ヘル
何時もより少し遅れて教室に入り机に着くと何やら自分の机の上が
濡れていた。訝しげに思って濡らしている原因である液体を手で触れて
臭いを嗅いでみると、鼻が感じ取ったのは何とも言えないアルコール臭。
学校に酒などある筈が無いので、恐らくこれの正体は消毒液だろう。
「・・・・」
暫しアルコールで濡れている机を眺めた後、手持ちのティッシュで
それを軽く拭き取った。周りを見ると、何人かの男子と女子児童がクスクスと
笑っている。汚い私の机を消毒をしてくれてありがとう、とでも言ってやろうかと
思ったがその行為に何の意義も見出だせ無いので止めておいた。
虚しさも惨めさも有るが、怒りは不思議と沸いてこない。
毎日のように繰り返される、こういった行為に麻痺してしまった
とでも言うのだろうか。仮にそうだとしたら、嬉しくない慣れである。
そんなことを考えながら、私はそもそもこんなことになった理由を思い返した。
▽▽▽▽▽
私が周りとは違うということに気が付き始めたのは
かなり幼い頃だったと思う。幼稚園ぐらいだったか。
『それなに着けてるの~?』
小さい頃の私に彼女は私が左目に着けた眼帯を指で指しながら
そう聞いてきた。
『分かんない。パパとママが着けてって』
弱冠四歳の頭でも指摘されたことにより周りは着けていないものを
自分だけは着けている、ということは理解できたらしい。
その証拠に私はその日仕事で多忙な父に自分が眼帯を着けている理由を
聞いたのだ。母にも聞いたと思うのだが、言葉を濁して教えてくれなかった。
『雪加、それはリボンと一緒なんだぞ』
リボン、という名詞自体は知っていたのだが父の言葉の意図する
ところまで考察することは出来ず、私は言葉の意味を父に聞き返した。
『そうだなあ。例えばママは指輪を着けているが何で
着けているんだと思う?』
『う~ん、綺麗だから?』
そんな在り来たりな回答でも、その頃の私にとっては
必死に考えた物だった。
『正解だ。他にもあれは結婚指輪だから記念に、っていうのも有るが
この場合省くとして、じゃあ、リボンは何の為にすると思う?』
『可愛いから?』
『それも正解。まあ、髪を留める為とか......コスプレとかも
有るかもしれないが、取り敢えずはそれで良い』
父は決めつけることを嫌う人なので、ブツブツと例外を
語っていた気がする。
『それじゃあ、パパは何で帽子にバッチを着けていると思う?』
『......分かんない』
父の着けていたバッチは何やらカニのバッチで美しいでも
可愛いでも格好いいでもない気がした。
『パパはな、バッチを着けることで自分の特徴にしているんだ。
指輪も目立つリボンも同じだぞ。皆、自分の特徴の為に着けているんだ』
『じゃあ......私のこれも、特徴ってこと?』
『そうだ。勿論、眼帯だけが雪加の特徴じゃないぞ? その綺麗な
灰色の髪も、暖かい紅葉色の瞳も、賢い頭も、優しい心も
他にも雪加しか持っていないものは全部雪加の特徴だ』
父はゆっくりと、優しく、指を折りながら説明してくれた。
そのお陰で私は周りと違っても個性なんだと安心出来たのだ。
少なくとも、小学生になるまでは。私が小学生になると、担任の教師は
自己紹介を終えた後、全員の前でこう言った。
『雪加ちゃんは、左目に眼帯......包帯みたいなやつですね。
それをしていますが、ふざけている訳ではありません。
雪加ちゃんは生まれつき、左目が見えないからしているんです。
片目が見えないせいで上手に歩けない時も有るけど、その時は
皆さん助けてあげて下さいね』
私の目が普通の人とは違い、片方しか機能していないということは
年長に上がった頃に聞かされていたし、何よりそれも私の特徴であり
個性だと聞かされていたので、こうして皆の前で言われても
別段、恥ずかしいとは感じなかった。
実際、一年生までは良かった。友達が沢山居た訳ではないが
それなりに話をする相手は居たし、何より皆歩き方が覚束ない
私のことを気遣ってくれた。......問題は二年生だ。二年生になり新しい
クラスでも私の眼については説明がなされた。しかし、そんな説明を
聞きながらも興味本意だったのだろうか。ある日一人の男子児童が私に眼帯を
外すように詰め寄り私がそれを拒否したところ、その男子児童は
無理矢理私の眼帯を剥いだ。
その場に教師が居なかったために、直ぐにその男子児童から
眼帯が返却されることはなく、多くの児童が居る教室で
私は一人、義眼を埋めた目を露出させたのだ。
『雪加ちゃん......?」
後ろから話し掛けて来たのは、一年生の頃からの知り合いで二年生も
一緒だと喜んでいた女子児童だった。親以外の人前で義眼をさらけ
出すのは初めてだったのでかなり戸惑いながら、私は振り向いた。
『え......』
振り向き彼女の視界に私の顔を入れると、言葉を失ったかのように
彼女は黙った。この時、私は彼女が何に驚いているか悟った。
『ごめんね、こんなの見せて』
義眼とて万能ではない。完全な元の眼球を再現することは難しいのだ。
特に私の義眼の場合は歪......とまでは、いかなくても他より自然ではない。
さらに手術の痕として目の周りに幾つか生々しい傷が残っている。
そんな物を心の準備なしで見せられたのだから、驚いても仕方がない。
『何、あれ。傷?』
『え......キモ』
その様子を見ていた、周りの児童がそんな言葉を騒ぎ立てた。
その後、男子児童はとてつもなく教師に怒られ親と一緒に私の家へと
謝りに来たが、それを皮切りに周りの私への態度は次第に冷たくなっていった。
それも、これも、あの日に義眼を傷を、露出させたからだ。私の目の
噂は見た者が知り合いへと、そのまた知り合いへと伝えたちまち噂になった。
私を何だと彼ら彼女らが思っていたのかは知らないが噂に尾ひれが付き
眼球が液状になってただとか、傷からは血がボトボトと今でも
流れ出ていただとか、訳の分からない話までも広まった。
『お~い、勘解由小路! 眼帯、取ってみろよ!』
『怪物! めんたま見せろ!』
彼らからしたら、それは明確な悪意を持って放った言葉では
無いのかもしれない。只のイジリ、というノリだったのかもしれない。
今、思えばかなり低レベルなとるに足らない罵倒であった。
しかし、今まで特徴だと、個性だと、聞かされていたものが此処まで
馬鹿にされている事実を私は中々受け止められず、苦しんだ。
何時の間にかクラスの中で私を虐める風潮が出来初め、明らかな無視を
されたり、暴言を吐かれるようになった。更に、あの良く私と話を
してくれていた彼女は私を庇ったせいで虐めの標的にされていた。
不幸中の幸いは私がわざと冷たい態度を取ったり、キツい言葉を
投げ掛けることで彼女が私を嫌い、救済者から傍観者へと
至ったことで彼女が虐めの標的から外されたことだろうか。
私はその事実を教師に打ち明けたが、眼帯の時とは違い明確な証拠が
無かったため揉み消されてしまった。虐めが起きているクラスの担任
というレッテルを貼られたくなかったのだろう。それからはすっかり
人と話すことも無くなり自分でも分かるほど暗くなったと思う。
人と話さないせいで、話すという行為さえも下手になってしまった。
両親はかなり心配していたし、今もしているのでその点は心配を
掛けていると思うが、もう明るく、純粋だった頃の勘解由小路雪加は居ない。
居ないどころか、こうやって過去を振り返っても別人としか思えない。
私立の良い中学校に行けば、この学校の連中と一緒になることは無いだろう。
そうすれば、新しい中学校で本物の、本当の私に戻れるかもしれない。
こんな薄暗く、無愛想で可愛いげのない私は本当の私ではないのだ。
私を追い詰める者が居なくなればきっと明るい自分になれる。
前のように人とも話せる。
在りし日の自分に憧憬の念を抱きながら私は今日もまた
自主勉強用のノートに幻想だけを書き続けた。
▼▼▼▼▼
水曜日。何時もより少し早く帰ることが出来る日で俺の足は弾んでいた。
何せ、学校での楽しみは国語と社会の授業と図書室で本を読むこと
くらいしかない。殆どの児童が持っているであろう、友人という
存在が居ないので話すことも出来ず、学校は苦で仕方がないのだ。
俺は颯爽と下駄箱から靴を取り出し、履き替えると校門を出た。
すると、校門の直ぐ横には見覚えのある人物が居た。
「上里祐也」
俺の名前を暴言以外のニュアンスで呼ぶ者はそういない。
声が女の声だったことから、相手の特定は直ぐに出来た。
「何だ? 勘解由小路」
其処に居たのは長い灰髪を風に吹かせながら、静かに佇む
勘解由小路雪加だった。彼女の方から話し掛けてくるとは何用だろう。
「......貴方、私に止められる覚えは無いの?」
勘解由小路は相変わらず、冷えきって無機質な声で聞いてくる。
目も何処か虚ろで、幽霊のようだ。
「生憎無いな。記憶力はある筈なんだが」
「昨日の、教科書の件。誰かが教師に報告したらしく呼び出しと
話し合いがあった。自分は関係無いとでも?」
勘解由小路は俺を責め立てるように言った。
「そういえば、そんなことしたな。アイツらにギャアギャア言われたく
無かったから教師には俺の名前は伏せて貰ったが」
「何故?」
「学校内の治安維持のため」
俺は間違ってもお前のためでは無い、と暗に伝える。
「......随分、正義感が強いのね」
「いや、別に。治安が悪かったら俺が不利益を被るかもしれない
ってだけ。他のやつらのことは知らん」
「......捻くれてる」
「テメエだけには言われたくない。勘解由小路」
俺は青筋を額に浮かべながら、言う。
「私は常に素直で虚言は吐かない......つまり、正直者」
「思ったことを何でもかんでも、言うのは世渡り下手って言うんだぞ」
「人のことをそうは言うけど、貴方も大概要領悪い。
虐められている時点で世渡り上手で無いのは自明の理......」
「うるせえ」
見透かしたような表情で勘解由小路は言ってきた。
しかし勘解由小路の瞳は何処か蔑むようで、少しだが彼女から
感情、というものを感じた。
「兎に角、誰が今日私から事情聴取という形で貴重な時間を
奪ったのかは理解した」
「人聞きが悪い。あいつらが余計なちょっかいを掛けてくることが
少なくなるかもしれないんだから、多少なりともお前にメリットも
あっただろ」
「その効果がどれだけ見込めるのかは未知数だと思う」
俺の言葉に彼女は強く反応する訳では無く、酷く淡白な様子で
意見を述べた。
「一時的にお前の物を奪う、という行為は収まると思うぞ。
持続するかどうかは知らんが」
「自棄に詳しいのは......経験済みだから?」
「そういうこと」
俺は若干投げやりにも聞こえる風に応えた。
「......帰る」
勘解由小路は突発的にそう言い、早歩きで進み出した。
用件が済んだようなので、俺も帰って良いだろう。俺は
自分の家がある方向へと歩き出した。
「あの......何で着いてきているの?」
「あ? 俺の家もこっちの方向に有るんだよ」
俺は戸惑うように聞いてきた、勘解由小路に歩きながら言った。
「......因みに家はどの辺り?」
「向こうの方に見えてるマンション。徒歩で25分くらいだな」
俺は決して、近くは無い距離のマンションを指で指して答えた。
「......嘘」
「真実だ。一体、嘘つく理由が何処にあるんだよ」
俺がそう言うと、勘解由小路は急に立ち止まった。
「勘解由小路?」
俺は明らかにおかしい勘解由小路の様子を訝しく思い
彼女に合わせて立ち止まると、声を掛けた。
「私の家も貴方と同じマンション......みたい」
「は?」
俺はその言葉に一瞬、耳を疑い聞き返した。
「......今までお互いに興味も無かったから、気付かなかったけれど
常に同じ通学路を私達、使っていたみたいね」
「はあっ!? 偶然にも程が有るだろ」
登校も下校も一人の俺はすることも無いので人間観察と称して
人の会話を盗み聞きして、暇を潰す......なんてことをしていたのだ。
多くの児童が別れることになる交差点を抜けてからの通学路を
利用する者の顔は同学年は愚か、他学年まで殆ど覚えているのだが
どうにも彼女の顔に見覚えは無い。
ましてや、同じマンションに住んでいたのに一度も
顔を合わせたことが無いのは奇跡にも思えた。
「私に文句言ったって知らない。恨むなら同じマンションに
引っ越してきた自分自身を恨んで」
勘解由小路はそう言うと歩き出した。別にアイツと同じ通学路だから
嫌、とかではないのだが。
「......別に、同じ通学路だとしても歩幅を合わせる必要は無いでしょう」
彼女は少し歩くスピードを早めながら言った。
「え、ああ、話終わり?」
先程まで会話していたのに、急に勘解由小路が歩き出したため
俺はてっきり、まだ話は終わっていないのかと思い彼女の横を
歩いていたのだ。
「もうとっくに終わった。此処からは互いに無干渉で
帰りましょう。私自身、貴方なんかと帰りたいわけでもないし」
そして彼女は『......というか、寧ろ帰りたくない』付け加えた。
もし、その言葉が普段俺へと暴言を吐いたりしてくる集団のように悪意に
満ちた物で有れば何とも無かったかもしれない。慣れきっているからだ。
しかし、彼女の言葉はそんな生易しい物では無かった。
抑揚が全くなく、恐ろしい程に淡々としていて、悪意など微量さえ
感じさせない。だからこそ、それは純粋に本心から出た言葉なのだろうと
俺が理解するのを早めた。
「ああ、そうか。俺もお前と帰りたいなんて微塵も思って
無かったし別に良い。じゃあな、冷徹女。もう二度と会わねえよ」
「・・・・」
俺がそう応えると彼女は無言で去っていってしまった。
一つ、分かったことがある。先程、俺は彼女の心を表すときに冷徹
という言葉を使ったが本当のところ彼女の本質はそれよりも冷たいの
だろう、ということだ。
正しく、喩えるなら......そう、あまりの冷たさに皮膚が裂けて糜爛。
そして出血した血液が赤い蓮の花に似るという、仏教における
八寒地獄の七番目。紅蓮地獄の主人、といったところだ。
大袈裟ではない。彼女と相対して、話せばその恐ろしさが良く分かる。
しかし.......
「......言い過ぎたか」
俺は何故か今となって、彼女へと放った言葉が失言だったような
気がしてならなかった。




