お前はいったい誰だ!
夏の日の夜、11時前後だろうか。僕はまたあの道の入口に立っていた。
この道に決まった名前はない。まっすぐ帰宅するよりは15分ほど遠回りになる程度の、帰宅ルートのひとつだ。
インターハイが終わるまでは部活の練習に全力を出していたから、とてもこの道を通って帰る余裕がなかった。今はもう引退して、放課後は大学受験にむけて勉強をする毎日だ。
今夜はたまたま気が向いた。なぜ僕がわざわざこの道を通って帰るのかというと、秘密があるからだ。たぶん学校では僕だけが知っている。誰が見たって普通の道だと思うだろう。左右には住宅が並んでいて、街灯も行く先々に点在している。人の通りは少なく、夜中でも歩きやすい道だ。
一つだけ、絶対に破ってはならないルールがある以外は。
『坊や、真夜中にこの道を進むときはね、決して振り返ってはいけないよ』
おばあちゃんの声が、脳内で再生された。子どものころに聞いた、おばあちゃんの話が本当なら、これから道の終点まで後ろを見ずに帰らないといけないのだ。
とはいえ、振り返ってはいけない道の怪談なんて、どこかで聞いたことのある人も多いだろう。怪談に限らず、漫画やゲームでも出てくるありふれたシチュエーションだ。
僕にとってはちょっとした肝試しのようなものだ。手軽に非日常を体験したいだけなのかもしれない。それに……小学校に入る前に亡くなってしまったおばあちゃんの思い出を呼び起せる、貴重な場所でもある。
左側に、今どき珍しい木製の電柱が立っている。この電柱を境に振り返ってはいけない帰り道が始まるのだ。いつも通り、僕は始めの一歩を踏み出して、薄暗い夜道を――
おおい。おおい。
人の声がする。後ろからだ。知らない人の声。僕を呼び止めようとしているのか?
だけど、振り返らない。もう、その領域に入ってしまっている。いつまでも続く呼び声を無視して、僕は前へと進んだ。
歩きながら、僕は暗記したばかりの数学の公式を思い出していた。公式と公式の合間に、おばあちゃんの顔が浮かんでくる。
おばあちゃんの顔はすごく印象に残っている。シワが深く、眉間の部分はデコボコしていて、女性とは思えないほど鋭い眼光をしていた。実の息子である父さんと話す時でさえ、近寄りがたい雰囲気を崩すことがなかった。
でも、僕と話をする時は顔の皮膚を思いっきり弛ませて、まるで子供に戻ったかのような無邪気さを見せてくれた。
後でわかったことだが、あの時のおばあちゃんは遺産の相続問題で大分揉めていたらしい。父さんにも警戒心を解かなかったあたり、僕には想像もつかないドロドロとした駆け引きが展開されていたのかもしれない。だからこそ、そんなものとは無縁の存在である僕とは――
ふぎゃあうぅ。
なんだ? 何かが僕の横を通り過ぎた。黒くて、結構大きかった。何の動物だろう。聞いたこともない鳴き声だった。
しかし、振り返らない。鳴き声の主が気になるけれども。僕は後ろを若干警戒しながら、少し早足で前へと進んでいった。
今夜はもう2回も誘われてしまったな。
空と道との間にある暗闇を見つめながら、僕は苦笑する。この道を歩いていて、後ろを振り返りたくなるような出来事が起きたのはこれが初めてじゃない。でも、今までに振り返ったことは無い。これからも振り返るつもりはない。
おばあちゃんの声が、また頭の中で聞こえてきた。
『その道で振り返ってしまったらね、帰れなくなってしまうよ』
帰れなくなる。それは何かに連れて行かれるのか、それとも別の世界に移動してしまうのか、色々想像してみるが、その答えはもはや知りようがない。
初めて話を聞いたときに、怖がって布団に潜ってしまった自分が情けない――というより、惜しかったと後悔する。あの時、帰れなくなるとはどういうことなのか、詳しく聞いておくべきだった。僕が高校生になってもこの道に興味を持ち続けているのは、もしかしたら、答えを知りた――
ガチャアぁん。
ガラスの割れる音がした。首筋と肩の間がきゅっと狭まる。なんだ、いったいどこのガラスが割れたんだ。
それでも僕は振り返らずに、その場に立ち尽くして、耳に神経を集中させていた。
まもなくして、男女が言い争う声が聞こえてきた。その合間に、何かが割れるような音もする。どうも、左側の民家の方から聞こえてくるようだ。
何を言っているのかはっきりとはわからない、でもだんだんと語気が増していくのはわかる。
殺してやる、という言葉と、刃物を引き抜くような金属音が聞こえた時、僕は身震いしてその場を駆け出した。
だいぶ走ったせいもあるけど、まだ胸が変な鼓動を打っている。
3回目だ。3回。2回はあったけど3回なんて初めてだ。だけど心配ない、何回起ころうが結局は振り返らなければいいだけの話だ。それに、この道を通るのは今夜で最後にしようと思っているから。
もう僕は高校生になって、幽霊とか、妖怪だとか、そういった怪談話を信じる心は薄れていったけれど、おばあちゃんが話してくれたこの道の秘密だけは、今でも頭から離れないでいた。この道には日常にはない何かがあると、胸の底で信じ続けている。
またおばあちゃんの声が聞こえてきた。
『この世にはね、人間ではどうしようもないものたちが沢山潜んでいるんだ。悪いことをして、うまく隠したつもりでも、それはちゃんと見ている。そう、必ずさ。だから、坊やも悪いことをしちゃだめだよ』
人間ではどうしようもないもの。今もそいつは暗闇の中から僕を見ているのだろうか。だとしたら――
ごらあぁぁん……カラン。
なにか落ちた。後ろの方で。金属……金属バット? いやいや、こんな所で金属バットが空から降ってくる訳ない。もういい。帰りたい。
僕は恐怖を感じていた。いままでこの道を通ってきて、初めての恐怖。
ああそうだよ。今日で最後にするつもりなんだ。来週になったら受験対策で市外の塾に通う。そして来年になったら県外の大学に行く。もう真夜中にこの道を通る機会は無くなるんだ。
誰に言うでもない独白を、心の中で吐き出す。
だったらさ、振り返ってみればいいじゃないか。これで最後なんだから。今やらないと振り返ったらどうなるのか、永遠にわからないままだぞ。そもそも、僕はなぜこの道に度々足を運ぶんだ? 思い出を懐かしみたいから? 違うだろう。振り返ってみたいんだろう、本当は。……そんな馬鹿な!
狂気のような突拍子もない考察を、理性で掻き消す。
その合間に、おばあちゃんの声が頭に入り込んでいく。
『坊や、それは見ているんだよ、ずっとね』
……だいぶ落ち着きを取り戻した。まだ背中に湿った汗の不快感が残っている。だけど、もう少しで振り返ってはいけない道は終わりだ。交差点の信号が見える場所まで行けば、終点なんだ。
僕は俯きがちだった顔をあげた。
そこには、誰かがいた。
道のど真ん中に、人影が立っている。右手には、何か物を持っている。小さな声で、何か喋っている。どう考えても、普通じゃない。
誰だ? 何を持っているんだ? 何を言っているんだ?
素性を確かめたかったけど、街灯が逆光になって足元しか見えない。声も小さすぎて聞き取れない。近づくこともできなかった。……恐ろしくて。
僕が動けないでいると、影の方から、徐々に近づいてきた。
来るな。誰かのイタズラであってくれ。そうだ、今までだって、岡本か沢田あたりが僕を驚かそうと仕組んでいたイタズラだったんだろう? そうだと言ってくれよ。
影は僕をいたぶるように、じわりじわりと距離を詰めていく。そしてついに、右手の物を振り上げて、僕の方へと走り出してきた。
僕は恐怖のあまり、頭を隠してしゃがみ込んだ。辛うじて一言だけ、声を絞り出すことができた。
「お前はいったい誰だ!」
――――。
――――。
数分ほど経っただろうか、あたりには奇妙なまでの静寂が残されていた。
……? 何ともない? あ、あの影はどこへ行った?
かなりの勢いで僕に突っ込んできた。なのに、ぶつかりもしなかった。後ろの方にもいない。周りには隠れる場所もない。あれはいった――
あ。
――――。
――――。
あ、あ、ああああ!
振り返った!
振り返ってしまった! さっき後ろを確認したときに!
少し緩んでいた気持ちが、あっという間に恐怖の波にさらわれてしまった。心臓が暴れる。体が震える。汗が吹き出る。呼吸が苦しくなる。周りの景色がうねって見える。
『振り返ってしまったらね、帰れなくなるよ』
ど、どうなるんだ。僕はこれからどうなってしまうんだ。帰れなくなる? どこかに連れて行かれる? 別の世界に迷い込んでしまう? それとも……殺される!?
僕は一番近くにある電柱に必死の思いで縋り付いた。そして電柱に背を預け、その場に座り込む。
今、目に見えるもの全てが、僕に襲いかかってきそうでたまらない。まぶたに涙が溜まっている。理性に訴える力なんて残っていなかった。ただ、ただ、自分に降りかかる運命を受け入れるしかない。そんな状況だった。
だけど。
――――。
――――。
だんだんと、汗の冷たさを肌で感じるようになってきた。心臓の鼓動も、呼吸も、元のペースに戻りつつある。
何も……起こらない?
警戒しながらも、僕はゆっくりと立ち上がった。
何も起こらない。
電柱に体を寄せながら、あたりを見渡す。
何もない。誰もいない。
いくぶん頭も冷静になってきて、振り返っては行けない道の終点がすぐそこにあることに気付く。2つ先の電柱が、信号機の光を反射して赤く染まっているのだ。
瞬時に、僕は電柱から飛び出した。必死の思いで駆けて、駆けて、電柱にしがみついた。
僕は信号機が放つ緑色の光に迎えられた。信号機のある交差点、そこを通る車もはっきりと確認できる。
そして僕には――ついに、何も起こらなかった。
――――。
――ふふっ。
ははははははははっ!
なあんだ。結局、ただの怪談話だったんだね。
体の中心を、乾いた風が通り抜けていく。いままで頭に絡みついていた、錆びついた鎖、それが解け、こぼれ落ちてゆくような感じがした。
帰ろう。
そう思って交差点を渡ろうとした時、あの影が頭に浮かんだ。
あれは何だったんだ? 道の最後で遭遇した、正体不明の人影。変質者か、不審者か、それとも、通り魔的なやつか。どっちにしろ、危険人物だ。あのまま野放しにするのは良くないな。
僕の頬を、信号機の赤い光が照らしはじめた。
あの影の正体だけは、確認しておこう。写真でも撮って、警察にでも連絡すればいい。
僕は、帰り道を引き返すことにした。
逆側から進んでみると、慣れていたはずの道がやたらと新鮮に感じられた。体も軽い。思わずスキップしたくなる。
少し進むと、電柱の近くに何かが落ちているのを発見した。
血の付いた金属バット……ではない、錆びた鉄パイプだ。
さっきの金属音は、これだったのか。
僕は足で蹴って、鉄パイプをどかした。鉄パイプはカラカラと音を立てながら道路脇に転がった。そこにはさらに何本かの鉄パイプと、置きっぱなしの工具箱があった。
何かの工事をして、そのまま放置していたのか。杜撰な管理だなあ。……待てよ、あの影は何か武器みたいなものを手にしていたな。こっちも何か持っていた方がいいかもしれない。
僕は工具箱の中を探り、腕半分ほどの長さがあるレンチを見つけた。
ちょっと、借りとくよ。
武器があれば心強い。僕はより堂々とした気分になって、道を歩きはじめた。
だんだんと、遠くから話し声が聞こえてきた。男性と女性がそれぞれ、何か話している。女性の方は声というより叫びに近い。そして道には、街灯に反射してキラキラと光る何かが散乱していた。
そうそう、ここらへんでガラスが割れる音がしたんだっけ。
散らばっているのは――割れた皿に茶碗、スプーンやフォークなどの食器類、潰れた人参にトマトまであった。
僕はちょっと背伸びをして、声がする塀の向こう側を覗いてみた。アパート一階の窓ガラスが、豪快に割れている。中の様子も丸見えだった。女性は包丁を持ったまま、顔を手で覆ってヒステリックな声を上げている。男性の方は対照的に、身振り手振りを交えて必死な口調で宥めすかしている様子だった。
やっぱり夫婦喧嘩か。あんな大声で叫んで、ガラスも割って、道路に物まで散らかして、近所迷惑ってレベルじゃないな。どうせなら、もっとド派手にやって警察に捕まっちゃえばいいのに。
僕は踵を返して先に進もうとした。ふとそこに、割れてない皿がそっくりそのまま落ちているのに気がついた。それを拾って、アパートの部屋に向かって投げ返した。
鈍い音がして、それから女性の悲鳴が聞こえた。僕は前に進みながら、後方で響く喧騒を聞いてほくそ笑んでいた。
真ん中あたりに来たとき、前方の暗闇がわずかにうねっているのに気がついた。
誰かいる? あの時の人影か?
僕は持っていたレンチを握りしめ、身構える。首を左、右と傾け、街灯の角度で相手の姿を確認できないか試みる。
だが、どうやらあの影とは違うようだ。まず、目が光っていた。その目は一時も揺らぐことなく僕を見つめている。そしてその目の位置は、僕よりもいくぶん低いところにあった。僕はじりじりと、影との距離を詰める。近づいてみると、暗闇に浮かぶ瞳は震え、唸り声も聞こえてきた。
次の瞬間、影が飛びかかってきた。僕はすぐさまレンチを振り上げ、思い切り叩きつける。
石を割ったような感触と、鈍いうめき声が聞こえた。影はその場に倒れたまま、動かなくなった。僕はその正体を確認する。
なんだ、ただの黒猫か。あのままどこかに行ってれば、こんな目に合わずにすんだのに。
黒猫はもう、ピクリとも動かない。近くにできた赤黒い血溜まりが、その状態を雄弁に説明していた。
僕は黒猫を道の脇に退かした。明日になれば誰かが――あるいはカラスが掃除してくれるだろう。レンチを見ると、少しだけ血が付いていた。
さらに道を行くと、人が寝ていた。初老のおじさんらしき人。電柱に辛うじて頭だけもたれていて、首から下は道に投げ出されていた。
あまりに顔が真っ赤なのでちょっと心配になったけど、無視して先へ行こうとした。が、ちょうど横を通ったときに目を覚ましたらしく、呼び止められてしまった。
おおい、と声をかけられた時、気がついた。あの時の声だ。ゆっくりと起き上がったおじさんは何やら知り合いみたいに僕に話しかけてくるが、僕はこのおじさんが誰なのか全く見当がつかない。赤の他人だ。
どなたですかと尋ねても、おじさんは口を止めずに喋り続ける。舌足らずな言葉はほとんど聞き取れず、口を動かすたびに酒臭いニオイが鼻を突き、飛んだツバが服にかかった。
僕はレンチを大きく横一線に薙いだ。がくん、と衝撃が手に伝わり、おじさんは顔の下半分が大きく崩れた。
おじさんの顔からは一気に血の気が引いていた。真っ青だ。何かを叫ぼうとしていたが、顎が外れているのでまともに声が出せていない。そのまま顎を手で抑えて、走り去ってしまった。
僕は思わず笑ってしまった。おかしかった。走り去る途中で部分入れ歯まで落っことしていきやがった。僕は入れ歯を踏みつぶして、さらに道を行く。
ついに道の入口まで戻ってきた。僕に襲いかかってきたあの影は、もう遠くに行ってしまったのだろうか。
でももう、そんな事はどうでもよくなってきた。僕は今もピンピンしてるし、あの時振り返らせようとしたやつらも、てんで期待外れのくだらないものばかりだった。
どんな恐ろしいものかって思ってたけど、正体が分かっちゃうと大した事ないんだね。おばあちゃん。
そう心の中でつぶやいた時、背後から気配がした。振り向くと、あの影が道の真ん中に佇んでいる。
なんだ、そんな所にいたのか。どうせ、お前もろくでもない奴が正体なんだろう。さあ、僕が正体を暴いてやる。今度は逃げるなよ。
僕はレンチを振り上げて、走り出した。影は一言だけ言葉を発した。
「お前はいったい誰だ!」
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 




