永遠に分からない謎と妄想
誰もが一度は、考えたことが、あるのではないのだろうか?
生物は何のために、生まれて生きるのか?である。
人間は、物事に理由を求めたがる生き物だが、分かるはずのない答えに直面した時、大半の人は、考えるのを止めるのではないだろうか?
私もまた、その中の一人だった。
ならば何故、唐突にこのような事を書き始めたのか?答えが分かったからではない、ふと思い出したからだ。過去に友人が、言っていた答えを。
今思い返してみると、なかなか面白い話だと思うので、ここで触れてみたいと思う。
まず一般的な理由は、子孫を残すためである。
これは、脈々と繰返し続けられている、紛れもない事実と結果であることは疑いようがない。
ではその先は、どうなるのだろう?
自らのDNAを後生に残したところで、悠久の時を生き延びたところで、待っているのは破滅。
太陽の膨張、はたまた銀河系の衝突、専門家ではないので詳しいことは分からないが、形のある物がいずれ崩れるように、地球だって例外ではない。
ならば何故?
結果が決まっているのに、それに抗うように命を繋ぐのは何故?
だが確かに、私達はそうプログラムされている。
生き延びるために、食欲がある。
壊れないために、睡眠欲がある。
子孫を残すために、性慾がある。
家族を愛でる感情だってある。
目に見えない、何かに操られているのである。
私は、何かしらの罰かと思った。
人は、好きで生れた訳でもないし、産まれる時代も、親も、性別も、運命も、選べない。
いや、私が選べないだけで、他の皆は、二周目、三周目の生涯を歩んでいるのでは、と考えたことすらある。
いずれにしろ、こんな事を考えるのは、知能を与えられた人間だけで、考える事自体が罰なのかもしれない。ならば本能のままに生きている、自然界の生物達と比べ、罰レベルが高いのではないだろうか?
分からないので、私は考えることを止めた。
分からないなりに、人の定めたルールの中で、人に迷惑かけない程度に、人性楽しめば良いのではないか?という結論に至った訳である。
ここで言っておくが、決して、生まれつき子を残せない人や、独身主義の人や、偉人が成した事を無駄だと、否定している訳ではないので、そこは、ご容赦頂きたい。
その人達の残した、遺産の恩恵で、私は今日も生きているので、むしろ感謝すべきである。
さて、勿体ぶってしまったが、友人の言った答えはこうだった。
「世界の終わりを見るためだよ」
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は?何言ってるんだ?と、お思いだろう。
私も最初はそう思った。
地球の終わりを見ることなんて、子孫にとっては苦痛以外なにものでもないだろう。
例えば自分の子が、理不尽な嵐の中で問答無用に滅ぶのを望む親は、ほぼ居ないと思う。
ただ、子孫を残すというのは、そういう事だ。というのも事実なのである。
では、その残酷の先に、何があるのか私は考えた。
地球の終わりを見る事によって、何かボーナスが与えられるのではないだろうかと。
スピリチュアルな世界が存在するのであれば、死後の世界で、上で述べたように選択権、あるいは特権のようなものが与えられるのではと?
全く理論的ではないが、分からない以上、妄想は自由でなのである(笑)
そう考えると、一番有利なのは何か?
ゴキブリや鼠や細菌類が上げられるだろう。
確かに彼らの生命力、繁殖力、は凄まじい。
純粋な、生存能力で考えれば、私達人間は彼等の足元にも及ばないだろうが、人間には、知能や科学ある。
彼等ならば、或いは地球の終わりを見れるかもしれない。
ならば人間はどうだろう?可能性は低いが、地球の終わりどころか、宇宙の終わりまで行けるかもしれない。
そう考えると、少し希望が沸いてこないだろうか?
考えることは、罰でもあるが、同時に武器でもあると信じたいところである。
さて、その先の、ボーナスが与えられ後はどうなるのか?
そんなものは、決まっている。
それは皆様の想像の中にあるのです。
妄想するのは自由なのである(笑)
その結末は、皆様の作品なのだと考えるのも、面白いかもしれない。
駄文失礼しましたが、結局生物は、与えられた生を生きるしかないんですよね。
今日も私は、妄想しながら懸命に生きています。