第10話: 仮面舞踏会の陰謀 ——断罪の舞台と逆転のワルツ
帝都アヴァロンに秋の気配が漂い始めた頃、ヴァリスガル皇宮では大規模な仮面舞踏会が開催されることになった。
友好国の使節団を歓迎するという名目だが、実際には帝国内の貴族たちが一堂に会して政治的な駆け引きや情報交換を行う、重要な社交イベントでもある。
そして私、ロマンシア=ケルベロッサにとっては、怪我からの回復後、初めて本格的に社交界に姿を見せる場であり、同時に——前世の記憶によれば、姉たちによる破滅フラグが本格的に発動する『運命の夜』となるはずだった。
(来るべき時が来たというわけね……仮面舞踏会。
前世ではここで私は
公衆の面前で断罪されかけた……
いいえ断罪されたも同然だったわ。
姉様たちの用意した偽の証拠と
レオルガン殿下の冷たい視線……
あの屈辱は、決して忘れない)
舞踏会の数日前から、宮殿内はどこか浮足立った空気に包まれていた。
侍女たちはドレスや装飾品の準備に追われ、貴族たちの間では招待状の有無やパートナーの噂話が飛び交っている。
そんな喧騒の中で私は冷静に状況を分析し、来るべき夜への備えを進めていた。
リリアを通じて得た情報によれば、やはり姉たちはこの舞踏会を狙って何かを企んでいるらしい。
詳細は不明だが「ロマンシアの過去の悪行を暴露し、皇太子妃候補としての資格がないことを知らしめる」というような内容のようだ。
おそらくケルベロス家時代の私の醜聞——その多くは姉たちが捏造したものだろう——を有力な貴族、おそらく宰相派に暴露させ私を社会的に抹殺しようという魂胆だ。
(前世ではこの罠にまんまと嵌り
弁明もできずに醜態を晒した……
でも、今回は違うわ。
敵の狙いは分かっている。
そして、私には対抗する手段がある)
今回の私にはこの力がある。そしてミーアと、今は私の忠実な目と耳となってくれたリリアという協力者もいる。
さらに図書館で得た知識と、アラン=セレスターとの知的な交流を通じて培った、状況を分析して先を読む力もある。何より——あの時とは違う、レオルガンとの関係性。
彼はまだ私を完全には信用していないかもしれないが、少なくとも以前のように一方的に私を断罪するようなことはしないだろう。そう信じたい。
◇
舞踏会の夜。私は、銀と黒を基調とした、シックでありながらも存在感のあるドレスを選んだ。顔には、鳥の羽根を飾った繊細な銀細工の仮面をつけている。
仮面は私の表情を半分隠し、ミステリアスな雰囲気を醸し出す。
何より、私の視界を確保しつつ人混みで視界を狭めることで、私の能力が「心の声」を受信しすぎることを避け、精神的な負荷を多少なりとも軽減してくれるだろう。
「ロマンシア様、お美しいです。
今宵の主役は間違いなくあなた様ですわ」
ミーアが、心からの賞賛の響きを込めて言った。心の声も、賞賛と私の身を案じる緊張感といったところだ。
「ありがとう、ミーア。
でも主役は、厄介事に巻き込まれるものと
相場が決まっているものよ。
気を引き締めていきましょう」
私は自嘲気味に微笑み、ミーアとリリアを伴って舞踏会場へと向かった。
◇
会場は、煌びやかなシャンデリアの光の下、仮面をつけた紳士淑女たちの華やかな衣装で彩られていた。
軽快なワルツの音楽が流れ、談笑の声とグラスの触れ合う音が響き渡る。
誰もが仮面で素顔を隠しているため、普段よりも大胆な会話や駆け引きが行われている様子が能力を通じて伝わってくる。
好奇、欲望、嫉妬、打算——仮面の下で渦巻く人間の感情のノイズが、会場全体を満たしていた。そんな「心の声」が私の精神力を確実に削っていくが、今は耐える時だ。
(さて、ショーの始まりね。
お姉様たちは、どの駒を使ってくるのかしら?)
私は意識的にアンテナの感度を調整することを試みた。周囲のノイズに惑わされずに、特定の人物——姉たち、そしてレオルガン皇太子の気配を探ってみる。
意外なことに姉たちはすぐに見つかった。グロリアは純白の、ヴィオランテは深紅のドレスに身を包み、それぞれ華麗な仮面をつけている。
彼女たちの周りには、いつものように取り巻きの貴族たちが集まっている。
二人の心の声は、期待と興奮、そして私への悪意に満ちた、非常に強いノイズを発していた。
『計画は順調……
あの侯爵がうまくやってくれるはず……』
『あの女が、どんな顔をするか見ものね……』
『レオルガン殿下もこれで目が覚めるはず……
私こそが、彼の隣に相応しいのだから!』
グロリアの歪んだ自信と野心が、特に強く響いてくる。そして、レオルガン皇太子。
彼は黒を基調としたシンプルな衣装に、鷲を象った黒い仮面をつけて会場の中央で諸外国の使節たちと話していた。彼の周りだけ空気が引き締まっているように感じられる。
アイスブルーの瞳は仮面越しにも鋭く、会場全体を見渡している。彼の心の声は、冷静さと、そして——私を探しているような、僅かな期待と警戒の感情が混じり合っていた。
『彼女は……どこにいる?
今夜、何か起こるのか……?
あの姉妹がまた何か仕掛けてくるのか……?
そして、彼女はどう動く……?』
彼は今夜の出来事をある程度予期し、そして私の対応に注目しているようだった。
(悪いほうばかりではなさそうだけれど
見られているわね……
彼も、観客の一人というわけね。
ならば、最高のショーを見せて差し上げないと)
私はわざと彼の視線を避けるように、会場の隅へと移動した。姉たちの計画が始まるまで、目立たずに状況を観察するつもりだった。
アラン=セレスターの姿も見えた。彼もまた心配そうに私の方を窺っている。彼には事前に、今夜何か起こるかもしれないと伝えておいたのだ。
◇
音楽が数曲流れ、舞踏会が中盤に差し掛かった頃——ついにその時が来た。
会場の音楽がふと止み、中央の演台に、予想通り、宰相派の有力貴族の一人——グロリアと懇意にしているという、あの侯爵が立ったのだ。
「皆様、今宵は素晴らしい夜会に
お集まりいただき、誠にありがとうございます!
さて、この場をお借りして
皆様にご報告したい儀がございます!」
会場の注目が演台に集まる。侯爵は、わざとらしく咳払いをすると、芝居がかった口調で続けた。
「近々、我がヴァリスガル帝国皇太子殿下は
ケルベロス公爵家のロマンシア様を妃として
お迎えになるやもしれぬ、との噂がございます!
誠に喜ばしいことでございますな!」
会場から祝福と好奇の拍手が起こる。だが、それは罠への序章に過ぎなかった。
「しかし! 皆様ご存知でしょうか!?
そのロマンシア様には
ケルベロス家におられた頃より
数々の芳しからぬ噂があることを!」
貴族の声が一転して非難の色を帯びる。会場の空気が凍りついた。
私の能力が、彼の内心——
『グロリア様の筋書き通りだ……
これでロマンシアは終わりだ……
私も、これで宰相閣下への覚えが
良くなるだろう……』
―—という下劣な喜びと計算の声を受信している。
「横領! 密通!
果ては、政敵の暗殺計画への関与疑惑まで!
このような人物が
果たして我が帝国の皇太子妃として
相応しいのでしょうか!?」
次々と繰り出される、根も葉もない、あるいは巧妙に歪められた告発。前世で私が断罪されかけた時と同じ手口だ。
会場は水を打ったように静まり返り、全ての視線が、私に——いや、私がいるであろう方向へと注がれる。
グロリアとヴィオランテは、仮面の下で満足げな笑みを浮かべているのが手に取るように分かった。
(……来たわね。
シナリオ通り、というわけね——お姉様)
だが私は動じなかった。全て想定の範囲内だ。私は静かに、しかし毅然として人々の輪の中から一歩前に進み出た。
「お待ちになって、侯爵閣下」
私の声は、静かだが必要なだけ会場に響き渡った。仮面をつけた銀灰色のドレスの女——それが私だと気づき、再び会場がどよめく。
「その告発、まことでしょうか?」
私は冷静に問いかけた。
「わたくしに関する悪しき噂は
ケルベロス家内部での権力争いの中で
わたくしを貶めるために流されたもの。
証拠もなしに、このような公の場で断じるのは
些か早計ではございませんこと?」
「証拠ならある!」
侯爵は待ってましたとばかりに叫び、懐から一通の書状を取り出した。
「これはケルベロス家の
元使用人からの告発状だ!
ロマンシア様の悪行の数々が
ここに記されている!」
(告発状…おそらくこれも捏造か
金で買われた偽証ね。
前世と同じ手口——)
「ほう、告発状ですか」
私はゆっくりと演台に近づいた。
「でしたら、その書状、わたくしが拝見しても?」
侯爵は一瞬ためらったが、勝利を確信しているのか、あるいは後に引けなくなったのか、書状を私に手渡した。
私はそれを受け取り、内容に目を通すふりをしながら時間を稼いだ。その間にミーアとリリアが、私の指示通りに動いているはずだ。
書状に記されているのは、やはり事実を巧みに歪曲した誹謗中傷の数々だった。
だがその筆跡には見覚えがあった。グロリア姉様の腹心である、ケルベロス家の執事の一人だ。
私は顔を上げ、侯爵に向かって言った。
「なるほど。このような内容でしたか。
実に……稚拙な捏造ですこと」
「な、何を言うか!」
侯爵が色めき立つ。
「この筆跡、ケルベロス家の執事
ゴードンのものでしょう?
彼は長年グロリア姉様に仕え
姉様の不正な財産管理を手伝っていた人物。
その彼が今更になって
わたくしを告発するなど
あまりにも不自然ではございませんか?」
「そ、それは……!」
「そして、侯爵閣下」
私は続けた。
「あなたが宰相派に属し
グロリア姉様と懇意にされていることは周知の事実。
そのあなたがこのような出所不明の
告発状を鵜呑みにし、このような場で披露なさる。
一体、どのような意図がおありなのかしら?
まさか、姉様と共謀して
わたくしを陥れようとでも?」
私の指摘に侯爵は顔面蒼白になった。周囲の貴族たちも、事の真相——これが単なる告発ではなく、宮廷内の派閥争いとケルベロス家の内紛が絡んだ、仕組まれたものであること——に気づき始めざわめきが大きくなる。
グロリアは仮面の下で唇を噛み締めているのが見えた。計画が崩れ始めていることに、焦りを隠せないでいる。
「さらに申し上げれば」
私は決定的な一打を放つべくミーアに目配せした。
ミーアは静かに頷き、どこからともなく現れた一人の男——先日、ケルベロス家から追放されたという執事ゴードン本人——を伴って会場の中央へと進み出た。
会場は再びどよめきに包まれた。侯爵は、信じられないものを見るように目を見開き、グロリアは蒼白になっている。
「ゴードン」
私は彼に呼びかけた。
「正直に話しなさい。
この告発状は、誰の指示で書いたのですか?
そしてその見返りに、何を受け取りましたか?」
ゴードンは観念したように、震える声で全てを白状した。グロリアに脅され、金銭と地位を約束されて偽の告発状を書いたこと。用済みになったら口封じのために追放されたこと。
彼の本心は、恐怖と後悔、そしてグロリアへの恨みの響きに満ちており、その証言が真実であることを物語っていた。
勝負は決まった。侯爵は顔面蒼白で立ち尽くし、グロリアは怒りと屈辱に体を震わせている。ヴィオランテは、もはや気を失いかけていた。
会場の空気は完全に私に味方していた。貴族たちの心の声も聞こえてくる。
『なんと卑劣な……!』
『ケルベロス令嬢は嵌められたのか!』
『皇太子妃候補として、むしろ相応しいのでは……?』
といった同情と、私への評価を見直す響きへと変わっていた。
罠は、見事に打ち破られたのだ。
混乱が収まらない中、ふとレオルガン皇太子の方を見ると、彼は仮面の下で僅かに口元を緩めているように見えた。そのアイスブルーの瞳には、驚きと、安堵と、そして——
『やるな、ロマンシア……
君は、私の想像を遥かに超えている……』
——という明確な賞賛の光が宿っていた。
その時、彼がゆっくりと私の方へと歩み寄ってきた。そして何の前触れもなく、私の手を取り、エスコートするように、ワルツの音楽が再び流れ始めた会場の中央へと導いたのだ。
「レ、レオルガン殿下……!?」
私は驚きと戸惑いを隠せない。
「見事だったぞ、ロマンシア」
彼は、私にしか聞こえない声で囁いた。
「だが、ショーはまだ、終わりではないだろう?」
彼は私をダンスへと誘ったのだ。公衆の面前で。それは彼が私を認め、そして守るという、明確な意思表示だった。
私たちは、ワルツのリズムに合わせてゆっくりと踊り始めた。周囲の注目を一身に浴びながら。
彼のリードは力強く、そしてどこか優しかった。仮面越しに見つめ合う瞳。触れ合う手。私たちの間にこれまでとは違う、確かな熱と甘い緊張感が生まれていた。
(政略を超えた何かが……始まろうとしている……?)
仮面舞踏会の夜。私は破滅の罠を打ち破り、そして、氷の皇太子との間に、新たな、そして予測不能な関係性の扉を開いたのだ。




