第11話: 悪役令嬢の仮面 ——演じる心とセラフィナの涙
仮面舞踏会の夜、レオルガン皇太子が私をダンスに誘ったという事実は、瞬く間に宮廷中の噂となった。
それは彼が私を公に認め、庇護することを示唆する、極めて異例の行動だったからだ。
あの夜、私を陥れようとした侯爵は失脚し、グロリア姉様たちの立場も微妙なものとなった。
私に対する評価は、以前にも増して複雑なものへと変わっていった。
『あのケルベロスの令嬢、ただ者ではないぞ』
『皇太子殿下のお心まで掴むとは……恐ろしい女だ』
『いや、むしろ
あれほどの知性と胆力があれば
皇太子妃に相応しいのかもしれない』
聞こえてくる周囲の心の声は、畏怖、警戒、そして僅かながらも好意的なものが入り混じるようになった。
それは前世で浴びせられた一方的な悪意とは全く違うものだった。変化は、確実に起きている。
だが油断はできない。姉たちはまだ帝都に滞在しており、次の一手を窺っているだろう。
宰相派の残党や私の台頭を快く思わない保守派貴族たちも、水面下で新たな策略を練っているかもしれない。
そして何よりレオルガンとの関係が変化したとはいえ、彼が私を完全に信用しているわけではないことも、私の能力は伝えてきていた。
『彼女は魅力的だが危険でもある……
まだ、その真意は見極めねば……』
そんな状況の中で私はあえて、一種の防御策として、また、敵を油断させるための煙幕として「悪役令嬢の仮面」を意識的に使い分けることにした。
「あら、そんなことも知らないの?
ケルベロスでは常識ですわよ」
「ふふ、わたくしに逆らうなんて命知らずな方ね」
侍従たちや時には私を探りに来る下級貴族に対して、私はわざと、かつての「悪役令嬢」を彷彿とさせるような、傲慢で少し意地悪な態度を取ってみせる。
この振る舞いは、私を恐れる者にはさらなる恐怖を与え、迂闊に手出しできないと思わせる効果があった。
なおかつ、私の真意を掴みかねている者たちを混乱させ、内面を探られることを防ぐ盾にもなった。
(演じるのは得意よ。前世で、ずっと
そうしてきたのだから……でも……)
この「悪役令嬢」を演じることは、私自身の心にも少なからず負担をかけていた。本当の自分と、演じる役割とのギャップ。
そしてこの嘘が、いつか大切な誰かを傷つけてしまうのではないかという、漠然とした不安。
(こんなやり方で本当にいいのかしら……?
でも、今はこうするしかない……
弱みを見せればすぐに
食い物にされる世界なのだから……)
そんな私の内心の葛藤は、特に継子たちとの関係において予期せぬ影響を及ぼしていた。
カリクスは、私の「悪女」ぶりに、むしろ面白がっているのか、ますます私に絡んでくるようになった。
廊下ですれ違いざまに悪態をついたり、わざと私の気を引くような悪戯をしたり。
心の声でも——
『やっぱり、この女は
一筋縄じゃいかない! 面白い!』
『でも、優しい時もある……どっちが本当なんだ?』
——という好奇心と戸惑いが入り混じった声が聞こえている。彼は、私の仮面に気づいているのかもしれない。
イヴァールは、最も冷静に私を観察していた。彼は、私が意図的に「悪役令嬢」を演じていることを見抜いているようだった。
図書室で時折顔を合わせると、彼は以前のように私を避けるのではなく、遠くから静かに私の様子を窺い、何かを考えているような表情を見せる。
そこには――
『あの態度は、やはり演技なのか……?
何かから自分自身を守るために……?
いや、誰かを試しているのか……?』
―—といった深い思索と、私という人間への強い関心があるようだ。
そして最も心を痛めたのは、やはりセラフィナの反応だった。
私が「悪役令嬢」の仮面を被って冷たく振る舞うと、彼女は以前のように怯え、私を避けるようになったのだ。
彼女の持つ、嘘や悪意への異常な感受性は、私の演技をも見抜き、そしてその裏にあるかもしれない「何か」を恐れているようだった。
◇
ある日の午後、中庭で花を摘んでいたセラフィナを見かけた。彼女は一人で、小さな白い花を懸命に集めている。
その姿は儚げで、どこか寂しそうだった。私が近づくと、彼女はびくりと肩を震わせて持っていた花を落としてしまった。
「ご、ごめんなさい……!」
セラフィナは小さな声で謝り、慌てて花を拾おうとする。その瞳には、怯えの色が浮かんでいた。心の声は、私の接近に反応して強い不安を発している。
(また、怖がらせてしまった……私のせいだわ……)
自己嫌悪に陥りそうになるのを、ぐっと堪える。
「大丈夫よ、セラフィナ。驚かせてしまったかしら?」
私は努めて優しい声で話しかけた。だが彼女は顔を上げようとしない。
その時、私の能力が、彼女の繊細な心の揺らぎを捉えた。
それは、いつものような明確な思考のノイズとは少し違っていた。まるで、壊れそうなガラス細工が発するような、か細く、悲しげな響き。
『怖い……でも……あの人の声
時々、嘘をついてるみたいに聞こえる……』
『本当は、怒ってないのかな……?
悲しい音もする……
さっきの怖い顔と違う音がする……
どうして……?』
私の「悪役令嬢の仮面」は、彼女のような純粋で感受性の強い子供には、嘘として見抜かれてしまう。
そしてその嘘が、彼女をさらに混乱させて傷つけている。その事実に、私は胸を締め付けられた。
(この子に対してまで仮面を被り続けるのは
間違っているのかもしれない…)
「……そのお花、とても綺麗ね」
私は話題を変えてみた。
「何という名前なの?」
「……これはシルヴァーベルですの……」
セラフィナは俯いたままかろうじて答えた。
「あの……ロマンシア様は……」
「なあに?」
「時々……嘘を、ついていますか……?
どうして……悲しい音がするのですか……?」
セラフィナは小さな声で、しかし真っ直ぐな問いを投げかけてきた。その言葉は、私の心の最も柔らかな部分を、容赦なく抉った。
彼女の純粋な瞳は、私の仮面の下にある真実と苦悩を、見透かそうとしているかのようだ。
私は言葉に詰まった。この幼い少女に何と答えればいいのだろうか。嘘をついている、と正直に認めるべきか? だが、その理由をどう説明すれば?
私の躊躇が、セラフィナの不安をさらに煽ってしまったのかもしれない。彼女の瞳が潤み始め、今にも泣き出しそうに見えた。
(駄目だわ……これ以上この子を怖がらせ
傷つけてはいけない……
正直に話そう……たとえ、理解されなくても)
私はゆっくりと屈み込み、セラフィナの視線の高さに顔を合わせた。そして、仮面を一枚、そっと剥がすように、静かにそして誠実に語りかけた。
「……ええ。時々、嘘をつくことがありますわ」
セラフィナの目が、驚きに見開かれる。
「本当の気持ちを隠すために。
あるいは、自分自身や大切な誰かを……
そう、あなたたちのような
大切な人たちを守るために。
この世界では、悲しいけれど
嘘をつかなければ生きていけない時もあるのよ」
私は続けた。
「でも、セラフィナ。
嘘は、時として人を傷つける。
そして、嘘をついている自分自身もとても苦しいの。
……だから、わたくしもできるだけ嘘はつきたくない
と思っているのだけれど……
なかなか、上手くいかなくて。
それが、悲しい音に聞こえるのかもしれないわね」
私の正直な告白と隠しきれない葛藤。それは悪役令嬢の言葉ではなかった。
セラフィナは、戸惑いながらも真剣な表情で聞き入っていた。心の声も怯えの響きが少しずつ薄れ、代わりに——
『この人……本当のことを話してくれた……
苦しいって……』
『嘘は、守るため……? 私たちの……?』
という理解と共感、そして僅かな同情の響きが生まれ始めていた。
「だから、もしわたくしの言葉や態度が
あなたを怖がらせてしまったのなら……
本当に、ごめんなさい」
私は、心からそう謝罪した。一人の人間として。
セラフィナはしばらくの間、じっと私の目を見つめていた。そして小さな声で「……いいえ……」と呟いた。
それから彼女は思い出したように、拾い集めたシルヴァーベルの花束をそっと私に差し出した。
「これ……どうぞ……綺麗だから……」
「まあ……ありがとうセラフィナ。とても嬉しいわ」
私は花束を受け取って優しく微笑んだ。セラフィナは、はにかむように俯いたが、その表情にはもう怯えの色はなかった。
【|心の声を聞く者】で聞こえる声は、まだ少し戸惑ってはいるけれど、以前よりもずっと穏やかで温かい響きを奏でていた。
この小さな出来事は私にとって大きな教訓となった。「悪役令嬢の仮面」は便利な道具だが、使い方を間違えれば大切なものを壊してしまう。
特に、子供たちの純粋な心に対しては、仮面を外して誠実に向き合う勇気が必要なのだ。
そして私自身の心の葛藤もまた、隠すのではなく、時には正直に伝えることが理解への第一歩になるのかもしれない。
その日の夜、私は自室でセラフィナにもらったシルヴァーベルの花を小さな花瓶に生けた。白い可憐な花は、部屋の冷たい雰囲気を少しだけ和らげてくれるようだった。
(守るべきものがある……
そのために、私は強くならなければならない。
でも強さとは、
仮面を被ることだけではないはずだわ)
偽りの仮面を使いこなしながらも、その下に隠された真実の心を失わないように。そして時には、その素顔を見せる勇気を持つこと。
そのバランスを取ることの難しさを改めて痛感した夜だった。




