運命編 一章
「せーんちゃん!」
放課後の空を眺めていると、俺の肩がバシッと叩かれた。
教室の端で影となり、存在を消していた俺に気付ける奴など指で数えるほどしかない。重たい体に意識を戻して席を立つ。
「帰るか、心巳【うらみ】」
俺の隣には少女が居た。涼しさすら感じる程の闇夜のように綺麗で黒く長い髪。黄金の満月の目は笑みをたたえている。
「駄目ですよ? 授業中ずっと外見てましたよね。来年には受験生なんですから」
「今は二年の夏だろ。気が早いぜ」
「学生で居られることが当たり前だと思っちゃいけません」
「高校生活を含めりゃあ、残り五年といったところだがな」
ちっちっち……。心巳の人差し指がゆったりと左右に振られる。
「今の医療技術の進歩から鑑みて、私達の時代の若者の寿命は百年で尽きるようなものじゃないんです。学生で居られるうちは学生を演じるのが得なんですよ」
「はいはい」
机の上の鞄を掴み、俺から歩き始める。そして隣で心巳が付いてきてくれる。五年間続いている俺達のいつもの関係だ。
男一人と女一人でいつも行動して、健やかなる時も病める時も支え合ってきた仲だが、恋人ではない。幼馴染と言うには彼女が小学四年生の頃に引っ越して来てから知り合っており、しかし今までで一番長く一緒に居た人といえば彼女なのだ。
好きかと聞かれれば好きだと答え、愛しているかと問われれば愛していると答えるだろう。それでも愛を結ばないのは、彼女を永遠に愛する為の心構えが完成していないから。
今の関係がただの仲間であるとは思っていない。女として意識していない訳ではない。恋人になれるように、恋を重ね合っている。俺にとって宇宙で一番大切な存在だ。
学校を出て校門を抜けた頃、心巳は俺の横顔を覗いた。
「今日からおばさん達が居ないんですよね」
「ああ。旅行に出てる」
「では寄り道していきませんか? 遊んで行きましょうよ」
「いいぜ。ゲーセンか?」
「なんでもいいです。夜はお菓子パーティですね」
見目麗しい絶世の美女なのに、男の俺に合わせてくれる。元がいいとしても服屋とか宝石店とか、試着や鑑賞にある程度興味があるはずなのだが、顔にはそんな素振りは一切出てこない。
だから度々不安になる。俺にとっては側に居てくれるだけで十分でも彼女には不満があるのではないかと。
「心巳は他に行きたいところはないのかよ」
「占ちゃんとならどこでもいいんです」
「俺が居なかったら?」
「乙女の秘密です」
人差し指を立てて片目をつむる。詮索無用というわけか。
下着とか買ってるんだろうな。
「あーあ、お前といると楽しいけど、一つだけ致命的な欠点があるんだよな」
「へぇ。こんなに可愛い子がいて何が嫌なんです?」
「心巳はさ、アジア系……というよりか、日本系の顔だよな。香港とか台湾とかじゃなくて、大和撫子って感じの」
「……そうですか? 私、日本人ですが」
「日本人ではないだろ」
「え?」
「日本の女性によく似てるけど、骨格や肌の感触が天然にしては出来過ぎてるじゃないか」
「……ええ、まぁ、そう言うなら」
「俺という和々切占七【おわぎりせんなの】も異常なのかもしれないが、壇塚心巳【だんづかうらみ】は出来過ぎている。そして、大和撫子であるお前の存在によって、俺はお前以外の女を見てもなんの感動も起きないんだ!」
「ええ!? 男に恨まれるくらいに美人なのが罪だと言うんですか!」
「例え俺達が恋人でなくても他の男と付き合ってみろ。お前に狂わされた俺にとてつもない無気力が襲い、生きているのか死んでいるのか分からない人生を送ることになるだろう!」
俺の悲痛な叫びで心巳は言葉を失い、冷ややかな視線を送る。
勝手な主張なのは承知の上で、しかし俺にとっては生死に関することであるため伝えずにはいられなかった。
「けれど私だって占ちゃんが他の女と付き合ったら自殺しますがね」
「……なんだって?」
「例え占ちゃんと一生出会えなかったとしても、占ちゃん以外とはキスさえしないってことです」
「なら今出来るかよ」
「占ちゃんが嫌がるでしょう?」
分かってんだよなぁ。お互いどんな気持ちなのか理解できてんだよなぁ。
言葉を交わさずとも分かり切っていることを口に出すのは、それは会話を出来る限りしていたいからだ。俺なりに学生の間に出来ることをしているつもりなのだ。
俺と心巳の間が引き裂かれることはない。例えこんな馬鹿げた話を延々としようとも。
「──いつもさ、左のもみあげにその緑のリボンしてるけど、飽きないか?」
「大切なものに飽きは来ないんです」
「俺が小四の頃にやったものだろ? それにいつも固結びだしさぁ。そんな風に飾りつけするの世界でお前だけだろ」
「絶対に無くすまいとする鋼の意志を表現してみました」
「ポニテとかサイドテールとか、そんな風には使ってはくれないでしょうかねぇ」
「あらあら? 新鮮な心巳ちゃんが欲しくなっちゃいました?」
「とりあえずポニテにするとどうなるんだよ」
心巳は股関節までダラっと伸びている長い若緑のリボンを固結びのはずなのにするっと外し、鏡も見ずに綺麗に後ろの髪を結って見せた。
お淑やかな印象は反転。髪を纏めたことにより運動性の改善が見られ、活発な雰囲気を放つ。
猫や犬のようなものに愛らしさを感じるのは尻尾の動きにより感情を表現が読み取りやすく、それに同調して自分も嬉しくなったり悲しくなったりする所だと思うのだが、心巳のポニーテールもそれと同じように見えるようになったため自分の中の感情が変化しているのを感じる。
感動だ。お人形遊びとはこういう楽しみ方だったのか。
「どうです? イケてるでしょ?」
「改めて分かったよ。現実は非情だってことが」
「占ちゃん……?」
世の女性達に完全に見切りを付けた俺は、心巳に軽蔑されるのだった。
そんなこんなでタバコ臭いゲームセンターに付き、騒音に包まれながら数々のゲーム機が放つイルミネーションの中を進む。
両替機で千円札を百円に換えて、手当たり次第にクレーンゲームに手を付けた。
「お菓子の袋詰めですって」
「よゆー」
「ラジコンですって」
「よゆー」
「たこ焼き機ですって」
「よゆー」
「わぁ、大きいぬいぐるみ!」
「ぐああああああああ」
遊園地では一万円相当であろう大きな犬のぬいぐるみに反応した心巳の為に挑戦してみたものの、アームの弱さが原因か、今までと違って一回で取れない。
何度繰り返しても同じだろうなと思いながらも、震える指で百円を投入しようとする。
ゲーマーならば余裕綽々でゲット出来るのだろう。しかし、この俺は生憎と毎日遊べる程自由人ではない。心巳の喜ぶ顔は見たいが、果たして、命よりも重いと言われる金を注ぎ込んで結果が出せるか……。
「いけます?」
「お前はどうだよ」
「ええー」
心巳が俺に代わって硬貨を入れた。
正面に立つ俺の横から手だけボタンに近付け、緊張感なく軽い動きで優雅にアームを操る。
やがて手動操作が終わり、アームが降ろされていくが目標のぬいぐるみとは一つ分離れている。しかし……。
「引っ掛かってるだと!?」
縫うのが甘かったのだろう、ぬいぐるみからはみ出ている小さな糸の輪にアームが刺さり、そのまま引っ掛かって宙に浮いた。
よく見てよく狙い、そして精密に操作した結果だとしても、それをやってしまえる人は決して多くない。まさしく天才だ。
「やった!」
甲高く喜びながら、落ちて来たぬいぐるみを持って俺に向いた。
「おぬし、まだまだであるにゃ」
「馬鹿な……女如きに負けるのか……!」
心巳の好感度上げに失敗した俺は、あまりのショックに床に膝をつく。
ギャルゲーで例えるのなら一番難易度の高いヒロインを攻略しているようなもので、この結果は仕方ない部分もあるかもしれないが、それでも自分のプライドは確実に傷がついたのだ。
「もー占ちゃんったら。あ、ほら恋愛占いとかやりましょうよ」
「え、それなんか違くね?」
「シューティングゲームがいいですか?」
「それしよう」
「でしたらちょっとトイレ行ってきますね。私の友達見ていてあげてください」
心巳はぬいぐるみを俺に渡して離れていく。その足取りは早くも遅くもない。我慢していた程ではないのだろう。俺のこういう所が気持ち悪いんだろうな。
俺自身に何の魅力も感じないままで居たせいか、心巳の言葉がやけに自分の中に残っている。
「恋愛占いか……」
クレーンゲームを抜けて、店の隅に置かれている機械。それが占いをしてくれる。
なんでも、良く当たらないことで有名で、学校の休み時間にクラスメートの女子達から話が聞こえてきたものを思い出してみると、どうやら占いの結果の反対のことが起きるようなのだ。
興味がある。俺はその占いゲームの場所へ移動した。
ピンクの塗装がされて、レバーと手のひらサイズの大きなボタン。筐体の前に置かれているピンクの丸椅子がいかにも女が好きそうな感じだ。
二百円を入れてゲームを開始する。まずは男の名前を入れて、次は女の名前。レバーとボタンで文字を選択した。
「和々切占七と檀塚心巳。誕生日は五月二十五日と六月五日。血液型は……俺は多分Bで、心巳はAだろ。これでいいのか? あん?」
診断中。何がどう診断しているのか分からないが、とりあえず十秒程待って結果が出てくる。
相性百パーセント。あっという間に結婚して、沢山の男の子を授かるでしょう。ポイントアップは猫。
「……なんだこれ」
予想に反して悪い結果だ。俺と心巳が……まさか……。
「せーんちゃーん。何してるんですー?」
「おわっ」
つばきの香りがした後に、背後から心巳が俺の隣の椅子に腰掛けた。
噂を知っているのだろう、画面に表示されている結果に少しも喜ばない。
彼女は無言で硬貨を機械に入れた。
「おいおい、またやるのか?」
「違うよ、占七くん」
心巳は俺よりも早くレバー操作をする。男の名前は和々切占七、女の名前は市絆黒夜。……市絆ってどういう読み方をするんだ? 市絆黒夜って誰だよ。
誕生日は五月二十五日と十一月十一日、血液型はどちらもO型。
「このくろよるって誰だよ」
「しほだくろや。ちなみに占ちゃんの血液型はOですから」
「いや、だからこれ誰なんだって」
「わたし」
「なんだって?」
「市絆黒夜は私の本名。お家の事情でね、名前を変えていたんですよ」
「それは……知らなかったな」
話している内に占いの結果が出た。
相性ゼロパーセント。男は虚しく独り身で孤独死、女も虚しく独り身で孤独死。付き合っても上手くいかないかも。ポイントアップは緑のリボン。
逆の結果だとしても、これはこれでずっしり来る。ただの機械なのではあるが、オカルトというのは思うだけならまだしも形として出すとどうにも存在感を増している。
そりゃあ、俺は現実主義者な所はある。曖昧さは許容しにくい。物事の根本を探してしまう。こんな占いなんて信じないような人間だ。
だが……もしも、俺と心巳の絆を裂くような存在がいるとしたならば……それはきっと俺に理解出来ない程の、魔法のようなものだろう。
「あーあ、不幸ですね、私って」
心巳は足を振り子のようにブランブランと宙で揺らし、言葉とは裏腹に嬉しそうに笑っている。
最高の美貌と性格と能力を得たかわりに全てが不幸な彼女を見ていると、愚かしくも放ってはおけない。これはただの下心なのかもしれないが、それを誠実なものに変えたいのだ。
だから俺はこの不確定の結果から目を背けた。
「行こうぜ。エアホッケーやるんだろ?」
「ゾンビを撃ちに行くんじゃないんですか?」
「どっちもやりたいんだよ」
彼女の白い手を引き、子供のように駆ける。
そうだ。俺達は子供なのだから。
家まで徒歩五分といった所の十字路の狭い道で心巳は止まった。
「じゃ、占ちゃん。私はここでおさらばです」
「着替えんのか?」
「ええ。洗濯物をしまって着替えを持っていかなければなりませんから」
「俺ん所で風呂入んのかよ」
「これぞ節約術なのです」
「はぁ、一人暮らしも大変だな」
心巳は田舎から引っ越してきており、小学四年生から一人暮らしをしている。三者面談や授業参観など保護者が居なければならない時だけ心巳の親がこちらに来るのだ。
だから、俺が心巳の所へ泊まりに行った方が何かと楽なのだが、女の子ということでそういう事は切り出せずにいる。だってさ、俺が部屋の中で下着とか干している所を見たら多分興奮して失神するぜ?
別に彼女はそういう事は気にしないのかも知れないし、むしろいつも歩かせてしまっているので負担が大きいのだろうが、俺の所に来ることについて一度も文句を言った事はない。その優しさに俺は黙って甘えている。
「一時間後には行きますから。暗くなると何かと危ないですからね」
「迎えに行こうか?」
「いえいえ、私は強いんですから」
そして心巳は山程の景品を抱きながら手を振って帰って行った。ここから五分程歩いて着くアパートが心巳の家だ。俺と心巳の家の距離は歩いて十分といったところか。
心巳の姿が見えなくなった所で俺も歩き出した。
手には帰りの途中のスーパーマーケットで買った食材と、やたら重いものばかり獲ってしまった景品。邪魔ったらしいったらありゃしない。
でこぼこのアスファルトの道を進み、星の見えない空を眺めながら将来のことを考える。
何の仕事をして、どんな趣味を持とうか。一人暮らしをするだろうし、その時には心巳は近くにいないかもしれない。特に好きなものがない人生で、どうやって生きていくか。やりたい仕事なんか一つもない。お金なんて特に欲しくもない。仕事以外で何をすれば良いのだろう。
つまらないから心巳を妻にする……そんな事で恋人にしたくはないし、結婚もしたくない。もっとちゃんとした理由で関わりたい。
生きる意味が見当たらないのだ。心巳が俺を必要としてくれているから和々切占七を演じているだけで、一人で居たのならきっと時の流れに身を任せ、何も考えずに息をしていたはずだ。
桜は既に散った。一年の重みを感じずに中学二年の五月へ移ろいでいる。彼女が出来れば、この虚な心は満たされるのだろうか?
空が夕陽で赤く染まり、時の短さに焦りが生まれた。秒数を指で数えれば気の遠くなる程に一日は長いというのに、記憶には大して何も残ってはいない。過去から重ねた努力こそが充実感を与えてくれるのだろうが、そんなものは俺には無かった。
頭を戻して前を見る。もうすぐで家だ。住宅街の風景が見慣れるごとに世界の狭さを感じさせる。
……電柱の側で座り込んでいる女の子を見つけた。知らない子だ。服が全体的に黒く、黒いブーツ、ズボンの上から膝丈までのスカートを重ねるように履いており、白いシャツ、黒いブレザー、高級感のある大きな黒いコートを羽織っている。
赤焼けた空により赤金色に見える長い髪がふわりと浮き上がり、目元がおっとりとした若緑の瞳が俺を捉えた。
……だが、ゆっくりと俺から視線を外すと、俯いてさらに縮こまってしまう。
俺と同じように顔も体も幼い。大人とか、ませているとか、そんなもので髪を染めているにしては不自然さは感じられない。それが困り果てた姿でしかないと直感が働いた瞬間、俺は彼女に歩みを進めていた。
「どうした、何か困ってんのか?」
異質な雰囲気を纏ってはいるものの、それ以上に平凡な日常に突如として現れた変化に惹かれているのかもしれない。生きる為の理由を探しているからこそ、普通は関わらないものに触れていく。
少女は立ち上がり、壁に背を付ける。俺の顔を見て逸らすを幾度か繰り返し、ようやく口を開いた。
「……分からない。ここがどこで、私が誰なのか。ねぇ、私ってなんなのかな」
……俺は黙ってしまった。
記憶喪失……なのだろうか。少女はこの世のものとは思えない程に美しい。遺伝を繋いでいけば、どんなに美男美女の間に生まれた子供であろうと骨格やほくろなどの部分で欠点はあるものだ。それが一切無く、なおさらに異界の存在なのではないかと思ってしまう。
人生に悩んで自分がどんな存在なのか悩む時もあるだろう。自分と環境を切り離し、客観的に己を見極める日は誰にでもあるものだ。
しかし……そんなややかしいものではなく、単純に何も分かっていないように見えるのは、俺の目がおかしいのか。
「んーと、家どこだよ。迷子なら送ってやるけど」
「家は無いよ。家族もいない。それに、私って人間じゃないかもしれない」
「と、言うと?」
「ほら」
少女は人差し指を立てると地面に向けた。指先が緑色に光り、そこから光線が発射されて転がっていた小石を消し飛ばした。
消し飛ばしたのだ。
「……ん?」
「分からないんだよ。私はさっき生まれたばかりだから」
「そのビームどうやって出したんだ」
「空気中に漂っている紫の粒みたいなのを集めて、ほら」
次に光線を出し続けながら延々と8の字を描き始める。
いきなりの幻想的な現象に俺はパニックを起こしていた。
「紫の粒って……どこにあんだよ」
「見えないの? 見ようとすれば見えるし、見えないようにすれば見えないけれど、見たこともないのかな」
「分かんねぇ……」
すると少女は左手の人差し指をこめかみにトントンと叩きながら、何かしらのアイデアを叩き起こそうとする。そしてすぐに何かを思い付き、光線を出していた指で宙に円を描くと、平らで丸い透明の何かが出来上がる。
それを俺に渡した。
「なんだこれ」
「私の角膜。多分、そこから世界を覗いたら、私の見える世界を共有出来ると思う」
「変なやつだなぁ」
言われた通りに虫眼鏡の要領で外を見てみる。
……なんと、本当に紫色の粒子が気持ち悪いくらいの量で舞っているではないか。再び光線で8の字を描いている少女の指先には、その粒子が集まっていた。
次の言葉が出てこない俺の返事を待っていた少女は、やがて再びしゃがみ込んでしまう。
「私、気持ち悪かったよね。生まれた理由も分からずに何してるんだろ」
「……」
「何も思い付かないんだ。髪だって、夕陽になる前は緑色で、今は銅色。夜になるとどうなるのかな。どうでもいいんだけれど」
「これからどうするんだ」
「……色々考えてみて、私は多分、死んだ方がいいかなって思った。だから……死ぬかな」
──俺は荷物を左手と左腕に移動させ、右手で女の腕を掴んだ。
彼女はされるがままに俺に引っ張られていく。歩幅と速度の違いで転びかけそうになろうとも、俺が無理矢理立たせるように引きずる。
「い、痛いよ」
「俺の家に連れて行ってやる。その後に生きるか死ぬか、その運命は自分で決めろ」
「急になんなの……」
急に現れたのはそっちだ。俺みたいなこと言いやがって。
これは悲しみに違いなかった。持てるもの全て持ちながら、飽きたとか、意味が無いとか、そんなもので全てを捨てることなんてないじゃないか。
俺は俺の世界で飽きて、彼女は彼女の世界で飽きている。俺にとっては彼女の景色は壮大であっても、彼女はそんなものちっぽけに感じているだろう。だがその逆も然りのはずだ。
パズルなどは繰り返し遊ぶものではなく、頃合いに変えていくもの。それを適度にするには相手が必要だ。自分と相手、両者の困難や苦境を支え合っていくことで真実は百八十度反転する。
彼女はまだ後ろの景色を知らない。前しか見えず、自分だけの世界で一番の走者となったところで、一人では何の意味もない。
俺がお前に教えてやろう。生きることの素晴らしさってやつを。
やがて俺の家に着く。草花もなく飾り付けなど特にされていない、どこにでもありそうな一軒家だ。
鍵を解いて玄関の靴置き場に入り、俺はすぐに靴を脱いだのだが、彼女はブーツを履いているがために止まらなければならなかった。
なんともまぁ、格好がつかないものだ。このまますぱっと場面転換出来ればドラマ性が生まれるというものを。
故に、手は離さなければならない。無理矢理に生きる理由を与える為に無茶苦茶に引っ張って来たが、理性を司る人間だからこそ自由がやって来るのだ。
「……」
俺から手を離されて、逃げられる機会を得られる。彼女は数秒何もせずに立ち尽くした後、黙って靴を脱いだ。
「来いよ」
もはや掴むまい。彼女から目も離し、リビングに入って明かりのスイッチを入れた後、部屋の中央にに設置されているソファに座った。
向かいのソファに囲まれるように置いてあるテーブルに荷物を乗せて、通学用の鞄から道徳の教科書を取り出して読む。
「……それで、私に何をさせたいの?」
「座れよ」
あえて見ない。彼女の足音が近付き、向かいのソファに腰掛けた。
「何を見てるの?」
「一度も読んだことがないやつ。今読まないともう二度と読まないだろうなって思ってな」
「楽しい?」
「つまんね」
文字が全て頭の中に入っても、だからなに、と自身に問うと何も答えられない。
『だからなに』なのだ。俺の今までの行動全てに対して、意味を見出せない。変わったことをしようとも、そんなもので喜怒哀楽すら生まれはしない。
「何をすれば私が生きたいと思えるようになるのか教えてよ」
「なんだよ……お前、もしかして機嫌悪いのか?」
「そーかもね」
彼女は腕を組むことも、足を組むこともしない。楽な姿勢やかっこぶったりかわいぶったりもせず、膝の上に手を重ね、じっと俺を見つめている。
俺は……男だ。女の考えていることは想像出来ない。変に病んでいたり、変なところで強情だ。外部と内部という区切りのある『家』で、常識という名の仮面を外せるこの内部でも、やはり他人では隔たりがあるか。
……ふと気付いた。この幻想のような少女は、現実なのではないかと。
今生まれたばかりで、世間を知らず、魔法を使える正体不明の女の子。それ以上でもそれ以下でもなく、俺が彼女を詳しく知らないように、彼女も自分のことが分かっていないのだ。
するとまるで何にも染まらない純白のシーツのような、純粋な存在に見えてきた。変化の無い日常から抜け出す気力のない俺には、道を示してあげることにたまらなく身が重くなる。
まだ俺を見ている。テレビも、台所も、本もあるというのに、俺の姿に何を得られるというのか。
「気になるものはないのかよ」
「……ないよ」
「なんで死のうと思ったんだ」
「生きる理由がないから。縛られる必要が無くなったら誰だって今すぐ死ぬんじゃないかな」
「たとえば」
「家族、友人、知人、国、職場……自分が死ぬことによって悲しんだり、不利益を生むことを分かっていれば気分が悪くなるはず。だから死ねないの、多分みんなが」
「そんなご大層なお考えとは、さぞかし立派なお家柄なんでしょうな」
「それは分からない。私は今生まれたばかりの赤ん坊のようなものだよ。ただ、空っぽの頭に変な知識が入っただけ。他人の脳味噌を無理矢理ねじ込まれた感じなんだろうね」
「脳を入れられたらそれはもう他人だろ」
「……違うよ。心があるからさ」
「魂があるってか?」
「こんな話は知ってるかな。人格を作るのは半分は遺伝子で、もう半分は環境だって。どんなに環境が良くても遺伝子で悪くなるし、どんなに遺伝子が良くても環境で悪くなる。あなたはどうかな、遺伝子は良い方? 環境は?」
「遺伝子は最悪だな。環境は……まあ、少し悪いかもしれないが。お前は?」
「多分ばっかでつまらないかもしれないけれど、きっと私は最高に優秀だと思う。客観視って言っても、そうだね、比べる対象が分からないよね」
「……なあ、この話が終わったら死のうと思ってるだろ」
「うん」
「俺と知人になって、悲しまれるのがそんなに嫌か?」
「嫌だよ。繋がりを持てば持つほど辛いだけ……。何も成せないのなら、何も知らない内に消えたい。そうじゃないの?」
「それは主観だ。お前は人間というものを分かっていない。犬猫、熊、鯨のあらゆる生き物の頂点に位置する人間は、身の振り方一つで世界を動かす。どんなに定められた運命から外れようと、出来た出来ないに関わらず人の意思は人が受け継ぎ、文明に交わるんだ。生きてようが死んでようが個人意思は消えはしない。死ぬ意味なぞ生きるよりもくだらん」
「生きることに絶望している人はどうするの?」
「もう受け入れるしかないだろ! お前、いつまでくだらねぇわがまま言いやがるんだ! どんなに未来が残酷でも生き続けなければならない責務がある!」
「責務……?」
「生物は生きているだけで生物を殺している。菌だか虫だかもそうさ、それらを殺して生きていやがんだよ俺達は! 最初から死にたい奴なんてそもそも生まれてきさえしねぇし、生きなきゃいけないから今ここにいんだろうが。今生まれたばかりだというのなら、死ぬまでいきやがれゴミが!」
「そ、それは……そんな……言ってしまうなんて……」
……死人が一丁前に涙を光らせる。もはや、言える言葉は見つかりはしなかった。
教科書を放って台所に立つ。冷蔵庫を開けて数十個も置かれているタッパーの一つを見繕う。
「俺はね、料理は苦手なんだ。肉なんて焼いて食えれば何でもいいし、野菜なんて洗って煮るだけで満足だから。わざわざ味を付ける理由が分からないから下手ってわけさ。仲間の心巳は笑顔で食べていたが、ありゃあどうも嘘のようでな……」
蓋を開けて電子レンジに入れて温める。機械音を聞きながらお互いに一分間黙った後、箸と中のタッパーを持って彼女の前に置いた。
甘い匂いが俺と彼女の間に漂う。
「これは?」
「揚げ豆腐だ。心巳が作った」
彼女は箸を手に取り、綺麗な箸捌きで豆腐を分けると、小さな口で味わう。
それを見ながら俺は再びソファに戻った。
「上手く作れているはずだ。舌触りといい、甘さといい、何もしつこくない。複数の品を食べてもそれぞれの味を邪魔しない見事なバランスで、水で一口すすげば何も残らないだろう。お前にこれが作れるか?」
「……無理だよ」
「無理じゃない。俺もお前も作れるはずなんだ。心巳と同じことをすれば同じものが出来るんだから。ただその経験すらせずに分かったようなことなんて言えるのか? 死ねば楽なんて、誰が言ったんだってんだ」
「もういいよ」
テーブルに料理を置いて立ち上がった。そして部屋から出ようとする。
「どこ行くんだよ」
「外」
「帰る場所なんかあるのか?」
「外」
「好きなだけここに居ろよ」
扉の前に立つ彼女を押しどけてリビングを出る。羽のように軽く下がるので、俺は少し反省した。
「俺は和々切占七って言うんだ。占領に七日でせんなの。お前は?」
「七日のナノなんて変な名前」
「だが、気に入っている」
「ヨウカでいいよ。葉っぱに華で葉華【ようか】」
「葉華ねぇ。欲のない名前だ」
何にしても、人生論を語り合うにしては名前すら知らなかったとは、ほとほと呆れたものだ。他人でしかないということなのに。
しかも俺には下心のような欲がないという。尚更不思議だ。
風呂場に替えの服とタオルを用意しながら、大きく声を出して葉華を呼ぶ。
「風呂入れよ! シャワーだけどさ」
「……呆れた。本当に好きなだけ居ていいんだ」
「今生まれたばかりで住む場所が無いってこと、信じてみようと思ったからな」
「頭のおかしい人だと見られるだろうねー」
「他人には別にどう見られてもいいんだよ」
葉華も風呂場前に入って来た。言葉の印象とは反対に姿勢はやけに綺麗なのが彼女らしさか。
彼女は用意された服を手に取って小首を傾げた。
「占七さん、お姉さんか妹さんが居るんですか?」
「違う、これは心巳が置いて行ったものだ」
「下着まで……盗んだものだったり」
「そんなことあってたまるか。そんなことしたら自分で自分を殴るね」
「そのさっきから言ってる心巳さんってどんな人なの?」
「この世の全ての美しさを凝縮したような、ミス・パーフェクトってところかな」
「信頼してるんだね」
「いつも俺を支えてくれるんだ。魂の片割れだよ」
……あんまり見るのも気が引けてくる。これ以上関わると流石にしつこいか。
じゃ……と背を向けて離れようとするが、葉華が声を掛ける。
「ありがとう。私の為に色々とね」
「自分の信念に従っただけさ」
「私の為に……でしょ?」
「どう受け取ってもらっても構わないが」
「どうこうじゃなくて、シンプルに私の為だから。占七さんの性格分かっちゃったなぁ」
振り返ろうとする俺の背を押して、戸が風を切るようにピシャリと閉まる。
捻くれた答えを返そうとしていることが気に食わないのだろうか。それとも俺の存在が邪魔に感じたのだろうか。その力はやけに強かった気がする。
「覗いたら承知しないから!」
「承知しなかったらどうなるんだ」
「ボコボコにしてうーうー呻いても知らないフリをするってこと! オーケイ?」
「そりゃあ怖いことで」
生力の抜け切ったパサパサのパンのようだった彼女に、僅かながら感情が出てきている。どんな幸せも絶望の前では意味がないと思うが、少しは希望を持ってくれたと信じたい。
二階への階段に座り、天井を見上げる。一人になってすることと言えば空を見ることくらいしかないが、それが癖になってか暇になればところ構わず上を向いている気がする。
空の向こう、宇宙の果てに魂が吸われているような、自分という足枷から解放される感覚が忘れられない。
ゲームをするにも、物を食べるにも、心巳が居ないとダメな男なのだ。彼女が来てくれるまでの残りの時間、いつもこうして待っている。
悲しいかな、若く未来がありながら、何かに打ち込む気力が無い。老人のような、老いゆえに肉体も思考も衰えて多くの壁に激突して病んでいくものを、俺は感じてしまっているのだろうか。
中学二年生。高校生に進学して、残業のないホワイトな会社に入社して、人付き合いで飲みにいく。今の俺が辿る末路はこんなものだ。そんな分かり切っていて、脳内で簡単に予想ができる未来なんて、わざわざなぞる程の価値があるとは思えない。
しかしそれ以外に打ち込もうとも思えないのだ。神が実在するのなら教えて欲しい。自分という存在にどれ程の価値があるのかを。神である自分にどれ程の自信があるのかを。
「……和々切占七は、男である」
立ち上がった。時の流れの中のゴミみたいな何かにぶつかって、透明な痛みに反応してしまったのかも知れない。
ここだけの話、知らないものを知ったようにしか言えないなら死ぬべきではないという話は嘘である。月日が経てば必ずバレてしまう悪手のキーワード。
ただ考え方によってはクレジットカードのような、嘘を本当にするまでの借り期限だというものがある。例えば日曜日、部活で朝練があるにも関わらず、遊びの約束をつけてしまったとしよう。朝練があるのだから行けるわけがないのだが、その日になるまでに部活を休めれば嘘ではなくなるのだ。
そう、無理を通すことこそライアーマスター。俺が今からしなければならないことは、葉華が凄く嫌がっていた生きる喜びを教えること。
今から死んでこれから先の嫌なことから逃げ出したいという、理解してしまったら人生終わりのとんでもない思想を払拭することなのだ。
だから俺は知る必要がある。葉華の言った……今生まれたばかりで何も知らないという嘘の中身を。
人は赤子から成長する。カエルの子がおたまじゃくしのように、最初からカエルだというのはありえないはずだ。いや、俺が知らないだけで、世の中カエルのまま生まれる生き物もいるかも知れないが、例えなんかしなくても人が人のまま生まれるなんてこと聞いたことがない。
はぁい、初めまして。僕はコウノトリさんに運んでもらってやってきたあなたの赤ちゃんのセンタロウです。
ないないない。
まず俺は、シャワーの弾ける音が聞こえた頃を見計らい、戸を音の出ないように引いた。
やけに綺麗に畳んである葉華の衣服に触れて、何か正体に近づけそうなものがないか探る。
所々でごつごつとした感触があり、それらがコートの内ポケットや足に巻き付けるレッグホルダーのようなものなどに入っていると分かった。数はざっと数十はのぼる。
光沢があって金属質な……これは銃? 折りたたみ式のナイフ、鉄の注射器四本、手榴弾三つ、グレネード付きサブマシンガン、小太刀二振、後は弾丸多数といったところ。
戦争でもしに来たのかという程のやばさだ。だがたしかに、目が覚めた時に手元にこんなものがあったのなら、誰でもブルーな気持ちになるだろう。
試しに小太刀を抜いて、水面台の端に刃を当ててみた。
……スゥ。
おっとっと。豆腐のようにぬるっと切れちまったじゃねぇか。
本物かどうかを見極めるどころか、本物を越えて最高の武器だった。これが例え女、子供が振り回したとしても屈強な男はバラバラにされて殺されるに違いない。
俺は理解し始めていた。このサバイバルゲームでありそうな武器の数々は、本物だとしても見た目以上の性能を秘めていると。
銃弾の中で変な拳銃とサブマシンガンしか無いのだから二種類だけかと思いきや、どこで使うのやら四種類もある。一番小さいものがサブマシンガン用なのは分かるのだが、恐らく変な拳銃用の金色の弾。ピカピカ過ぎて光の反射が眩しい銀色の弾に、人差し指程の大きさの弾。
……何故なのだろう。異常な大きさのこの弾を見ると、冷や汗が出てしまうのは。
そして、これを葉華が扱うとしたのなら……。
子供の考えそうな空想と笑ってくれ。俺は馬鹿なことを考えている。
葉華は──最強の兵士ではないだろうか。最高の科学に、最高の魔法。それらを掛け合わせて最強の技を出せるとしたなら? 人差し指程しかないこのちっぽけな弾丸で、世界を滅ぼせるとしたなら?
どこかで……どっかで見た気がするんだ。こことは違う世界で、たった一発で全てを滅ぼした光景を。
俺はすぐに出したものを全て元に戻した。これ以上見ていると気が狂ってしまいそうだ。
幼い頃から銃を見ると気持ちが昂るというか、眠気が醒めるほどに意識がさっぱりとする。魅了されているのだ。いつか俺は銃を手に、人を殺すのではないかと恐れている。
ほら……今がその時じゃないか。
──風呂場の向こうの女に銃口を向ける直前、外から心巳の悲鳴が聞こえた。
あいつがあんな声を出したのは、俺が川で流されそうになった時くらいしかなかった。そのくらいの緊急事態な訳だ。
音も気にせず戸をガバッと開けて「きゃっ!? 覗かないでって言っ」、靴も履かずに外へ出た。
陽のない暗闇の中、屋根の上に飛び移って辺りを見回す。心巳が家の前で、着替えの入った鞄を持って空を見ていた。
その先、熊の毛皮を身に纏ったような、六メートルはありそうな巨大なバケモノが心巳を見下ろしていた。
「ぐっふっふ、混じり気のない純粋なおなごかい。んぅー、お前は……冷たくも後味の残らない闇の匂いがする」
「なんです、私に用ですか!?」
「お前じゃないんだがなぁ、美味そうな匂いがしたんだが、お前でもいい。オレに喰われろ」
牙をむき出しにし、大きな黒い鼻が心巳の髪に触れそうになる。バケモノは彼女の反応を待っているようだ。
さっさと襲えばいいものを……。そうすれば、俺は何の気後れもなく引き金を引けるというのに。
「……どうしました。躊躇でもしましたか」
「なに……。このオレに少しも恐怖を感じていないことが不思議でな。震える声と体も演技かい」
「ここで……死ぬつもりはないってんです」
「違う、違うな。甘く見るんじゃねぇぞ。図体がでかい分、脳みそもいっぱいつまってんだよ。なんだなんだお前は……気味が悪くなってきやがったぜ。どこにでも居そうな羽のような女かと思えば、絵に描いたように真っ白でいやがる。服の下の皮膚、その下の肉、さらに骨や内臓、詰まってるものはあらかた分かるが、実際に見ているわけじゃない。人間をただの人間だと思うのは、それはただの思い込みに過ぎず、実際には身の毛もよだつ怪物かもしれない。オレは騙されてたまるか、お前は闇そのものだ! 皮一枚捲れば全てを葬る闇なんだ! なぁおい、オレがお前に危害を加えた場合、どうする気だったのか教えてくれないか? お前のその分厚い仮面が外された後、なにをしでかす気だったんだ!?」
……みるみると、よだれと鼻水がだらだらと垂れてきて、体を震えさせて後退りする。
奴の泳いだ目が必死に心巳へと合わせようとするが、それを体が拒絶して首が横を向こうとしている。
ただのか弱い小娘が恐ろしいのではない。相手の行動理由に獣の本能で危機を察知したのだ。
熊が逃げる相手は追って、面切って睨む相手には警戒するように、何かの反撃を避けたいものだろう。いくら体格差があって、鉄板を切り裂く爪を持っていたとしても、相手のよく分からない筒のようなもので仕留められられるのだ。
「……」
「なぜ答えない! なぜ逃げない!? お前なんぞ指先一つでコンビーフに出来るんだぞ!」
「……だから、やってみなさい」
「こ、このバケモノめ!」
──それは、自分の記憶に刻む為の仕草だったのだろう。
巨漢が人差し指を向けた刹那。彼方空から水飛沫を散らしながら、三日月の残像が光る。
高速回転によってまるで円に見える物体が巨漢の右腕を通過し、スッ……と着地した。
水濡れのエメラルドの長い髪と目。白い体にバスタオル一枚を巻きつけたそれはまぎれもなく葉華だった。
どろりと血が流れて巨漢は後退る。傷口を抑えて狼狽している。
「お前が現人神か……! オレはこいつを探していたんだ!」
「……畜生か」
葉華は立ち上がり、血に濡れた太刀を振り払った。それは血の刃と化し、アスファルトの地を抉る。
あれは脱衣所で見た小太刀か。その鋭利さゆえに斬撃波も放つか。
「よく分からないんだけど、こんなただの女の子に牙を剥くなんて見過ごせない」
「いいさ……そのままオレを見ていろ。お前を喰うのはこのオレだ! ぐふふふふ」
「それと。乙女の白肌を不敬にも見た大罪は、死をもって償わせてやる」
──なんだ、この胸糞悪さは。
新聞やラジオなどから情報を仕入れることはあまりないが、全く無いとは言い切れない。知人やクラスメートの噂話から間接的に世間を知ることもあるだろう。
その俺があの男を許せと訴えている。近隣で殺人事件や失踪事件は起きておらず、かつ心巳に危害を加える気配は少しもない。見た目がバケモノだとしても、俺の目には真っ白に映っているのだ。
それを葉華が殺す? 駄目に決まっている。まだ悪いことは起きちゃいない!
……俺の想像が正しければ、僅かな隙を作ることで奴は逃げるはずだ。葉華の圧倒的な力に、無謀にも立ち向かうはずがない。
奴が死んでしまう前に手を打たなければならないのだが、俺の手元には銃しかない。これで葉華を撃てば奴は助かるが、かといって彼女を傷つけたくもないのだ。
最善手は……これしかないな!
「葉華ぁあああああ!」
俺は立ち上がり、肺の中の空気を出し切るように声を上げた。
見上げる葉華の目が月の光でキラリと光り、パッと笑顔になるかと思いきや訝しげな表情をする。
「占七さん!?」
「これを使いやがれぇええええあああ!」
左脚を天高く突き上げ、全体重を乗せて銃をぶん投げた。
電動パイプカッターのノコギリのように空気を切り裂きながら向かうそれは、もはや砲弾と化していた。
葉華は流石だった。自身に迫る危機に反応を追いつかせ、小太刀を落として両の手を前に突き出す。
──刃がアスファルトに沈み、鍔が引っ掛かった頃。葉華の頭には銃が打ち付けられていた。
手が虚空を彷徨い、やがて動かなくなり、仰向けになって倒れる。
その隙に奴は音なく消えていた。血の跡が確かに存在していた証で、俺の中である希望を抱かせてくれた。
そうさ、葉華のために……。
一方、黙って立っていた心巳は刺さった小太刀をすぅーと抜くと、倒れた葉華の側に膝をついてバスタオルに触れる。
心巳の目がギラリと光る。
「占ちゃん趣味わるーい!」