の奥にあるもの——私の覚悟と絶望とそして彼への揺るぎない信頼——を探るように、深く、鋭く注がれている。
その息詰まるような沈黙を破ったのは意外な人物だった。
コンコン、と執務室の扉が控えめにノックされ、許可を得て入ってきたのは、長男のイヴァールだったのだ。
彼は少し緊張した面持ちで、しかし真っ直ぐな視線を私とレオルガンに向けた。
「父上、ロマンシア様。
お話の途中、申し訳ありません」
「イヴァール? 何か用か?」
レオルガンが訝しげに尋ねる。イヴァールは手に持っていた一冊の古い本——エレオノーラ妃の日記——を、レオルガンの机の上にそっと置いた。
「これ……母様の日記です。
僕が解読した部分に
今回の事件に繋がるかもしれない記述がありました」
「なんだと?」
イヴァールは震える声で、日記の内容を語り始めた。
そこにはエレオノーラ妃が、生前、帝国の機密情報を盗み出し、それをアルビオン王国に流そうとしているスパイの存在に気づき、その証拠を掴もうとしていたことが記されていたのだ。
だが証拠を掴む前に、彼女は組織に暗殺されてしまった、と。
「母様は、そのスパイが
いつか皇太子である父上や
帝国そのものを陥れるために
再び同じような罠を仕掛けてくるかもしれないと
警告していました……」
イヴァールは続けた。
「そして、その罠にはおそらく
『偽の証拠』が使われるだろう、とも……」
イヴァールの言葉は、私の告白と現在の状況を、恐ろしいほど正確に結びつけるものだった。
これは、エレオノーラ妃が遺した「未来への警告」だったのだ。
レオルガンは、息子と彼が持ってきた日記を驚愕の表情で見つめた。そして、再び私に視線を戻す。
彼の瞳の中で、迷いの霧が、急速に晴れていくのが見えた。
「……そうか……
そういうことだったのか……!」
彼は全てを理解したように呟いた。エレオノーラが命懸けで守ろうとしたもの。そして私が戦ってきたもの。それらがようやく一つに繋がったのだ。
「……分かった」
ついにレオルガンは決断を下した。その声には、全ての疑念を振り払った、鋼鉄の意志が宿っていた。
「……信じよう、君の全てを。
——ロマンシア」
彼は立ち上がり、私に向かって手を差し出した。
「そして共に戦おう。
エレオノーラの遺志を継ぎ
この卑劣な罠を打ち破るために」
「殿下……!」
私は涙が溢れそうになるのを堪え、迷わず彼の手を取った。冷たい、しかし力強い感触。その瞬間、私たち二人の間に、真の、そして揺るぎない絆が結ばれたように感じた。
「それで、計画は?」
レオルガンが尋ねる。
「夜会は目前だ。どうやって、この罠を利用する?」
「罠を利用する……そうですわね」
私は、頭の中で反撃の計画を練り始めた。敵は、私がスパイであり前皇太子妃の死を利用しようとしている、と吹聴している。ならば——
「その『疑惑』をそのまま利用するのです。
敵が用意した舞台で彼ら自身の嘘を暴き
——そして、エレオノーラ妃が遺した
真実の一端を白日の下に晒してやりましょう。
アルビオン王国の使節たちの前で。いかがです?」
具体的な計画の骨子を、私はレオルガンとイヴァールに語った。イヴァールもまた、驚くほど冷静に状況を理解し、協力を申し出てくれた。
時間は限られている。だが絶望的な状況の中で、ようやく反撃の糸口が見えてきた。
ちょうどその時、アラン=セレスターからも、リリアを通じて緊急の連絡が入った。
彼もまた独自の調査で、今回のスキャンダルに不審な点を感じ、私に協力したいと申し出てきたのだ。
彼が持つ歴史や法律に関する知識、そして情報網も大きな力になるだろう。
駒は揃いつつある。あとは、この賭けに勝つだけだ。
◇
夜会の幕が、上がろうとしていた。それは私が断罪される舞台となるはずだった場所。
だが今や、反撃のショータイムの舞台に変わる、変えてやるという強い気持ちが湧き上がってくる。
「ショータイムと行きましょうか——殿下」
私は不敵な笑みを浮かべて言った。レオルガンもまた、そのアイスブルーの瞳に、冷徹な決意の光を宿して頷いた。
——私たちの反撃が、今、始まる。




