第01話: 悪役令嬢、断頭台に消ゆ ——二度目の生と謎の力
熱気と、鉄錆と、腐臭が混じり合ったような淀んだ空気が、断頭台を取り囲む広場を満たしていた。
天を衝くようなギロチンのシルエットが、鈍色の空を背景に不気味に聳え立っている。その足元に設けられた処刑台の上で、私、ロマンシア=ケルベロッサは膝をついていた。
両手は背中で硬く縛られ、足枷が冷たく足首を痛めつける。豪奢だが今は薄汚れたドレスの裾が、ざらついた木の床に無様に広がっていた。
「悪女を殺せ!」
「ケルベロスの恥め!」
「地獄に堕ちろ!」
遠巻きにする群衆の怒号が波のように押し寄せては返す。憎悪と侮蔑に満ちた視線が無数の矢のように私に突き刺さる。かつては畏敬や羨望を向けられたはずの視線が——今は燃えるような敵意に変わっていた。
ああ、そうか。これが私の結末なのか。ケルベロス公爵家の三女として生まれ、蝶よ花よと育てられ、欲しいものは何でも手に入れた。
傲慢で、わがままで、人を人とも思わない振る舞いを続けてきた——いや、違う。正確にはそう『演じてきた』部分も多い。
長姉グロリアの言いなりに、次姉ヴィオランテの引き立て役として。けれど結局は同じことだ。私の愚かさが招いた結果。
(違う……違う!)
心の奥底で、悲鳴のような声が上がる。
(私の罪? ……いいえ
これはグロリア姉様とヴィオランテ姉様の罪!
——私じゃない!
私はただ、
あのお二人の身代わりになっただけ……!
利用されて使い捨てられただけじゃないか!)
だがその叫びは声にならない。誰に届くわけでもない。群衆が信じているのは、巧みに広められた「事実」。
——ケルベロス公爵家の富を私物化し、よからぬ企てを主導し、民を苦しめた元凶は、この三女ロマンシアであるという筋書きだ。
姉たちは巧みに姿をくらまし、全ての責任を私一人に押し付けたのだ。あの狡猾な笑顔と裏にある冷たい計算を、私は知っていたはずなのに。
(なぜ、もっと早く気づかなかった?
なぜ、抗わなかった? 諦めていたから?
どうせ無駄だと? ——ああ、馬鹿な私……)
後悔が、鈍い痛みとなって胸を締め付ける。ギロチンの刃がきらりと光を反射するのが視界の端に入った。あの冷たい鋼が、私の首を断つ。痛みはあるのだろうか。一瞬で終わるのだろうか。それとも——。
「罪人、ロマンシア=ケルベロッサ!
神聖ヴァリスガル帝国への反逆、
及び国庫横領、その他数々の悪行により、
本日、この場にて断頭刑に処す!」
執行官の張り上げる声がやけにクリアに聞こえた。皮肉なものだ。死の間際になって感覚だけは妙に冴えわたるらしい。
(ヴァリスガル帝国への反逆……?
それも姉たちの仕業なのに。
レオルガン皇太子との政略結婚を破談に追い込み
両国の関係を悪化させたのは……)
そこまで考えて私は自嘲の笑みを漏らした。今更どうでもいいことだ。潔白を証明する機会も、弁明する術も——もう何もない。
顔を上げろ、と背中を押される。無理やり視線を上げさせられると、真正面にはギロチンの巨大な刃が鈍く光っていた。首を固定する枷がガチャンと音を立てて閉じられる。冷たい鉄の感触が、現実感を突きつけてくる。
「最期に言い残すことはあるか」
執行官の声。形式的な問いだ。何を言っても無駄なことを彼は知っている。私も知っている。それでも私は掠れた声で呟いた。
「……お姉様たちに伝えて
……後悔させてみせる、と」
届くはずもない呪詛。負け犬の遠吠えだということは重々分かっている。
群衆の興奮が最高潮に達する。罵声と嘲笑が嵐のように吹き荒れる。執行官が合図を送る。ギシギシとロープが巻き上げられる音が響く。私の真上で、死刑執行装置が最後の準備を終えた。
(寒い……)
恐怖ではない。諦めでもない。ただ、体の芯から冷え切っていくような感覚。視界がゆっくりと白んでいく。
(もし……もし、やり直せるのなら……)
そんなありえない願望が、意識の淵で明滅した。
(今度こそ……
誰の言いなりにもならず——自分の足で)
音が消えた。
世界から、色が消えた。
そして——ドスン、という重い音と共に、私の意識は急速に遠のいていった。
◇
暗転。浮遊感。冷たさ。
そして奇妙な不協和音のような耳障りな感覚。頭の奥で何かが軋むような、不快なノイズ。
(これはなんだ?
死後の世界は、こんなにも不快なものなのか?)
それとも、これも姉たちの仕掛けた死してなお続く悪意の残滓なのだろうか?
(……うるさい……)
思考がまとまらない。バラバラになった意識の破片が暗闇の中を漂っている。断頭台の記憶。姉たちの顔。民衆の憎悪。
そしてもっと古い、どこか別の場所の記憶の断片——見たことのない街並み、ガラスの板に映る文字や映像、奇妙な箱型の乗り物……
(『知識』……? 『経験』……?
何のことだ……?
頭が……割れそうだ……)
ノイズが一層強くなる。まるで、たくさんの声が一度に頭の中に流れ込んでくるような、あるいは、聞きたくない本音が不快な響きとなって鼓膜を直接殴りつけてくるような、そんなおぞましい感覚。
不意に意識が急速に一つの場所へと引き寄せられる感覚があった。
——重力。温もり。そして、柔らかな感触。
ゆっくりと、瞼を開く。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた——いや、見慣れていたはずの——豪奢な天蓋付きベッドの天井部分だった。精緻な彫刻が施された上質な木材。シルクのカーテン。間違いなく、ケルベロス公爵邸にある、私の自室のベッドだ。
「……?」
声を出そうとして、喉がひりつくのを感じた。状況が理解できない。私は、断頭台で処刑されたはずだ。あの、首筋を断ち切られる瞬間の全てが途切れる感覚は決して夢ではなかったはずだ。
(ここは……どこ?
天国? それとも……)
地獄にしては随分と居心地の良い場所だ。
ゆっくりと重い体を起こす。筋肉が強張り、動かすたびに軋むような感覚がする。だが、確かに体がある。首も繋がっている。
部屋を見渡す。磨き上げられた調度品。壁には美しいタペストリー。窓の外からは柔らかな日差しが差し込んでいる。信じられないことにここは現実の私の部屋だ。
(いつ……? いつの時代だ?)
震える手でサイドテーブルに置かれた銀製の卓上カレンダーに手を伸ばす。そこに記された日付を見て、息を呑んだ。
帝国歴1024年、花の月12日。
(——ありえない!)
私が断頭台で処刑される、ちょうど1年前の日付だ。
そして——私が隣国ヴァリスガル帝国の皇太子、レオルガン=ヴァリスガルとの政略結婚の命を受けた、まさにその直後。
(時が——戻っている……?)
時間が? 私だけが? なぜ?
頭の中のノイズが依然として微かに残っている。これは一体……?
混乱する頭で必死に記憶を辿る。処刑される直前のこと。死の間際に願ったこと。
(『もし、やり直せるのなら……今度こそ……』)
——まさか。そんな馬鹿な話があるものか。時間を遡るなど、神話の中の出来事だ。それとも、これは死の間際に見る都合の良い夢なのだろうか。
立ち上がり、よろめきながら部屋の中央に置かれた姿見へと向かう。重厚な銀のフレームに縁取られた鏡。そこに映し出された自分の姿を見て、私は再び言葉を失った。
そこにいたのは確かに私、ロマンシア=ケルベロッサだった。
しかし、それは断頭台にいた憔悴しきった私ではない。豪奢なドレスを身にまとい、艶やかな黒髪が肩まで流れ、血色の良い肌をした、若く——そして、傲慢そうな光を瞳に宿した、かつての私。ケルベロス公爵家の「悪役令嬢」そのものの姿だ。
(ああ、この顔……!
なんて愚かで、自信過剰で——
そして……怯えていた顔……!)
鏡の中の自分を見つめていると、再び頭の奥で不快なノイズが響いた。それはまるで、鏡の中の自分が発しているかのように感じられた。
嘘と虚飾で塗り固められた外面の裏にある不安と孤独の叫びが、不協和音となって私に届く。
(これが、あの時に感じた……『残響』……?)
処刑される寸前、執行官や群衆の言葉の裏に感じた、奇妙な感覚。悪意や嘘が込められた言葉が、不快な音や感覚として直接伝わってくるような——あの力。死の間際に覚醒したのか? そしてこの回帰と共に、この力も持ち越してきたとでもいうのか?
(——信じられないことばかりだ……)
だが鏡に映る自分の姿は、紛れもない現実だ。頬をつねってみる。痛い。夢ではない。
私は本当に過去に戻ってきたのだ。破滅の1年前に。
鏡の中の自分を見つめ続ける。傲慢さの中に隠された怯え。虚勢の下の孤独。それらが、不快なノイズと共に伝わってくる。前世の私だ。姉たちの操り人形となり、道化を演じ、最後には全てを失った、愚かな私。
込み上げてくるのは安堵ではなかった。歓喜でもない。
それは底なしの恐怖と——そして静かに燃え上がるような、激しい怒りだった。
(二度と……あんな結末を迎えるものか……!)
断頭台の冷たさ。民衆の罵声。姉たちの嘲笑。それらがフラッシュバックする。
(グロリア姉様。
ヴィオランテ姉様。
あなたたちの筋書き通りには、もうならない——!)
鏡の中の私は、まだ何も知らない愚かな令嬢の顔をしている。だがその瞳の奥に宿る光は、もう違う。一度死を経験し、絶望の淵から戻ってきた者の光だ。
(利用されるだけの人形は終わりだ。
言いなりになるだけの妹はもういない)
胸の奥深くで、何かが固く、鋭く、決意の形を取っていく。
そうだ、私は生きている。そして、やり直す機会を与えられた。
この不可解な「嘘の裏側の何かをノイズとして受け取る力」——【心の声を聞く者】とでも呼ぶべきか——が、どれほどのものかはまだ分からない。
だが武器はある。前世の記憶。これから起こる出来事の知識。そして、二度と過ちを繰り返さないという、鋼鉄の意志。
涙が、いつの間にか止まっていた。鏡の中の自分を、私は真っ直ぐに見据えた。傲慢でもなく、怯えてもいない。ただ、冷徹なまでに静かな決意を瞳に湛えて。
「私は——」
掠れていた声が、今は確かな響きを持っている。
「私は、生き延びる!」
ケルベロス公爵家の悪役令嬢、ロマンシアの二度目の人生が、今、静かに幕を開けた。
この先待つのは、氷の皇太子レオルガンとの政略結婚。心を閉ざした三人の継子たち。そして、私を再び破滅へと引きずり込もうとする、姉たちの陰謀と宮廷の罠。茨の道であることは間違いない。
だが、構わない。断頭台の露と消えるよりは、ずっとマシだ。
(見ていなさい、姉様たち。
そして、私を断罪した全ての人々。
このロマンシア=ケルベロッサが
運命をどう覆してみせるか……!)
窓の外では新しい一日が始まろうとしていた。鳥のさえずりが聞こえる。まるで、何もかもが昨日と同じように続くのだとでも言うかのように。
だが、違う。もう何もかもが違うのだ。私が、変えてみせるのだから。
まずは数日後に迫った、あの冷酷な皇太子――レオルガン=ヴァリスガルとの初対面だ。前世では最悪の第一印象を与え、その後の関係を決定づけてしまった。今度はそうはさせない。
(ふふ……)
思わず、乾いた笑いが漏れた。恐怖と怒りに混じって、ほんの少しだけ、不謹慎な興奮が胸をよぎる。
——悪役令嬢の、二度目の舞台。
さて、どんな風に演じてやろうか。静かに、しかし力強く、私は未来へと一歩を踏み出した。