第12話: イヴァールの高熱 ——力の暴走と魂が叫ぶ声
秋も深まり、帝都アヴァロンに冬の足音が聞こえ始めた頃、予期せぬ出来事が起こった。継子の長男、イヴァールが高熱を出して倒れたのだ。
「どういうことなの!? 侍医はなんと?」
知らせを受けて駆けつけたイヴァールの部屋で、私は付き添いの侍女に詰め寄った。ベッドに横たわるイヴァールの顔は赤く火照り、苦しげな息遣いを繰り返している。
額には冷たい濡れタオルが当てられているが、熱は一向に下がる気配がない。
「それが……原因が分からない、と。
ただの風邪ではないようで……
流行り病でもないとのことですが…」
侍女は狼狽した様子で答える。
「原因不明ですって? そんな無責任な!」
私は思わず声を荒らげた。だが侍医の困惑も無理はないのかもしれない。イヴァールの様子は、確かにただの病気とは思えなかった。
高熱に浮かされながら、彼は時折、うわ言のように何かを呟いている。
「母様……どこへ……
行かないで……暗い……寒い……」
(母様……? 前皇太子妃のこと……?
やはり、あの狩猟会での事故が
彼の心の傷を抉ってしまったの……?
それとも……?)
イヴァールが母親の死を引きずっていることは知っていた。だがそれが今回の高熱と関係があるというのだろうか。彼の母親はたしか……原因不明の病で急死したと記録されていたはず。
(まさか……!)
嫌な予感が胸をよぎる。前皇太子妃の死には、まだ解明されていない謎がある。
もしそれが単なる病死ではなく、何らかの陰謀——あるいは未知の力が関わっていたとしたら? そしてイヴァールもまた、その影響を受けているとしたら?
私の【心の声を聞く者】は、苦しむイヴァールの内面から、混乱したノイズを拾い続けていた。
高熱による苦痛、母親を失った深い悲しみ、そして……何か得体の知れないものへの恐怖。
『暗い……寒い……
誰かが……見てる……嫌だ……!』
『力が……抑えられない……!
熱い……! 助けて……!』
時折、彼の内側で何かが暴れ出し、それが高熱を引き起こしているかのような、危険なエネルギーを感じる。
(力が……抑えられない……?
どういう意味……?
彼も、何か特別な力を……
古き民の血に由来する力を
持っているというの……!?)
侍医が再び呼ばれて様々な治療法が試された。薬湯、冷却、祈祷師による浄化の儀式まで行われたが、イヴァールの容態は一向に改善しない。むしろ悪化しているようにすら見えた。
苦しげな呼吸はさらに浅くなり、意識も朦朧としている。彼の体から発せられる異常な熱気は、部屋の空気を重くしていた。
「このままでは、危険です……万が一のことも……」
侍医は青ざめた顔で、付き添っていたレオルガン皇太子に報告した。レオルガンは、ベッドの傍らで、苦しむ息子を厳しい表情で見つめている。
そのアイスブルーの瞳には、普段の冷徹さはなく、深い苦悩と焦りの色が浮かんでいた。
私の能力もまた、激しい動揺と——驚くべきことを受け取っていた。
『なぜだ……?
エレオノーラと同じように……?
いや、そんなはずは……!
イヴァールまで失うわけにはいかない……!』
——やはり、前皇太子妃の死には何かあるのか。
(あの時と……同じ……?
エレオノーラ妃も同じような症状で……?
やはり、彼女の死は……!)
レオルガンも、前妻の死に何か釈然としないものを感じている。そしてイヴァールの今の状態が、その時の記憶を呼び覚ましている…?
だとしたらこれは単なる病気ではない。何か人為的な、あるいは超自然的な要因が絡んでいる可能性が高い。
このまま侍医任せにしていては、イヴァールは本当に危ないかもしれない。私は意を決してレオルガンに進み出た。
「殿下、わたくしに看病させていただけませんか?」
「君に?」
レオルガンが訝しげな視線を向ける。
「君に何ができるというのだ。
侍医ですら匙を投げているのだぞ」
「医学的な知識はありません。
ですが…何か、わたくしに
できることがあるような気がするのです」
私は真っ直ぐに彼の目を見つめて言った。
「イヴァール様の苦しみは
単なる体の不調だけではないように思えます。
心の苦しみ……
あるいは、その……力の暴走のようなものが
関係しているのかもしれません」
私の言葉にレオルガンは目を見開いた。彼もまた、同じような可能性を感じていたのだろうか。
「もしそうだとしたら
今のイヴァール様には
ただ薬を与えるだけではなく
そばに寄り添い、その心の波を、力の波動を
鎮めてあげることが必要なのではないでしょうか。
——わたくしが、何か役に立つかもしれません」
私の言葉にレオルガンは何かを考えるように黙り込んだ。その心の声は——
『力の暴走……? やはりそうなのか……?
この女が、それを……? しかし、他に手は……?
彼女なら、
何か違うアプローチができるのかもしれない……?
危険だが…賭けてみるしか……?』
「……分かった。好きにするがいい」
やがて彼は低い声で許可を与えた。
「だが、無茶はするな。
君自身の身も危険に晒すことになるかもしれん。
そしてイヴァールの身に何かあれば、許さん」
「承知しております」
侍医や他の侍従たちが退室し、部屋には私と意識の朦朧としたイヴァール、そして見守るレオルガン、付き添いのミーアだけが残った。重苦しい沈黙が流れる。
私はまず、イヴァールの額の濡れタオルを新しいものに替え、汗ばんだ彼の額や首筋を優しく拭った。
次に部屋の換気をし、空気を入れ替える。それから清潔な水を用意し、彼の唇を少しずつ湿らせていった。
基本的な看護だが、まずは彼の体を少しでも楽にしてあげることが重要だ。
私が黙々と看病を続ける間、レオルガンは壁際で腕を組み、厳しい表情のまま、その様子をじっと見守っていた。
彼の視線には依然として疑念の色が残っているが、同時に藁にもすがるような思いも感じられた。
イヴァールのうわ言は、続いていた。
「母様……どうして……僕を置いて……」
「暗い……怖いよ……
誰か……助けて……!」
私の能力でも、はっきりとは聞こえない。ただ、悲しみと恐怖のノイズを発し続けているようだった。
そしてそのノイズの中に、時折、荒れ狂う嵐のような、制御できないエネルギーの響きが混じる。まるで、彼の魂そのものが悲鳴を上げているかのようだ。
(これが、力の暴走……
古き民の力……? なんて不安定で危険な……!)
私にできることは限られている。だがもし彼の内なる力が、彼の精神的な不安と結びついているのだとしたら。
そして私のこの能力が、彼の内面…魂の響きに触れることができるのなら。
私はイヴァールの手をそっと握った。熱く、汗ばんだ小さな手。
「……大丈夫よ、イヴァール様」
私はできるだけ穏やかな声で語りかけた。そして意識を集中させて【心の声を聞く者】の力を、彼の魂へとそっと向ける。悪意を探るためではない。彼の心の響きに、寄り添うために。
『怖い……暗い……
一人ぼっちだ……母様……』
彼の魂の叫びが、直接私の心に響いてくる。
「あなたは一人ではありません」
私は、彼の魂に語りかけるように静かに続けた。
「わたくしが、そばにいます。
あなたの痛みも、悲しみも
わたくしが受け止めますから」
私の言葉と私の魂の響きが、彼の荒れ狂う魂の嵐に小さな波紋を投げかける。
「わたくしは、あなたのお母様の
代わりにはなれません。
でも、あなたが苦しんでいるのを
見過ごすことはできません」
私は続けた。
「だから今は安心して休んでください。
怖いものは、わたくしが追い払ってあげますから。
あなたは決して、一人ではないのですよ」
根拠のない言葉だ。だが私は声に、嘘偽りのない彼を案じる気持ちと、彼の魂に寄り添おうとする強い意志が込めた。
なぜか、あるいは思いが通じたのか私の力を通じて、私の想いが彼の魂の奥底へと、ゆっくりと浸透していくのを感じた。
イヴァールの苦しげな表情が僅かに和らいだように見えた。彼の焦点の合わない瞳が、一瞬だけ私の方を向き、そして何かを理解したかのように、ゆっくりと閉じられた。
彼の内側で荒れ狂っていた力の波動が、少しずつ、本当に少しずつだが、鎮まっていくのが分かる。悲しみや恐怖のノイズも次第に和らいでいく。
私は彼の手を握ったまま、静かにそばに座り続けた。
時折、彼の額を拭い、唇を湿らせ、そして静かに声をかけ続ける。それはまるで壊れ物に触れるように、繊細で、根気のいる作業だった。
◇
どれくらいの時間が経っただろうか。窓から差し込む月明かりだけが、静かに二人を照らしていた。
レオルガンは、いつの間にか部屋の隅の椅子に腰を下ろし、仮眠を取っているようだった。彼の寝顔は、普段の厳しさが嘘のように、どこか幼く、そして深い疲労の色を浮かべていた。
不意に、握っていたイヴァールの手がピクリと動いた。
見ると、彼がうっすらと目を開けて私を見つめていた。その緑の瞳には、まだ混濁の色が残ってはいるが、先程までの苦悶の表情はない。
「……かあ……さま……?」
掠れた声で、彼はそう呟いた。それはおそらく無意識の言葉だろう。だがその言葉は、私の胸を強く打った。
私は彼の手を優しく握り返し、微笑みかけた。
「……ええ。大丈夫……もう、大丈夫よ……」
私の言葉と思いが何らかの形で届き、彼の心を安心させたのだろうか。
彼の緑の瞳に、確かな意識の光が戻った。彼は私の顔をじっと見つめ、そして、自分の手を握る私の手を見下ろした。
その表情には、混乱と、驚きと、そして……ほんの僅かな、安堵と、もしかしたら信頼にも似た色が浮かんでいた。
彼は何も言わなかった。ただ、私の手を振り払うこともしなかった。
そしてゆっくりと、再び眠りに落ちていった。今度は穏やかな寝息を立てて。
◇
夜が明け、侍医が再び診察に来た時には、イヴァールの熱は嘘のように下がり、安定した状態に戻っていた。侍医は奇跡だと驚き、レオルガンもまた、安堵の息を漏らしながら私に複雑な視線を向けてきた。
心の声は——
『信じられない……本当に、彼女が……?
一体、何をしたのだ……?』
——という、驚きと感謝、そして私の力への新たな畏敬の念が入り混じった様子だった。
私は疲労困憊だったが、心の中には確かな手応えを感じていた。イヴァールの心の壁は、まだ厚いだろう。
だがあの瞬間、確かに何かが通じ合ったはずだ。私の力が彼の苦しみを和らげる一助となった。そして、私は彼の秘密の一端に触れてしまった。——そう、思えた。
この出来事は、前皇太子妃の死の謎とイヴァールが持つ「力」について、新たな疑問と確信を私に与えた。
これから、さらに深く探っていく必要がありそうだ。そして、イヴァールを守らなければならない。彼を狙うかもしれない、見えざる敵から。
ベッドで眠るイヴァールの穏やかな寝顔を見つめながら、私は静かに決意を新たにした。この子供たちを守ること。それもまた、私がこの二度目の人生で果たすべき重要な役割の一つなのだと。




