第15話: エレオノーラ妃の影 ——老婆エルザと隠された秘密
ヴィオランテの肖像画事件は、結果的に私の宮廷内での評価をさらに奇妙なものにした。
『底知れない女』
『何を考えているか分からない』
『しかし、有能で魅力的でもある』
——そんな「心の声」が聞こえ、それは畏怖と好奇心が入り混じるようになっていたのだ。
それは決して心地よいだけのものではなかったが、少なくとも、私を侮って迂闊に手出ししてくる者は減った。これはこれで、利用できる状況と言えるかもしれない。
姉たちの妨害が一段落したことで、私はようやく本来集中すべきと考えていた問題——前皇太子妃、すなわちイヴァールたちの母親であるエレオノーラ妃の死の謎——の調査に本格的に取り組むことができるようになった。
イヴァールが高熱で倒れた一件は、私の中でその疑念を決定的なものにしていた。彼の苦しみ、力の暴走を示唆するノイズ、そしてレオルガンが見せた過去のトラウマの影。
これらは全て、エレオノーラ妃の死が単なる病死ではない可能性を示唆しているように思えたのだ。
その死の真相は、イヴァールの心の傷を癒やすだけでなく、この帝国に潜む、より大きな闇——その正体も目的もまだ掴めない、しかし確かに存在する邪悪な組織の存在——を暴く鍵となるかもしれない。
(彼女の死の真相を突き止めることが
全ての始まりになるかもしれない…)
私はミーアと、そして今や私の大切な情報源となったリリアを使い、改めてエレオノーラ妃に関する情報を集め始めた。
公式な記録は以前調べた通り、当たり障りのないものばかりだ。
『妃殿下は原因不明の熱病を患い、
数日の闘病の末、安らかに息を引き取られた』
——それだけだ。あまりにも簡潔すぎる。
だがリリアが侍女たちの間で集めてきた古い噂話や、ミーアが独自のルート——彼女はその情報源を決して明かさないが——で得た情報の中には、気になるものがいくつかあった。
「妃殿下は、亡くなる少し前から
何かをひどく恐れていらっしゃったらしいです」
「夜中に、誰かに監視されている
と怯えていたとか…」
「彼女の私室から、
時折、奇妙な光が見えたという話も…」
「当時の侍医が、
事件直後に不可解な辞職をしているのは、
やはり事実のようです。
口封じのために消された、
という噂も根強く残っています」
どれもこれも断片的で信憑性の低い情報ばかりだ。だが、無視するには引っかかる内容だった。特に監視や恐怖、奇妙な光、そして侍医の失踪。——これらは、単なる病死とは結びつかない。
(当時の侍女たちも、ほとんどが入れ替わっている……
何かを知っている人間は
巧みに排除されてきた、ということかしら……?)
だとしたら、この件を探ることは相当な危険を伴うだろう。
私自身も、姉たちとは比べ物にならないような、巨大な敵対勢力に目をつけられるかもしれないし、もしかすると——既に、その兆候はあるのかもしれない。
それでも、私は引き下がるわけにはいかなかった。イヴァールのためにも、そして、この帝国で生き抜くためにも、真実を知る必要がある。
私は一つの可能性に賭けてみることにした。エレオノーラ妃に長年仕え、彼女の死後、引退して宮殿を去ったという、一人の老侍女の存在。
彼女の名はエルザ。今は帝都の片隅でひっそりと暮らしているという。彼女ならば何かを知っているかもしれない。
何か得体の知れない組織があったとしても、既に彼女は組織にとって脅威ではないと見なされ、監視が緩んでいる可能性もある。
「ミーア。
このエルザという老婆の
居場所を突き止めてちょうだい。
できるだけ、内密に」
「かしこまりました。
ですがロマンシア様、危険です。
もし、彼女が何かを知っているとしたら——
たとえ引退していたとしても
監視されている可能性もございます」
ミーアは珍しく心配そうな表情を浮かべた。「心の声」も強い懸念と——
『もしロマンシア様に何かあれば……私の任務も……』
——という、個人的な感情を超えた何か別の理由による不安を発しているように聞こえた。
(彼女の「任務」……?
やはり、彼女は別の目的が……?
——あるいは、まさか何らかの組織の……?
でも、今はそれを詮索している場合ではないわ)
「分かっているわ。
だからこそ、慎重に進めなければならないのよ。
あなたも、十分に気をつけて」
◇
数日後、ミーアはエルザの居場所を突き止めてきた。帝都の下町地区にある、古く小さな民家の一室。厳重な監視がついている様子はないが、油断はできない。
私は、できるだけ目立たないように質素な服装に着替え、ミーアだけを伴ってその民家を訪れた。人通りが少なく薄暗い路地を進む。豪華な宮殿とはまるで違う、庶民の生活の匂いがする場所だ。
目的の部屋のドアをノックすると、しばらくしてゆっくりとドアが開いた。中から現れたのは腰の曲がった小柄な老婆だった。
白髪をきつく結い上げて深い皺も刻まれた顔には、長年の苦労と、そして何かを諦めたような影のある表情が浮かんでいる。
「どなたかね……? わしのような老婆に
何の用でしょうか……?」
エルザは、訝しげな目で私たちを見上げた。
「突然の訪問、申し訳ありません。
わたくし——
ロマンシア=ケルベロッサと申します」
私が名を告げるとエルザの顔色が変わった。驚きと恐怖の色が、その皺深い顔に広がった。彼女は慌ててドアを閉めようとする。
「お待ちください!
少しだけ、お話を聞いていただけませんか?」
私はドアの隙間に手を差し入れ、必死に呼びかけた。
「わ、わたしは……もう宮殿とは関わりがない者です
お帰りください……! 何も、話すことなど……!」
エルザの声は恐怖に震えていた。その「心の声」も――
『なぜ、今になってこの方が……!?
ケルベロスの……
しかも、次の皇太子妃候補だという……!』
『あのことを知られたら……!
妃殿下との約束が……!』
『怖い……怖い……!
また、あの時のように……!』
——という、激しいパニック状態を示していた。
(やはり、何かを知っている……!
そして、エレオノーラ妃と何か約束を……!)
「お願いです、エルザ。
わたくしは、あなたを害しに来たのではありません。
ただ真実が知りたいのです。
エレオノーラ妃殿下の……本当の死因について。
そして妃殿下が、あなたに託されたかもしれない
——何か、について」
私の最後の言葉——「託された」——に、エルザはびくりと体を震わせて動きを止めた。彼女はドアの隙間から、怯えた目で私を見つめている。
その瞳の奥には、長年抱え込んできたであろう、恐怖と秘密の重みが澱のように溜まっているのが見えた。
「あ……あの……お方の……死は……」
エルザは掠れた声で呟いた。そして周囲を気にするように、素早く視線を動かした。
「——立ち話もなんですから……とりあえず、中へ……
ただし、お話できることは
何も……何もありませんよ……」
彼女は諦めたように、私たちを部屋の中へと招き入れた。部屋の中は狭く、薄暗いが綺麗に片付けられていた。質素な家具がいくつか置かれているだけだ。
エルザは私たちに古い椅子を勧め、自分はベッドの端に腰掛けた。彼女は、終始俯いたまま手を固く握りしめている。
「エルザ。あなたは、何を知っているのですか?
妃殿下は、本当に病死だったのですか?」
私は、単刀直入に尋ねた。遠回しな言い方をしても彼女は口を開かないと考えたのだ。エルザは、しばらくの間、黙って俯いていた。部屋には、重い沈黙だけが流れる。
私の能力をもってしても——相変わらず恐怖と葛藤のノイズ以外聞こえてこない。
話したい、でも話せない。
話せば、自分にも危険が及ぶかもしれない——
そして、亡き主との約束を破ることになる——
——そんな、切迫したノイズだ。
やがてエルザは、意を決したように顔を上げた。その目には涙が浮かんでいた。
「あの方は……妃殿下は……」
彼女の声は、震えていた。
「……事故では……病死などでは…
ありませんでした……」
ついに彼女は重い口を開いた。その言葉は、私の予想を裏付ける衝撃的なものだった。
「では……!」
「あの方は……何かに……
気づいてしまわれたんじゃ……
帝国の根幹に関わる……
大きな……大きな……嘘に……!」
エルザは声を潜め、しかし必死の形相で続けた。
「それを……探ろうとなさったから……
だから……殺され……!」
そこまで言うとエルザは口を押さえ、激しく咳き込んだ。言ってはいけないことを口走ってしまった、という恐怖で、全身が震えている。
「嘘……? それは一体……?
誰が、妃殿下を……?」
私が問い詰めようとした、その時だった。外で、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。荒々しい、複数の男たちの足音。そして、ドアが乱暴に叩かれる音!
ドンドンドンドン!
「エルザ! いるのは分かっているぞ! 開けろ!」
(まずい!
やはり、監視されていた……!?
それとも、私たちの訪問を感づかれた!?)
エルザは悲鳴を上げてベッドの後ろに隠れようとする。ミーアは素早く私の前に立ち、腰に隠し持っていた短剣を抜いた。
彼女の目は、冷たく、鋭い光を宿している。その動きは、やはりただの侍女のものではなかった。ドアが、破られんばかりに激しく叩かれる。
「エルザ!
ケルベロスの小娘も一緒か!
大人しく出てくれば、乱暴はしない!
聞きたいことがあるだけだ!」
男たちの声。その響きには明確な脅迫と、何かを隠蔽しようとする強い意志が感じられた。
『あの老婆、余計なことを喋りおって…!』
『ケルベロスの小娘も厄介だ……
ここで始末するか……?
いや、まだだ……利用価値があるかもしれん……』
——そんな危険な声が聞こえてきたところで、ここまで迫った危機に対して取れる対処は少ない。
(逃げなければ……! でも、どうやって……!?)
この狭い民家の一室。逃げ場はない。私は、短剣を構えるミーアの隣に立ち、覚悟を決めた。たとえここで捕まることになったとしても、諦めない。最後の瞬間まで、抗い続けてやる。
断頭台の記憶が、再び脳裏をよぎった。あの時の無力感。後悔。もう、二度と、あんな思いはしたくない。
私の能力からもずっと、迫りくる脅威への恐怖と、生き延びたいという強い意志がないまぜになった、激しいノイズが聞こえていた。だがそれは、他ならない私の心の叫びそのものだった。
ドンドンドンドン!!
——ドアが、今にも破られようとしていた。




